真田信繁生存説 其の四 | 坂本龍馬資料館ーRyoma Museumー

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鹿児島県には真田信繁(幸村)が大阪城から逃げ落ち、逃れてきた伝説があります。

しかし、この伝説には更に続きがあり、鹿児島県で信繁は死んだとする説と、信繁は鹿児島県から東北へ移り歩き、最後は秋田県大館市で亡くなったとする説があり、鹿児島と秋田に信繁の墓は現存しています。

信繁の嫡男大助は、史実ならば秀頼と淀殿に殉じて大阪城朱三櫓で自害したことになっていますが、この大助の生存説も数多く大阪府堺や紀伊半島に残っています。
そして大助は秀頼、父信繁とともに薩摩へ落ち、大助は島原半島に移り、芦塚十左衛門と呼ばれたとされます。

またこの説はのちに詳しく記したいと考えておりますが、キリシタン天草四郎時貞が徳川幕府に反逆を起こした島原の乱は、秀頼の落とし胤の豊臣秀綱が天草四郎時貞となり、十左衛門すなわち真田大助が天草四郎のもと幕府軍と戦ったと言われています。


そして鹿児島を発った信繁は、巡礼姿に身をやつし、東北へ向かう途中、四国に立ち寄ったとされる記録もあります。
それは香川県さぬき市の国弘城があり、
信繁はこの城主・細川国弘を頼り落ち延びてきたとされています。

ここで地元の娘との間に之親という息子が生まれ、その之親と子孫の墓がさぬき市寒川町に残されています。

それから東北へと足を踏み入れた信繁は、口寄せで名高い本州最果ての下北半島・恐山へと向かいます。
ところが郎党数名と大助を連れた信繁一行は秋田県大館に留まることになります。

これについては、信繁の娘・お田の方が秋田藩の佐竹義宣の弟佐竹宣家の妻になっており、大館にいれば秋田藩の庇護を受けられるためだとする説があります。

信繁らは大館にて、真田紐を作って売り歩き、その金銭を元手に田畑を耕して生計を立てていましたが、やがて信繁は濃屋長左衛門を名乗り酒の製造販売をするようになったとされています。



大館市内の一心院には信繁の墓があり、刻まれた文字は風化して読むには困難ですが、この寺の過去帳に「一営通円清居士 寛永十八年十二月十五日 信濃屋」とあり、これが世をはばかって生きた信繁の戒名だと言います。

大館市に現在する信繁の墓

寛永十八年は大阪の陣から26年後で、この説が真実だとするならば、信繁は75歳で死んだということになります。
一心院の近くに地蔵堂があり、ここには信繁が九州から背負ってきた守り本尊の張子の地蔵尊が祀られていたそうですが、戊辰戦争の際に消失しました。

信繁の生存伝説は、この大館を最後に途絶えてしまいます。
当時は長野の英雄である真田信繁を詮索する事は憚れていたために、信繁は大阪の陣で死んだと断定されたそうですが、これだけの伝承や記録が残る現在、本当に信繁は大阪で死んでいたのでしょうか?
あれだけの戦働きをした強者です。
そう簡単に亡くなったとは考えにくいのではないでしょうか?

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