今日は信之と清音院の婚姻時期について書いていこうと思う。とは言っても、明確に記された史料はどこにも残っておらず、推測の域は出ないわけだが、正室であったという記述が残っている以上、看過できない。
 大きく見積もれば清音院の父、真田信綱が長篠の戦で討死した天正三年(1575年)から信之が家康に出仕した年の前年にあたる天正十七年(1589年)の13年間にあると考察する。『加沢記』によれば信綱の討死後、武田家当主であった武田勝頼は真田家の当主を三男の昌幸とするようにとした上で、「信綱には娘が一人いるが、その者は後に信幸に合わせ参らせ、家督也参らせよ」という言葉を残していると書かれている。このことから二人は許嫁同士であったということが窺える。
 そして許嫁状態のまま情勢は目まぐるしく変わり、天正十年(1582年)には武田家が滅亡する。この時、信之は岩櫃城を守備しているのだが少し気になる史料を見つけたので記述しておく。『大蓮院殿御事跡稿』の中で著者である河原綱徳の河原家には以下のような言い伝えがあるという。「伊豆守殿十五歳、御簾中十四歳の時、沼田に入り給ふ」というものである。しかし、これについて綱徳は「伊豆守殿は寅年生まれでこの年に沼田に入ったというのは間違いではないか。正しくは伊豆守殿二十五歳、御簾中十四歳ではないのか」と唱えている。ただ信之が二十五歳であったならば小松殿は十七歳のはずである。それに十歳もサバを読んだり間違えたりするとは考えにくい。さらに言うなら、信之が十五歳だった天正八年(1580年)の五月には、父の昌幸が沼田城を攻略している。城代は大叔父である矢沢頼綱であったが、この時清音院と共に沼田城へ入ったとは考えられないだろうか。一説では清音院は信之より一つ年下と言われていることからも、「伊豆守殿十五歳、御簾中十四歳」という文言と一致する。この言い伝えが真実だった場合、二人は天正八年に結婚したか、すでに結婚していたことになる。河原綱徳が御事跡稿を編纂した頃は、信之の妻は小松殿以外には存在しないことになっている(清音院についてはほとんど触れられていない)ので思いつかなかったとしても無理はない。
 そもそも清音院についての記述がこれほどまでに少ないこと自体、個人的には何か思惑的なものさえ感じる。確かに信之の妹も真田信伊(叔父)の息子、幸政に嫁いでいるが詳しい記述は残っていない。だが、信之は真田家の跡取りであり、松代初代藩主でもある。扱いが違うのは当然であろう。にも関わらずまるで清音院は最初から存在しなかったかのような扱い、もしくは信之に嫁いだものの早世となっている。これは先述した許嫁だったという事や、小松殿より先に信之と結婚していた事すらをも隠したかったとしか思えない。それは関ヶ原以降の信之や真田家のことを考えれば致し方のない事だったのかもしれない。ましてや小松殿よりも十年も前に結婚していたことが公になれば、体裁的に見ても真田家にとってあまりいい事ではないだろう。小松殿が後妻のような立場では困るからだ。真田家としては、あくまで信之も初婚という設定が必要であり、それには清音院という正室は存在してはならないということだったのではないだろうか。
 ただし、それは信之が亡くなってからのことのように思う。先日も書いたが大名になり、それなりにプライドが出てくれば自ずと家系も良くしたいという欲求も出てくるであろうし、不都合な部分をすり替えるといったこともあっただろう。信之が存命中の頃も、表向きは小松殿が正室という事にしていたのだろうが、実際は清音院が正室であったと思う。年も一つしか変わらず、十代の頃から知った仲であり、おまけに同じ真田の血が流れている。真田家の中の事に関しては清音院の方が小松殿よりずっとわかっているし、動かせる人物も多かったに違いない。それは嫁に来て何年か経てば馴染むとか、そういったことではなかったように思う。私としては、信之は小松殿に外交折衝や他家との関わり事などを担当させ、家内のことや家臣のことについては清音院に任せていたのではないかと推測する。 
 話は逸れたが、信之と清音院の婚姻時期については天正八年ごろではないかというのが私の一説である。はじまりは武田勝頼の一言であり、そこには真田家の血脈を確固たるものにする為、信綱や於北の遺産・遺物・領地などを真田家の中で処理する為といった政略の意味があった。そして二人の間にも自然と愛が芽生え、お互いを大切なパートナーとして扱っていた。それは小松殿が嫁いできても信之は清音院と決して別れることなく、傍に置いていたことからも明らかである。そして体面的には小松殿を正室として仰ぎ、その実は清音院が信之の精神的な面を一手に引き受けていたのではないかと思う。ただ、後世になり真田家が一躍有名な大名として取り上げられるようになると体裁を重んじるようになり、その結果、小松殿が持ち上げられた。そしていつしか清音院は早世したことになり、真田家の記憶からも記録からも、忘れ去られる事になったのである。
 有名どころの話だけでその人物像を決めてしまうのは早計である。見えない部分にこそ真実ががあり、真実も決して一つではないのだということを忘れてはならない。




偉人・歴史人物 ブログランキングへ