生きることは、基本的に不快であり、死んだほうが楽である。だから、生命の危機が迫ると物凄い鞭で発破をかけて、人間を頑張らせるのが、痛みではないか。痛みが消えた反動で、物凄い快楽を与えることにより、生きていることが幸せだと感じさせている。つまり、物凄くきつい、飴と鞭である。

 

痛みとは、最大の不快である。意識を失わせないで、細胞が再生を妨げられているという事を脳に伝えている。このまま放っておくと死にますよと、教えている。痛みを消したいが為に必死になって叫んだり、わめいたり、薬を飲んだり、病院に行ったりして、助けを求める。これにより、壊され続けている部分を修復すると、やがては痛みが消え、生命が維持される。意識を失っているときは、もう生きる意欲がないということである。

痛みの修復、すなわち治療に苦痛が伴うのは、残された正常細胞にもダメージを与えなければならないときである。

 

物凄く不快にさせておいて、不快が取り除かれたときの、快は物凄く快である。生きたまま天にも昇る気持ちである。快だけで快を感じる事は、出来ない。不快があってはじめて快を感じる事が出来るのだ。いわば、快を感じさせるための不快である。

 

笑うことが快楽物質を出すとか、治癒力を高めるとか、あるいは痛みの緩和につながるという話をよく聞く。笑っているということは、生きる意欲があるという、自分の身体に対する意思表示ではないか。笑うことで、身体に対して私はまだ生きたいと思っていますと、言い聞かせることで、自分を殺す作用を働かせないようにしているのだ。

 

痛みは創造の源となる。身体の痛みをとるために、医療が発達し、心の痛みから、芸術などが生まれた。

科学技術を発展させることで、人類の寿命がのびているらしいのは、自然の摂理ではないか。自然は、何億年かけて破壊と創造を繰り返し、人類という創造物を創造し続けているのであろう。