今日は右京という人物について書こうと思う。
右京という女性を語るにあたって外せない話があるので、書き記しておきたい。


『大鋒院殿御事跡稿』より

信之に取り立てられた者に山野井大内藏という、二百石を領する家臣がいた。信之の傍を離れず昼夜問わず働く勤勉な武士であった。
また奥女中に右京という者がおり、この女は大人しく、忠義に厚い者として信之が亡くなるまでお傍に仕えていた。
ある時、大内藏は終日御用勤めをしていて下宿(宿直)することになった。
夕飯を食べようとしたのだが、一椀も食べきらぬうちに城より呼び出しがあった。
大内藏は一杯の食事もそのままに城へ向かい、誰が自分を呼び出したのかと取次者に尋ねたがそんな話は承っていないと言われ、取次者に「奥へ入らせてもらう」と言って直に奥へ入り、自分に城へ来るように言ったのは誰かと尋ねたところ、右京が申すには
「御召ではございませぬ。私の用事故、申し遣わせました。乗物を誂えていてそれが出来たと言われたのですが、取りに行ってくれる人がいないので大内藏殿であれば取りに行ってくれるのではと思いお呼びした次第です」
というので、大内藏は以ての外だと立腹して
「いつから私が其許の乗物奉行になったのだ!御召だと言うから夕飯もそのままに登城したのだぞ。其許の乗物なら御台所(稲姫)の中間(召使)にでも頼んで取ってこさせればよいではないか!」
と散々に怒り散らしたので、右京も大変悔しがりながら声を立て泣いてしまった。
その様子は御座の間(信之の居室)まで聞こる程であった。
大内藏はその後、宿へ帰り食べかけの夕飯を済ませ休息し、御城へ出向いた。
そこで信之自ら大内藏を呼び、「先程は右京と何を揉めておったのだ?」と問いただすと、大内藏は
「自分の乗物を誂えていて、それが出来たから拙者に取りに行くようにと言われたのでございます。呼びに遣わして食べかけの夕飯をそのままに参上すれば、そのように自分の用事だったので叱りつけたところ、その吠え声が殿へ聞こえたのでございます」
すると信之は笑いながら「堪忍いたせ。女のすることだ。総じて女には敵わぬものだ」と言い「右京にも私から言い聞かせてなだめておく」と言った。







 右京は元々、福島正則の側室であったという。しかし元和五年に福島正則が幕府の命に従わず城を勝手に改修した為、改易後除封となり信濃へと配流されてしまう。その後、右京は松代城代であった玉川秀政の養女となっていることから、この辺りに福島正則とは離縁していたようである。玉川秀政の養女となった右京は、どういう経緯を経たのか信之の奥女中として仕え、女中頭にまで召抱えられることになった。
 上記の話から察するに、信之は右京を寵愛していたようであるがその原因は清音院という、信之のプライベートを支え続けていた女性が亡くなったことにあるように思う。右京に目を掛けだしたのは清音院が亡くなった頃である。信之としてはかなりショックな出来事であっただろう。そこへ若い娘でおとなしく、そして忠義熱く信之の世話をする右京に清音院を重ねたのではないだろうか。さらに言えば、右京も両親と離れ離れであったか、死別している。元は京の町娘であり、松代で自分を守ってくれる人は誰もいなかっただろう。そんな右京を見てやはり両親を早くに亡くした清音院と重なったのかもしれない。右京も右京で、信之と清音院の情報はもちろん収集済みであったろうし、憔悴しきっている信之に対しあれこれと世話を焼き大人しい女性を演じることでまんまと信之の懐へ滑り込んだ。前の夫は幕府の命に背き、身勝手な振る舞いをする男であったし、そのおかげで改易させられ裕福な生活も送れなくなった。それに比べて信之は真面目で、幕府にも従順。優しくて頼りがいもある。おまけに松代一〇万石を背負う男である。右京としては何としても側室になりたかっただろう。ただ信之も右京のことはそれなりに注意はしていたであろうし、娘の見樹院や信之に古くから仕えている家臣も苦言は呈していたように思う。
 だが、いつの時代も右京のような女には要注意である。山野井との揉め事からも明らかであるが、この頃の右京はまだ奥女中と言う存在でしかないにも関わらず、信之の家臣を呼びつけて自分の用事を言いつける辺り、清音院とは育ちの違いを感じざるを得ない。女の私から見ても完全に「勘違い女」である。ただこれも右京の中では計画通りであったように思える。右も左もわからぬ若い娘が初めてしたことならまだしも、福島正則の側室であった女性である。そういった知恵はあったであろうし、信之と接していく中で彼の為人というものを知れば”どうすれば自分のことを気に入ってもらえるか”といったことも十分に知っていたと考えるのが自然だろう。この事件を起こした真の目的は、自分が信之の寵愛を受けていることを公の場で知らしめる為であったように思う。奥女中ではあるが、信之から特別な扱いを受けているということをアピールすることによりその後の、自分への待遇如何を考え直させることが目的だったのではないだろうか。
 信之逝去後の遺産分配でも、ちゃっかり千両もの大金を手にして京都へ帰った。京都へ帰った後は出家し妙貞と名乗り、信之の供養塔を建てて蓮華定院へは自分の自画像と自詠自賛自筆の和歌まで納めている。さらに松代へ寺を建立し、そこに自身の父と母の墓を建てて自分もそこへ入った。因みにこの寺は梅翁院といい、稲姫の眠る大英寺と真田家の菩提寺である長国寺の距離より、梅翁院と長国寺を結ぶ距離の方がはるかに近い。
 戒名については蓮華定院 の過去帳のうちの一つである「真田公御一家下過去帳」に”英月妙雄禅定尼 真田伊豆守殿為於亀殿御建立 御使者 岩本清右エ門 湯本新左エ門 井村与助 慶安四年正月十八日”とあるので、おそらくこれが右京ではないかと思われる。ただ、戒名から察するに側室と言うよりは女中止まりだったのではないだろうか。しかも蓮華定院 に保管されている過去帳は合計3冊で、他の2冊に彼女の戒名は見当たらない。このことから見ても、信之の心情はどうあれ真田家ではあまり歓迎されていなかったと見ていいだろう。
それにしてもこの右京と言う女性、随分としたたかな女性に見えるのだが如何だろうか。



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