近江屋事件 坂本龍馬暗殺 | 坂本龍馬資料館ーRyoma Museumー

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坂本龍馬座像写真

坂本龍馬。
天保6年11月15日(1836年1月3日)- 慶応3年11月15日(1867年12月10日)
江戸時代末期の土佐藩郷士。
海援隊を結成し、薩長同盟の斡旋、大政奉還の成立に尽力するなどして、倒幕および明治維新に大きく影響を与えた志士です。
このブログの作者である私が、最も尊敬している人物の一人でもあります。

北辰一刀流で塾頭を勤めたともいわれる剣の腕前は、現役の頃ならば間違いなくこの時代でトップクラスの剣豪であった事は間違いないと思います。
しかし、ある説によれば、龍馬は一度も人を斬り殺した事は無いと言われています。

また、長州藩士、三吉慎蔵は「坂本ノ人ト為リハ過激ノ方ナルヤ」と問われた際に、龍馬をこう語っています。
「過激ナルコトハ毫モ無シ。且ツ声高ニ事ヲ論ズル様ノコトモナク至極オトナシキ人ナリ。容貌ヲ一見スレバ豪気ニ見受ケラレル、モ、万事温和ニ事ヲ処スル人ナリ。但シ胆力ハ極メテ大ナリ」
つまり、坂本龍馬とはどのような人か?
過激な気質の人であるか?
と問われた際、坂本龍馬という男は、見た目は豪気なようにも見受けられるが、その実、とても温和でおとなしい人物であり、胆力はとても大きいものを秘めていると三吉は答えたという意味です。

坂本龍馬は慶応三年十一月十五日。
当時の江戸の人間は正月に歳を数えたので、生まれた日付で誕生日を祝うという概念は無かったそうですが、その日は龍馬の誕生日でもありました。
この十一月十五日、坂本龍馬は「近江屋」で中岡慎太郎と供にいる所を、数名の刺客によって暗殺されます。

この刺客との斬り合いの中、龍馬は脳漿が飛び散ってもなお、中岡を気遣い、死ぬ直前まで自分の事より中岡を心配していたと言われています。
坂本龍馬をよく知る陸奥宗光は「坂本は近世史上の一大傑物にして、坂本は一方においては薩・長・土の間に蟠りたる怨念を融解せしめて、幕府に対抗する一大勢力を起こさんとすると同時に、直ちに幕府の内閣につき平和無事の間に政権を京都に奉還せしめ、幕府をして諸候を率いて朝廷に朝し、事実において大政大臣たらしめ、名において諸候を平等の臣属たらしめ、もって無血の革命を遂げんと企てぬ。彼、もとより土佐藩の一浪士のみ」と語っています。

坂本龍馬という人物は、元は最下層の身分の一つである下士という身分であり、何て事のないただの一浪士ではありましたが、誰よりも人の痛みを良く知る人物であったのだと思います。
誰かが傷つくような世ではなく、平等の世を無血の革命を遂げようと奔走しました。
その結果、自らが命を落としてしまう事になりますが、私はとても心の優しい大人物であったのだと思います。

次回の記事では、坂本龍馬が暗殺される「近江屋事件」について、私が優良だと思う資料を元にご紹介していきたいと思います。

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