目次
〈笑いと暴言は紙一重〉
〈生物は自ら体内に毒を生成して、水を循環させ自己浄化し、生命を維持している〉
〈酒は量を間違えると毒になる〉
〈価値観の違いを笑いとして摂取すれば薬の効能があるが、笑えないと毒として作用する〉
〈ジョークは仲間をかぎ分けるリトマス試験紙であり争いを避けることができるが、きつ過ぎるジョークは暴力になりうる〉
〈メディアの情報は強く伝わり過ぎるため、冗談が毒になる可能性も高い〉
〈マニア向けと一般向けの笑いの両方が芸人を救い観客を救う〉
〈芸人とファンの接触は一時所得が高くなるが、制御しないとトラブルとなる〉
〈空気を読めない者は芸人に向かない〉
〈笑いのプロは泣かせるプロ〉
〈心優しい進歩的な社会不適合者が、人々に笑いをもたらす新しい作品を生み出す〉
〈先を読める社会不適合者が、社会と社会不適合者の接点となって、社会の歯車を動かしていた〉
〈真面目と不真面目のバランスが安全を守る〉
〈お笑い芸の隆盛が勤勉さの誤解を生んでいる〉
〈笑いを追求し過ぎると寿命を縮める〉
〈皆が勤勉に働く世界が皆で笑える世界を実現する〉
〈笑いと暴言は紙一重〉
笑いは一般的に健康に良いとされる。
「笑うという行為自体」は、確かに本人の健康だけは増進させる。
しかし、「笑いを提供する側」が質と量とターゲット層を間違えると、需要者にとっても供給者にとっても命取りになる。
笑いは、危ないと感じるギリギリの線で起こり、主観であり、個人ごとに異なるため、価値観が多様化した現代では「万人受けする笑い」の種類は少ない。
同じ内容であっても、ある人にとっては「笑い」と受け取られても、ある人にとっては「暴言」ととらえるような事柄は、世の中に無数に存在する。
〈生物は自ら体内に毒を生成して、水を循環させ自己浄化し、生命を維持している〉
動物は、尿を排泄しないと尿毒症で死ぬ。
動物は、自己内部で毒素を生成し、毒素を排出するというメカニズムで循環を起こし、生命を維持している。
毒素を自己生成することなしに、生命は保たれない。
つまりヒトは、毒をある程度摂取して、排出することで綺麗な身体を維持している。
自然界には、人間にとっては毒となるような危険な物質が、数多く存在している。
動物は、微量な危険物質も食物と一緒に取り込み、排泄することで体内に循環が起きて、はじめて身体を動かすことができる。
〈酒は量を間違えると毒になる〉
カフェイン、アルコールなどの毒性の弱い飲み物を摂取すると、利尿作用が働く。
身体は、長く留めておくと命取りになりかねない危険物質を、いち早く排出しようとして、心臓が早く動き、その動きの電気信号が膀胱へと送られ尿意を催す。
カフェインやアルコールを適度に摂取すると、心拍数が上がることにより、全身と脳に血液が巡り身体が動きやすくなり、活動性が高まる。
「酒は百薬の長」と言われるのは、ほどよい飲酒が健康的に大脳を休めてくれるためである。
だが、程度を間違えると健康を害する。
その人が飲む時の体質や体調、精神状態、酒の種類や量によって、酒は薬にも毒にもなる。
アルコールで程よく大脳を麻痺させることで、幼い頃の自分の本音の部分が露呈し、物事をありのままに感じることができて悩みが吹き飛び、子供の頃のように、はしゃぎまわれる。
ほろ酔い程度の飲酒は、普段大脳を酷使して働く人にとっては、大脳を適度に休めることができる、手軽な方法である。
大脳を麻痺させすぎると、もっと先祖返りして野性の本性があらわになり、平常時に強い攻撃性を抑えて生活している人は、目が座ってくる。
ここで、アルコール耐性のあまり無い、酒に弱い人は、暴言を吐こうとしても、ろれつが回らず、暴れようとしても身体から力が抜けて、自分で動きの制御ができなくなる。
そのため、他人にはさほど迷惑はかけないものの、痛みを感じにくいため、自分が大けがをしやすい。
アルコール耐性を持った、酒に強い人は、身体の活動性が下がらないので、暴力事件を起こしやすい。
普段、攻撃性を発揮せずに我慢している人が酒を飲み過ぎると、酒に弱い体質の場合は大けがをし、酒に強い体質だと暴力沙汰を起こして身を誤る危険性がある。
アルコールを急激に摂取し過ぎると、アルコールの毒性が強まり、身体はもっと早くに排出しようとして、嘔吐という反社神経が働く。
嘔吐によって全て吐き出し、アルコールが全て体内で分解されれば反射が治まるが、アルコールの作用で大脳が働かず意識がなくなると、嘔吐物がのどに詰まったり、大脳の呼吸中枢が麻痺して呼吸が止まったりして、窒息死する。
〈価値観の違いを、笑いとして摂取すれば薬の効能として発揮されるが、笑えないと毒として作用する〉
多少の価値観の違いを「笑える程度の違い」として受け止める時、面白味を感じて人は笑い、その価値観を受け入れることで発想の転換が起こり、生きる活力が湧く。
逆に、違いの程度が大き過ぎると、場合によっては怒りとなる。
あまりにも突拍子もない違う価値観は笑えない。
思考のぶっ飛んだ者を、仲間だと認識していれば尊敬できて感心し、その発想の転換が生きる糧となる。
しかし、ぶっ飛んだ思考を持つ敵は、脅威に感じる。
敵か味方かの二元論者が、思考のぶっ飛んだ敵を脅威としてとらえた場合、自分がやられる前に先制攻撃をしかけて争いが起こる。
価値観の違う者の発言内容や行動を見て、「ヘドが出る」という表現をすることがある。
その価値観を自分は受け入れられないという意味である。
反吐が出るような悪臭を漂わせる価値観を、正面からまともに浴びると争いが起こる。
吐気が出る前に、そこから距離を取って離れて行けば、自分は苦しまずに、相手にも迷惑をかけなくて済む。
反吐が出るほどに、違う価値観を受け入れる必要はない。
悪臭一歩手前の、ちょっと危険な香りくらいの弱い毒を摂取すれば、自らの命を危険にさらすことなく、「薬」として取り込むことができる。
〈ジョークは仲間をかぎ分けるリトマス試験紙であり争いを避けることができるが、きつ過ぎるジョークは暴力になりうる〉
人は冗談や適度な暴言を吐いて笑い合うことで、自分と価値観が似通った者をかぎ分けている。
冗談への反応が仲間意識のテストになる。
価値観の近い者同士は仲間と認識し合い、自然と集まるようになっている。
冗談が通じずに怒らせてしまうような者との過剰な接触は、争いが勃発するので、あまり近づいてはいけない。
類は友を呼ぶという現象は、無駄な争いを避け、エネルギーの無駄な消費を無くすために自然に身につけてきた人類の智慧である。
冗談は、威嚇をせずに敵同士が近づき過ぎるのを防ぐことができるので、エネルギーを省力化できる。
さらに、価値観の一致で笑い合えた場合は、その連帯感で互いにエネルギーを生み出せて、仲間が増える。
特定の少数派層に強く刺さるキツイ冗談は、思想の偏りが強く、排他的で、その笑いを理解できない者を嘲笑する笑いとなる。
その嘲笑の対象者がその場にいる場合、笑いではなく暴力となる。
キツイ冗談は、ターゲットを絞れば絞るほど、それを受け入れることのできない者にとっては、猛毒兵器となるため、注意深く相手を見極めて言う必要がある。
仲間同士でキツイ冗談を言い合って、第三者を嘲笑しているのを他者に見せつけて、理解できない者に対するマウントをとるというような威嚇行為は、野蛮な人間のする態度である。
威嚇は、大脳がやや発達した動物が、直接の争いを避けるための行為であるが、まだ野蛮な段階であり、エネルギーを消耗し、うまくやらないと争いが勃発する。
相撲の横綱の土俵入りやプロレスのマイクパフォーマンスなど、格闘技の興業で戦う者が最初に行う威嚇合戦は、人間の野性の力強さを表現する、威嚇行為のエンタメ化であり、興行全体を盛り上げ、士気を高める効果がある。
威嚇行為の昇華が格闘技やスポーツ、芸術の萌芽でもある。
〈メディアの情報は強く伝わり過ぎるため、冗談が毒になる可能性も高い〉
SNSなどでの、文字情報、画像データ、音声データなどの信号化されたデータは、他の情報のノイズが無く、より情報として凝縮されるため、特徴がデフォルメされてしまう。
そのため、発信者の持つ、ある一部分の特徴だけが聴取者に強く伝わる。
ラジオなどの音声だけのメディアの方が、視覚情報のある画像配信よりも、音声情報だけで容姿や背景などの視覚情報がないので、言っている内容だけが直接伝わりやすいため、パーソナリティとリスナーの精神的関係性を濃厚にする。
媒体を通してデータだけでやり取りすると、直に会って面と向かって口では言えないような事柄でも、自分の考えだけをストレートに表現できるため、その内容だけが直接伝わり、相手に深く刺さる。
しかしその分、冗談で言ったつもりのことが、受け手を深く傷つける可能性も高まる。
悪ふざけや冗談の発信は、ターゲット層を間違えると攻撃ととらえられる可能性がある。
SNS、メディアなどを使っての不謹慎な発信は、価値観の異なる不特定多数の人に伝わるため、注意が必要である。
〈マニア向けと一般向けの笑いの両方が芸人を救い観客を救う〉
笑いとは、プラトニックな価値観の共有であるため、芸人と客との間に恋愛感情が芽生える。
いわゆる「芸に惚れる」という状態である。
マニアに人気がある濃い笑いを提供する芸人は、熱狂的なファンとの心理的距離が近くなる。
狂信的なファンは排他的になり、芸人を囲い込み、ライトなファンを受け入れにくい雰囲気をつくり、新たな顧客層の獲得を阻害する。
その結果、芸の質がマニア受けするネタばかりになり、マンネリ化して進化しない。
熱狂的ファンほど飽きてくると冷めるのも早く、芸人自身がマンネリ化を防ぐ努力を怠っていると、ファンが離れていき、結果的に芸人としての寿命が短くなる。
生存戦略に長けた芸人は、笑いの質と濃さを聴衆ごとに調整する能力を持っている。
そうすることで、自分の所得を調整している。
様々な価値観を持つ層に向けて、笑いの質と濃さを変えることで、聴衆を傷つけない笑いを届けている。
万人受けする笑いの提供は、笑いの濃度は薄まるが、多くの人々を幸せな気持ちにさせるため、多くの人に好かれる結果となり、それが高所得につながる。
様々な層にも受け入れられる、幅の広い、豊富なネタの数が芸人の命をつなぐ。
〈芸人とファンの接触は一時所得が高くなるが、制御しないとトラブルとなる〉
人は他人と接するとき、人体が微量に発する電波によって、空気感を伝えている。
人は、何らかの原因で緊張が高まると、動悸が激しくなり、緊張のオーラを発して他者に緊張感を伝える。
人との初対面などでの緊張感は、「あなたを危険人物と認識しているので、あまり私には近づかないでね」と身体が発信している。
この時、親切心を起こして、緊張した者にとって嫌悪感を抱かせるような者が安易に近づいていくと、神経を逆なでして拒絶される。
つまり、嫌いな奴が親しげに近づき過ぎると、もっと嫌われる。
落ち込んでいる時に、日頃から親しみを感じて安心できる仲間であると認識している者が優しく肩を抱いてくれると、単なる仲間から昇格して大好きな仲間であると認識するようになる。
日頃から多少の好意を抱いている異性である場合、肩を抱かれただけで完全に恋に落ちてしまう。
お笑い芸人は、要注意の危険人物であるため面白い。
危険な香りが芸人の魅力である。
人は、やや危険な者を嫌いであると感じたり、面白いと感じたりする。
客は、話芸に面白味を感じると「芸」に惚れ、面白いことを言う芸人と接触し、心地よさを感じると「芸人」に惚れる。
芸人とファンとの接触は、恋愛感情を強くする。
ライブ芸人は、ファンに恋愛感情を抱かせることで熱狂するファンを獲得し、一人当たりの芸人に支払う報酬額を高く設定し、高収入を得ることを目指している。
しかし、芸人とファンとの適切な距離感を制御せずに、ファンを熱狂させ過ぎると、ファン同士の揉めごとが多くなり、営業の疑似恋愛であることを理解できていない勘違いしたファンが芸人に近づき過ぎてトラブルとなる。
〈空気を読めない者は芸人に向かない〉
人には、人種や性格によって、適切なパーソナルスペースがあり、精神的、身体的接触を不快に感じる人も多い。
日本人は一般的にこの距離が広く、あまり近づくのを嫌う傾向がある。
日本国内で「空気を読めない人」と言われる人々の多くが、このパーソナルスペースが狭く、心的距離を急激に縮めようとし過ぎる傾向があり、相手の心に土足で踏み込んでは、相手を傷つけてしまうということが多々ある。
「空気を読めない人」は、他者を傷つけているという自覚がなく、周りから敬遠されて、無視されるなどのいじめを受けやすい。
このような「今現在の空気感を読めていない」社会不適合者が様々な問題行動を起こしている。
これとは逆に、「一歩先の社会の空気を読んでいる」ために、今現在の社会の空気に違和感を抱いている「進歩的な社会不適合者」がいる。
同じ社会不適合者でも、空気を読めない人と、一歩先の空気を読んでいる人とでは、全く性質が異なる。
先を読める進歩的な社会不適合者が、道を見誤ると犯罪者となり、芸に出会うと鋭い社会風刺を得意とする芸人になる。
このような社会不適合者が、犯罪者となるか芸人になるかは、環境と出逢いが命運を左右する。
芸人が生き残るには、客席の空気感を読むことで顧客層を見極め、笑いの質を変え、傷つくファンを減らし、所得調整をする能力を必要とする。
空気を読めない芸人は、観客に刺さる芸を提供できなかったり、観客を傷つけてしまったりして、ファンの獲得が上手くいかずに所得を得ることができない。
〈笑いのプロは泣かせるプロ〉
優れた作品には、聴衆一人一人の心の中にある漠然とした感情に共鳴する核がある。
人間は産まれ落ちた瞬間から、誰しも孤独の苦しみを抱えて生きている。
優れた創作者は、自ら孤独の中に入り込み、大脳のメタ認知機能を使って物事を深く深く掘り下げ、無限の世界とのつながりを持つことで、孤独から解放されている。
人は、狂ったように熱中して物事に専念し、創作に没頭する時、爆発力を生み出し、時間感覚が無くなり、永遠の世界に生きることができる。
永遠を生きる時、この世の苦しみから解放される。
孤独の中で、孤独から自らを救済するのが創作である。
自らを救った創作物の核心部分が他者にも伝わった時、お互いに孤独な者同士であるという共感の安堵が生まれる。
作者と同じ違和感を共有できたとき、人は笑う。
作者と同じ痛み、同じ苦しみを共有した時、人は泣く。
喜怒哀楽の同じ感情の共有が、人が分かり合うということである。
お笑い芸人は、人を笑わせるプロであり、泣かせるプロでもある。
人が違和感として感じとる微細な変化に感受性を持った、神経の細やかさがお笑い芸人には必要とされる。
笑うか泣くかの境目は、微妙なラインにあり、人生を積み重ねることで、その境界線は変化し、個人個人の思想によっても異なる。
二元論者は違和感を「哀しみ」ととらえて思考停止するが、多様性を受け入れる思想の持ち主は、違和感を「面白い」ととらえて疑問がわき、さらに思考が進んでいく。
笑いの許容範囲の広さが、面白いと感じる能力を表しており、好奇心のある人間性の現れである。
好奇心旺盛な人間は、鋭い観察力を持ち、ちょっとしたことでも面白がり、多くのものを愛で、懐が深く、創造力が高い。
優れた芸人は、どんな小さい出来事にも面白味を見出し、それをいかようにも面白おかしく解釈し、笑いに変換する能力がある。
〈心優しい進歩的な社会不適合者が、人々に笑いをもたらす新しい作品を生み出す〉
現代社会の空気の違和感を感じとって、生きづらさを感じている進歩的な社会不適合者が、新しい創作物を生み出す。
空気を読み過ぎて、他者を傷つけるのを恐れ、自分の内部に溜まったうっぷんを攻撃として直接他者に向けて表現できない心優しい無口な者たちが、黙々と創作に専念する。
そういう心優しいクリエイターが、生きづらさを感じて苦しむ人々を幸せに導く、新しいキャラクターを提供してくれる。
人は攻撃力の表出を抑えれば抑えるほど毒素が溜まり、自らの生み出す猛毒によって化け物と化してしまう。
社会に反発する攻撃力を直接表現できない、大人しいクリエイターたちが、ゾンビ、お化け、ミュータント、鬼、モンスター、妖怪などの、おぞましくも哀しい、ちょっと愉快な架空のキャラクターを数多く生み出した。
これらの、いたずらっ子で、時に冗談がキツ過ぎる濃いキャラクターたちが、社会に過度に適合してしまって苦しむ真面目な人々に幸福をもたらしてくれている。
〈先を読める社会不適合者が、社会と社会不適合者の接点となって、社会の歯車を動かしていた〉
かつての宗教団体、かつてのヤクザ組織などは、社会不適合者の救済の場であった。
落語家の集団も、様々な血筋の氏素性も分からぬ者を受け入れ育ててきた。
時代を超えて、老若男女、誰にでも通用する笑い噺などを継承し、噺を作る能力が無い者でも、いつの時代に生まれたとしても生きていける技術を受け継いできた。
落語家の修業形態、組織運営、古典落語と呼ばれる噺の内容には、先の先までの未来を見据えた先駆者たちの生きる智慧がびっしりと詰めこまれている。
かつての社会からはみ出した組織は、組織運営力のある社会不適合者が仲立ちとなって、社会との接点を持ち、部分的に社会の歯車に噛み合うことで、社会の大きな歯車を動かす原動力になっていた。
〈真面目と不真面目のバランスが安全を守る〉
尊敬を仰ぐような責任の重い仕事に就き、なおかつ真面目な人が、盗撮や児童わいせつなどの犯罪で逮捕されるニュースが報道され、しばしば話題になる。
善行と悪ふざけをする割合と、それを行う場面選びが、その人の人間関係の円滑さと社会性を決める。
たくさんの人の命を守る仕事に就く人が、職場であまりにもふざけるのは大量殺人行為である。
しかし、プライベートでは、いくらふざけても誰も死なない。
大脳を酷使して四六時中マジメに生活していていると、大脳が休まらないため、呼吸が浅くなり、深呼吸する暇がなくなり酸素が大脳に届かずに、エネルギーが貯められない。
エネルギーを貯めずに、職場で真面目に働くことはできない。
命を守るような緊張した職に就く人ほど、プライベートでの息抜きが必要である。
声を出して笑うことは、誰にでも手軽に簡単に深呼吸できる良い方法である。
日頃から、卑猥な発言や暴言を吐くような困ったおっさんほど、勤勉に働く者が多い。
冗談や悪口、遊びは、日常生活で蓄積された毒素のデトックスをしてくれる。
真面目な人ほど適度にふざけることを心掛けて発散しないと、毒素が溜まり悪魔に変身してしまう。
真面目過ぎる人ほど、殺人事件を起こす。
不真面目な者に不寛容な社会は、真面目過ぎる者の暴走を止める者が誰もいなくなり、とても危険である。
不真面目な社会不適合者を社会から抹殺することは、同時に真面目な社会適合者をも殺す行為である。
公の場での発言内容の規制が厳しく、真面目さが行き過ぎた、表現の自由がない社会では、あまりにも社会の本質をついたキツイ冗談を公の場で言い過ぎると、社会から完全に消される危険性がある。
戦時中の日本では、多くの不謹慎な落語が禁演落語として封じられ地下に潜った。
真面目過ぎる人を止めることができない社会が、さらに日本を戦争へと駆り立てた。
敗戦後は、その反動で不謹慎なお笑いが爆発し、国が活性化し経済成長を果たした。
現在日本は、また不謹慎が封じ込まれようとしており、とても危険な状態である。
〈お笑い芸の隆盛が勤勉さの誤解を生んでいる〉
現在、日本ではお笑い芸人の社会的地位が向上してきて、高学歴の芸人が増えている。
社会に矛盾を感じて苦しむ、高学歴な社会不適合者が増えているという現れでもある。
高度経済成長期は、理論構築が得意な者が全体を俯瞰して、組織や社会の基礎理論を構築し、理論構築の苦手な労働者と協力し合って、皆が一緒になって勤勉に働き、高度な社会インフラを構築してきた。
そして、社会の歯車に乗れずに社会不適合とみなされた危険人物たちの、爆発的で不謹慎な「お笑い」が、勤勉に働く者たちの心の支えになっていた。
多くの勤勉に働く者と、少数の不真面目なお笑い芸人という絶妙なバランスが国を強固にした。
〈笑いを追求し過ぎると寿命を縮める〉
金融経済が急速に発展し出した頃から、金融知識の豊富な知識層が富を独占するようになり、こうした高所得者層を狙う凶悪犯罪が増えた。
現在日本では、理論構築の苦手な者が、誤ってトップに立たせられている組織が数多くあり、組織の成長を阻み、つぶしている。
本来トップに立つべき理論構築に優れた者が、補助的な業務に従事しており、トップに立つべきではない者がトップに立っている組織が数多く存在している。
金融経済の異常な発展により、実力ではなく、コネや富の力で権力の座に就く者が増え、全体をフラットに俯瞰してみる者が不在で、経済が崩壊しかけている。
依存する事だけで今まで生き延びてきてしまった者は、勤勉な者を嘲笑し「正直者は馬鹿を見る」という。
こうしたことが、まことしやかにささやかれる中で、この言葉をまともに信じて、勤勉に働く意欲を失う者が続出しており、至る所で労働者の人材不足が起こっている。
依存体質の人間が増えた結果、自分だけが「ウケて」、自分だけが得をすることだけに価値をおく者が増え、「自分の勤勉さによって他者に幸せを与えることで自己満足する」という事に価値を見出す者が減りつつある。
3Kと言われる、「キツイ」「汚い」「危険」な仕事に真剣に取り組み、勤勉に働く者なくして、皆が笑える社会を支えるためのインフラを維持することは決してできない。
勤勉とは、全身全霊を傾けて、一生懸命になって、人々の幸せのために、物事に励む姿勢と行動である。
人間は、他者を助けることなしに心から笑うことはできない。
どんなに過酷な労働であっても、勤勉に働き他者を助けたと感じた時、その労働は苦役ではなく、至福の喜びとなる。
「本物の笑い」を追求するお笑い芸人は、真剣になって、悪ふざけに精進している。
敢えて社会の毒を過剰に摂取し、自分の身体を傷つけて、それを笑いとして出力する過程で、自己浄化し、パワーを生み出し、そのパワー溢れる笑いを人々に届けるということに日々邁進している。
「本気のお笑い芸」とは、「キツイ」「汚い」「危険」の三拍子がそろった、過酷な労働である。
自虐が行き過ぎるとマニアに刺さる爆発力のある笑いを生むが、追求すればするほど、やがては理解者が誰もいなくなり、独りで喜んでいる、ただのきちがいになる。
きちがいは、現代の日本社会では、社会からだけではなく、この世から完全に抹殺される。
日本は今や、きちがいになることが許されない社会である。
酒はきちがい水とも言う。
現実世界の孤独の苦しみに耐えきれず、きちがいになりたい者がアルコール依存症になる。
狂うために酒を浴びて、きちがいになりたいほど苦しむ孤独な人々が、社会との接点を持てずに、独りで狂い、独りで死んでいく社会である。
かつての昭和の芸人たちは、酒に溺れ、博打に溺れ、女に溺れ、借金、犯罪、薬物依存など、様々な問題行動を起こし、その自虐性から、自らの毒で寿命を縮めてきた。
多くの優れた芸人たちが毒を肥やしに芸道を極め、それが真実の芸の道であると強がりを言って夭逝した。
笑いに真剣に取り組み、追求すればするほど、一歩間違えれば命を取られる世界であるということを、笑いの芸道を極めようとする者は覚悟しなければならない。
〈皆が勤勉に働く世界が皆で笑える世界を実現する〉
皆が、互いに冗談を言い合って笑い合いながら勤勉に働くことで、綺麗な世界が実現する。
そうすれば、光り輝く黄金が世界に循環し、その力で皆の傷が癒され、世界中が歓喜で満たされて、皆が人間の尊厳を保ちつつ寿命を全うできる、美しい世界が実現する。