「人間とは何か?」を追求し、経営に活かして

人に関する問題を自然の法則と法的観点から

解決するコンサルタントの大門です。


いつもご愛読くださりありがとうございます😊


◎本を忘れず、末を乱さず


私が所属する経営者の勉強会では

100日実践というものがあり、


何かひとつ以上決めたことを

100日以上毎日やり続けて

習慣にしようという

取り組みがあります。


行動習慣が

その人を創っているということは

ご存知ですね。


決めたことをやってやってやりまくる。


思考が繰り返され

それを行動としても繰り返すことで

身体の細胞に記憶が蓄積され

現実が変わります。


私もエントリーして

毎朝続けることにしました。


私は

亡くなった父への手紙を書くことと


自分と関わる人へに対して

その幸せを祈ることです。


それを経営者の会で

スピーチとして話そうと思い、

原稿を書き

いざスピーチに臨んだのです。


伊勢神宮で特別参拝を受けたことや

天皇陛下が国民全体のことを想われていらっしゃることなど述べましたが


肝心かなめの

キーワード


「みんなの幸せを祈る」


を落としていたことを

スピーチ後のとある方のフィードバックより

気づきました。


自分自身がスピーチしている時も

聴いている人に対して

その幸せを祈るような気持ちがこもっていたか?


足りなかったから

キーワードが落ちたのではないかと

後で気づきがあったのです。


あなたは、なぜ祈るのでしょうか?


何かが欲しいから?


あなたがあなた自身に不足しているものを

神に祈って所望しても

その

おねだり行為からは

不足しているものを得ることは

望み薄です。


神は地上に対して直接手を下しません。


等価交換の原理が

現実では、働いています。


何かを得るならば

現実に、世の中に価値を提供しなければ

同等以上のものは返ってきません。


祈るとき、クレクレ星人にならずに

自分と関わる人が幸せになれるようにと

思って祈れば

あなたはすぐに幸せになれるのでしょうか?


ご利益はあるのでしょうか?


私はそれを続けてみて実感しました。


結論から言うと


「いや、自分が幸せを得られるなんて

とんでもない!

むしろ人の幸せを祈れば祈るほど


『おまえ、本当にその覚悟があるんだろうな?』


と言わんばかりに

周りにいろいろな


「厄介なこと」


が起こります。


例えば


私の場合

顧問先の事業主様より

従業員との

トラブルが起こり

どうしようか、

との相談があったり


残業代未払いなどで

労働基準監督署に入られた

会社から

対応の依頼があったり


仕事が忙しくなり、

妻との関係性もやや微妙になったり(~_~;)


そこから逃げれば

自分がウソつきになり

それで祈りは終了。



神に本気の祈りを捧げるには、他人の経験している苦難まで関わる勇気のあること、

想いを知ろうとすること。


ある意味「覚悟」です。


人は現実をより良くしようと思えば

日々の思考のルーティンをガラッと変えて


それまでの自分をぶっ壊して



創造的な破壊をしないと

あなたが望む

「自分を良い方に変えたい。」

というリターンを得ることは

ないでしょう。


人が苦難を乗り越えられるようサポートしたり、

成長を応援したり、どうしてもキツイ時は

何かを提供する。


もちろん自分が幸せでないと

そういう心境になれないと

あなたが言いたくなる気持ちもわかります。


しかし、

あなたが今、ハッピーでなかったとしても

他人の幸せをアシストすれば

、自分も幸せという状況を創れば

幸せはついてくるのではないでしょうか?


人間が心の奥底から感じる、本当の幸福感は

苦難を乗り越えたところにあります。


そりゃそうだ。


他人の幸せを祈るとは

ある意味他人の人生の一部を

引き受けたるようなものです。


しかし、

他人と「同化」していると言われるくらいの

関係性になれば

その他人は

あなたの

「手足」となって

あなたのために

動いてくれることもあります。


手足となって動く、

と聞いてどう感じますか?


他人をこき使うというイメージなら

自分の身体も

ケアできていないのではないですか?


自分とまさに一体となって

調和するというイメージなら

経営も上手くいっているのでしょう。


「良い経営者」は

それをよくわかっているのです。