坂本龍馬ゆかりの地 京都【伏見編】 | 坂本龍馬資料館ーRyoma Museumー

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■寺田屋
住所:京都府京都市伏見区南浜町263
営業時間:10:00~16:00(15:40受付終了)
定休日:月曜不定休 1/1~1/3
入場料 :一般400円、大高中学生300円、小人200円


寺田屋は慶長2(1597)年に創業された伏見の船宿です。

幕末期の、寺田屋女将であるお登勢は近江国大津で旅館を経営していた大本重兵衛の次女として生まれました。

お登勢

18歳で、伏見南浜の船宿である寺田屋の第6代目主人寺田屋伊助の妻となり、一男二女をもうけ、夫の経営を悪化を、代わりにお登勢が取り仕切り繁盛させたという凄腕の女性です。

このお登勢は、とても面倒見が良く大変働き者だったそうで、姑の面倒も見ていただけではなく、国の為に奔走する志士達を寺田屋にかくまっていました。

坂本龍馬にとっても、寺田屋は京都における実家の様な感覚で、お登勢は京都の母代わりの様な存在だったようです。

後に龍馬の妻になるお龍も、龍馬に託されると自身の養女として扱い、お龍の母に仕送りまでしていました。

また寺田屋における大きな事件は、「寺田屋騒動」と「寺田屋事件」の二つがあります。


■「寺田屋騒動」とは?

文久2(1862)年4月23日。

薩摩藩急進派有馬新七以下35名が関白九条尚忠と京都所司代の殺害を計画して寺田屋に集結しました。


この時の薩摩藩は、藩内でも尊皇攘夷と佐幕に考えが割れており、統率が行き届いていませんでした。

薩摩藩は藩士を有馬達の鎮圧に向かわせましたが両者乱闘となり、有馬以下9名が死亡する事になります。

この事件を境に、岡田以蔵に暗殺された本間精一郎も人が変わったとされます。

元々は友人も多く慕われていた本間精一郎でしたが、寺田屋騒動により活動が封じられ、次第に愚痴が多くなり、酒に溺れ、仲間に罵声を浴びせる事が増え、危険人物と見なされる事になったそうです。

この寺田屋騒動が起きて薩摩藩士が斬り合いを行なった際にも、お登勢はその場にいて冷静に3歳の次女を竈に隠して帳場を守ったと伝わります。

事件後、薩摩藩からの見舞金が入り、使用人に命じて即座に畳や襖を取り替えて、営業できるように整えたとも伝わります。


■「寺田屋事件」とは?

慶応2(1866)年正月21日。

坂本龍馬が寺田屋に滞在中に伏見奉行所の捕方に襲われましたが、いち早く気付いたお龍が風呂から裸のまま裏階段を2階へ駆け上がり龍馬らに危機を知らせた事により、難を逃れる事が出来ました。

お龍の命懸けの行動と、龍馬襲撃の知らせを受けて西郷隆盛が直ぐに龍馬の命を救う為に薩摩藩士を派遣してくれた事により、龍馬は一命をとりとめる事が出来ましたが、この時、捕方に手の親指(左右)を斬られ、この後に龍馬は刀を握ることが出来なかったともされます。

寺田屋事件においては下記の記事も合わせてお読み下さい。

又、お登勢も龍馬と龍馬の護衛の三吉を守った為、薩摩側のお登勢も幕府から危険人物として目を付けられて、牢に入れられかけたこともあります。

それでも、お登勢は龍馬の味方で有り続けたとされます。



■お登勢明神


現在、寺田屋の隣にはお登勢を祀る、お登勢明神があります。

人望に厚く、幕末の激動を女性として必死に戦ったお登勢さんは、今も尚、多くの方から愛されている様です。


こちらにも、坂本龍馬像が建っています。



■寺田屋内


寺田屋内は公開されており、入場料を支払えば入館させていただく事が可能です。

龍馬が寝泊まりしていた部屋。

部屋の窓から見える外の景色。

坂本龍馬伝記「汗血千里の駒」の挿し絵。

寺田屋事件でお龍が駆け上がった階段。

刀傷なのか木材の経年劣化のひび割れなのかは分かりませんが、寺田屋の柱には、所々に大きな傷が残されていました。



■アクセス:
京阪「中書島」駅を下車し、龍馬の看板がある出口を直線します。

だいたい徒歩7分ほどで寺田屋が見えてきます。