生活に追われていると、自分のすべき事で精一杯になり、物事を俯瞰して見る事が出来なくなる。
かつて日本では、お坊さんや遊行僧などの宗教者が、説法などを通して、社会の歯車からあえて、はずれた位置から、一歩引いた目線で物事を俯瞰して見せてくれた。
庶民にとって、神社やお寺などに集まったり、おまいりしたりする事は、生活を離れて、自分を俯瞰して見る事が出来る貴重な時間であった。
それが今日、エンタメとして、形を変えて発展してきた。
エンタメは産業である以上、金の無い者は、うけとる事が出来ない。
だから、どうしてもエンタメは、金持ちのためのモノになってしまう。
だからこそ、貧富の差に関係なく、誰もが集える祭りなどには、重要な意味がある。
しかしながら、現代では、お祭りさえもが産業色が強くなりつつある。
宗教の形をした営利目的の団体も多々ある。
そのため現代人は、お金から離れた、フラットな目線で物事を教えてくれる人に接する機会が極端に少ない。
全ての物事が金と結びついている。
その世の中の歯車のただ中に身を置きすぎると俯瞰で物事が見えなくなる。だから、宗教や芸術、学問などを志す人は、いつでも一歩引いて見る視線を保てる姿勢を、持ち続けなければならない。
修行僧が禁欲を守る理由の一つには、子が出来ると、どうしても社会の歯車に乗らなければならず、一歩引いた所に身を置けなくなるから、という意味合いもある。
我々人類は、「自分」の遺伝子ではなく、「自分達」の遺伝子を残そうとする生物である。
生命は、オスをメス化させて、オスとメスの比率を変えたりして、種の個体数を調整する事がある。
生殖能力を持たない両性具有の個体なども誕生したりする。
生殖をあきらめた個体は、生殖能力を持つ者を助ける事で生き残り、種としての繁栄に貢献する。
自己の遺伝子を残す事をあきらめた人は、事物を創り出す事で、人類の存続に貢献する役割を与えられた人である。
ヒトは異性以外にも恋心を抱く生物である。
我々は生命現象であるため、事物を創り出すメカニズムは、子育てと同じシステムが働いている。
つまり、事物は恋によって生まれ、愛によって育まれる。
したがって、恋も愛もない種は保存されない。