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中1~中2の約2年間、
不登校だった三男の話をしたいと思います。
思い起こせば、はっきり言うと、不登校になるイメージが全くなかった三男。
それは突然やってきました。
ある日玄関で、お腹が痛いと座り込んだまま立ち上がれなくなりました。
その日は休みました。
翌日は、お腹が痛いと、布団から起き上がれなくなりました。
それから少しずつ、本格的に不登校へと舵を切っていきました。
私は…というと。
毎朝学校に欠席の連絡しないといけないので、どうするのかを三男に聞く。何度も聞く。
聞いても聞いても返事がなく…
「もう、どうするかハッキリしてよ‼️」
と、イライラし出す…
そんな日を数日過ごして、朝の学校への欠席連絡をしないことを担任の先生に申し出ました。
(※学校に行く時にだけ連絡入れます。ということで了承していただきました。)
この学校というところに
「欠席」の連絡を入れないといけない。
というだけで、親子に大きな亀裂が入ると強烈に思いました
それだけ私の中では強いストレスでした。
親にとってもストレスでしかなく。
子にとってもストレスでしかない。
学校にとっても安否確認のために必要(らしい)。 しかも仕事が増える。
とにかく、私の中での、
大きな大きな大変大きな
ストレス
でした
私の親としての仕事(欠席連絡)がある以上、私の責任感や正義感が出てきてしまい、学校や会社に行けないという経験をしたことがない私にとっては、無意識ですが「行くのが当たり前」という気持ちで、結果として朝から三男を責め、追い詰め、ダメの烙印を押し続けていたと思います。
私の大きなストレスを排除したことで、
欠席連絡が無くなってからは、朝から三男と無駄に揉めることも、責めることもせずに済みました。
今は学校側も、様々な子どもの問題に寛大になっているので、不登校に対しても無理やり学校に来させたり、焦らせたり、迎えに来られたり…全くありませんでした。
逆に、優しい言葉を掛けていただき、配慮していただき、子どもの気持ちを尊重してくださり、とても恵まれていたと思います。
家族に任せ、そっとしてくださったのが私や三男にはとても助かりました。
そんな三男が小さかった頃の姿が、今日突然、フラッシュバックしました
小さい頃の三男は、
何でも興味を持って、積極的に体験し、熱狂的に歓喜し、周りにも笑いを起こす。
そんな子どもでした。
周りの誰よりも地球を楽しんでいる。
そんな子ども時代の姿がフラッシュバックしました。
小学校高学年辺りから、
内面は変わりだしていたのかもしれません。
その理由が、今日のフラッシュバックでわかったような気がしました。
それは、競い合う環境から(自ら)離脱したように見えました。
小5から野球を習っていました。
強いチームではなく、練習も週に1回(1時間)だけの緩いチームでした。
そんなチームでも、やはり勝負があり、ポジション争いがあります。
何となくですが、思っていたようなポジションや、満足できる経験は出来なかったのではないかと感じました。
正直、当時の私は子どもの細かい内面に気を配る余裕は全くなく、パートと家事に追われている、子どもに全然寄り添っていない母親でした
それから中学に入ったとたんにテストが始まり、周りは塾に通う子が増えました。
そこで、勝ち目がないと思ったのかもしれません。
その当時は私も双子を塾に通わせる余裕はない。と信じて疑わなかったので、三男がそう(うちにはお金がない)感じていても仕方なかったと思います。
そして学校に行けなくなった状況で、塾に通うというような気力(エネルギー)は残ってなかったと思います。
三男は自ら競争社会を離れたのだというのが、今日わかったような気がしています。
そして三男には双子の姉が居て、
その長女が当時言った言葉が全てだと感じています。
『私は学校行かんとか、絶対無理』
普通(私も含め学校に行くことができる人)の人は、世間や、周りの常識に添って、周りの人と同じようにすることで安心感を感じて生きています。
その生き方は実はとても楽なのだと思います。
言われた通りにやったり、指示通りに動いたり、それをやっていれば認めて誉められる、そしてみんな一緒だから何となく安心感の中の社会だと思います。
その逆の、一人になる、孤独感、更には未来への不安や絶望はとても大きいと思われる不登校を選ぶことの、勇気というのは、やってみた人にしかわからないほど、バンジーするような度胸が必要なことだと思います。
別な言い方では、それを選ぶしかないほど、心を痛めた、疲弊した、絶望の淵にいるということだとも言えると思います。
三次元(物質)社会では、
学校に行くこと。
勉強ができること。
成績がいいこと。
競争に勝つこと。
出世すること。
お金がたくさんあること。
全て良いこと。と思われていることです。
みんなが欲しいと思い、頑張って、努力して、徹夜して、お金をかけ、時間をかけ、手にしたり、獲得したりしています。
でもこういった名誉のような、すごいと言われるような、これらのことは、知ってか、知らずか、誰かを蹴落とさないと上には行けないようになっています。成功とは一つの側面では、誰かの涙の上にしか成立しないことでもあります。
すごいことだと思わされてきたという側面もあります。
ある意味ではその経験で感じる感情を味わって、実はそれでもう目的は果たしていて、それを死守しようとすればするほど、更に上を目指そうとすればするほど、欲や執着にまみれてしまうということだと、今の私は思っています。
そして、こういった三次元で手にしたことや、手に入れたものは、全てあの世(死んだら)には持って行けないものなので、実は空虚なものだということ。
そこが居心地がよく、幸せなら、その人にとっては最高の環境だと思います。
でも、そこが苦しく、焦りや、劣等感に苛まれるようなら、そこからは離れて違う道もあるよというメッセージだと思います。
今日、三男は、
汗だくになって買い物に行き🚴
ギョウザを作り🥟
かき氷を作って美味しそうに食べてました🍧
競争からは離脱しましたが、毎日を楽しく過ごしています
そんな三男を愛おしく感じ
涙も鼻水もチョチョ切れました
競争社会を体験するのも、そういうアトラクションを体験しているだけで。
三男も、汗だく、料理、かき氷、自分がやりたいことに情熱を注ぐアトラクションを体験しているだけなんだ。
と思います。
私は、自分で考えて行動を始めた三男を、信じて見守っていきたいと改めて思いました。
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そして、魂や宇宙の意識で、神として生きるために、絶対的に必要なものがあります。
それは、自分が神だということを
『信じる』
こと。
神の分け御霊だと、一ミリの疑いもなく
『信じる』
ことだと感じています。
これまで3年間探求してきて、
やっとたどり着きました。
疑いがあるうちは、神になることは不可能だと感じています
日々そのように行動して、信じる心を体感して強くしていきたいと思います。
糸島の話をされています⬇️
ご興味ありましたらご覧くださいね
最後まで読んでくださいまして
ありがとうございました(*^^*)