坂本龍馬の刀 其の一 | 坂本龍馬資料館ーRyoma Museumー

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■坂本龍馬の刀は何振りあった?

坂本龍馬の刀で、最も有名な刀として「陸奥守吉行」があります。

また他にも、龍馬が最も愛した刀として知名度の高い「備前長船勝光宗光」

では龍馬の刀は、全部で何振あったのか?

それは正確な数は分かりません。

しかし関係者や龍馬の残した手紙などの記録から、おそらく少なくとも十六振以上は所持していたと言われています。

今回は、そんな坂本龍馬の刀をご紹介しようと思います。


■現在、在所在が判明している刀

・陸奥守吉行:京都国立博物館
・埋忠明寿:京都国立博物館
・備前長船勝光宗光:京都国立博物館
・立花圀秀:高知県立歴史民俗資料館
・備前元重:山形市最上義光歴史館 


■所在不明ですが、龍馬が所持していたと思われる刀

・肥前忠広
・源正雄
・伝相州正宗 
・備前盛光
・粟田口吉光
・相州秋広
・短刀左行秀
・相州国秀
・延寿物
・了戒
・備前兼光 



■陸奥守吉行

刀剣乱舞の陸奥守吉行

坂本龍馬が特に気に入り、常に帯びていた刀。

陸奥守吉行は刀工の名前で、本名は森下平助と言います。
吉行は土佐藩に招かれると、評価も高く、藩の鍛冶奉行を務めるまでに至った人物です。

龍馬は1866年(慶応二年)年12月に兄権平宛てに手紙を出しました。

「武士が国難に臨む時には、必ず先祖伝来の宝刀などを分け与えるものです~坂本家の家宝の品を分け与えください」

権平はこの手紙を読むと、坂本家に代々伝わる家宝である、陸奥守吉行の刀を薩摩の西郷隆盛を通じて慶応三年三月に龍馬の手元に送っています。

龍馬はこの刀を大切にし、慶応三年六月に権平にお礼の手紙を書いています。

「然るに先頃西郷より御送つかわされ候吉行の刀、この頃出京にも常に帯つかまつり候。京地の刀剣家にも見せ候所、皆粟田口忠綱ぐらいの目利つかまつり候」

粟田口忠綱は初代は上作、二代は上々作、吉行は中上作で、この吉行の刀は上位のランクである粟田口忠綱ほど素晴らしいと言われたと報告しています。

龍馬はその後、すぐに暗殺されてしまい、その暗殺時も陸奥守吉行を手元に置いていた為、最長で八ヶ月佩刀していた事になります。 

龍馬死後は、北海道に移住した坂本家7代当主である坂本弥太郎にて保管されました。
しかし、大正二年の釧路大火により、弥太郎宅が震災し、鞘は焼失、運良く残った刀身は京都国立博物館に寄贈されますが、変形し刀身の反りや刃文を失くしてしまいました。

その為、 茎に「吉行」と切られている現在する陸奥守吉行の刀身は、反りがほとんど無く、刃文が直刃風になっています。

本来の龍馬が所持していた頃の陸奥守吉行は拳型丁字の刃文であったと言われます。 




■埋忠明寿

埋忠明寿は江戸時代初期、慶長のころの山城国の刀工。
新刀以降の鍛刀法である水挫し法を考案したと言われ新刀鍛冶の祖と仰がれるほか、初代忠吉などの優れた弟子を育成することにも尽力し、埋忠一門の実質的な祖とも言われています。

この刀は、龍馬が海援隊の元になる亀山社中を結成した頃に手に入れたと伝わります。

その後、龍馬は妻お龍の妹の夫である海援隊幹部の菅野覚兵衛に、この刀を贈ったと坂本弥太郎の記録に残されています。


埋忠明寿は刀身に梅の花の彫り物があり、龍馬は偽名で才谷梅太郎を名乗っていたので、梅の花に思い入れがあったのではないか?と考えられています。

また埋忠明寿には赤い鞘も残されています。 


赤い鞘は「土佐の赤鞘」と呼ばれ海援隊のトレードマークであり、海援隊隊士の証でもありました。

昭和六(1931)年に坂本家から京都国立博物館に寄贈されます。 

ーーー其の二へ続く



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