真田信之は万治元年十月十七日に隠居先の柴村で亡くなった。亡くなる数日前から容体が急変したが、薬を勧める家臣や藩医に対して「自分はもう、十分すぎるほど長生きした。この病気も医者の及ぶところではない。薬も要らぬ」と言った。享年九十三歳。乱世を生き抜き、泰平の世になってからも幕府に尽くし続け、真田家存続の為に幾度の困難をも乗り越え、気がつけば共に戦った戦友も家族もとうの昔に先立ち、晩年はその温厚たる性格もあり、戦国の世を知る数少ない人物として重宝された。訃報の知らせにより時の将軍家綱はもとより、幕府重臣方々から松代領民に至るまでが悲しみに包まれた。家臣や領民の中には信之の死をきっかけに出家した者も数多くいたほどである。
 そんな信之の遺産はすべて合わせて約二十七万両であった。現在の価値に換算すると約二百七十億円である。これは倹約生活もさることながら、善光寺など大きな寺社がいくつか存在していたこと、また徴税に関しても免税と徴収をうまく使い分けていたことによるものと思われる。さてこの二十七万両のうち十五万両は松城に残し、残りの十二万両を遺産として親族と家臣に分配していることが『大鋒院殿御事跡稿』に書かれている。




一 金子壱万両  台との
一 金子五百両  中田との
一 銀子五百枚  真田孫七郎方
一 金子千両    右京
一 金子三千両  柴侍共

右之外余金於有之者同断、
 以上
右者国ニ而可相渡分也、
合壱万四千八百両余
 亥
正月十七日  信澄(花押)
    玉川左門殿
    長井四郎右衛門殿
    小幡内膳殿
    羽田六右衛門殿


 台との(殿)とは、信之の次女である見樹院(まさ)のことである。台殿の他にも、柴殿、二の丸殿、西の台殿といった通称があり、住まうところによって使い分けていたようだ。中田とのについては、編纂した綱徳はわからなかったようであるが、蓮華定院 過去帳に「円岫院殿月桂栄心大姉 松代二ノ丸様御息女」とあることから、見樹院の娘ではないかと思われる。真田孫七郎とは、真田昌親(弟)の三男である孫七郎信親のことで、右京は先日此方で書いた、あの右京である。柴侍共とは、柴の隠居先で信之と共に過ごした家臣と召使であり、信澄とは、信之の嫡男である信吉の次男、信利のことである。
 ちなみに残りの十万三百両については信利の所領する沼田へ譲るようにと申し渡している。この十万三百両は他の親族や弔問した大名への返礼(今でいう香典返し)に宛てられ、さらに残りは江戸屋敷の金庫に預けおいていたようだ。また遺物(形見)もそれぞれ親族方々へ分けられているが、遺産・遺物に関して信之は生前、一門に対して常々言っていたことが覚書として残っている。




一 柴御隠居所之御屋敷、御寺ニ可仕之由御意之事
一 同御屋敷之内ニ御廟営作可仕之由、御意之事
一 御葬礼於柴丁寧ニ可仕之由、常々御意之事
一 高野へ御骨被為上節、金子千両可遣之由、御意之事
一 高木貞宗之御脇差、紀伊左京太夫様へ御遣物可遣之由、常々御意之事


一 包永御腰物高力左近様へ後々可披進之由、御直々常々御約束披成候事
一 銀之御膳道具、江戸柴之御姫様へ御約束ニ而、後々可披進之由候事
一 二之丸様へ金子可披進之由、常々御意之事
一 江戸柴之御姫様へ御金可披進之由、切々御約束披成候事
一 御隠居所之者共ニ、御金御遺物ニ可披下之由、御意有之、常々皆々承候事


 上記の覚書を見ると、まず柴の隠居所は寺と御霊屋にし(大鋒寺)、葬儀は丁寧に行うように、そして高野山へ遺骨を納める際は御包代として千両を持参するようにとある。また、高木貞宗の脇差は紀伊徳川家藩主、頼宜の三男、松平頼純へ贈る様にとしている。これは逸話として信之が頼宜の子の具足親になったという話が残っていることから、頼純がそれであった可能性が高い。裏書の方も包永の腰物を高力左近へ譲る様にとあり、高力左近とは信之の長女、光岳院(まん)が結婚した高力忠房の嫡男、隆長のことである。二之丸様とは先ほどと同じ、見樹院(まさ)のことで、見樹院と柴の隠居所で信之と共に過ごした家臣や召使にも遺産と遺物を分け与える様にと書かれている。最後にわからないのが江戸柴之御姫様である。綱徳は「御国様の事」と補足しているが、御国様自体がよくわからない。銀の御膳道具や遺産を与える様にと書いていることから、かなり目をかけていた姫君のようではあるのだが、誰の子供かは不明だ。これが書かれた表紙には江戸にいる親族が別に書かれていること、また「柴之」がつけられていることから江戸から柴へ移ってきた姫君と考える。これに関しては他考を待ちたい。




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