あなたは自分の子どもと毎日どれくらいの時間をかけて話をしていますか?

 

仕事がらよそのご家庭のお子さんや親御さんと話をしますが

「あなたたち本当に親子なの?」

と聞きたくなるくらい会話が全然ありません。

 

こういうご家庭の子どもは決まって国語が苦手です。

苦手というより

何かを聞いても文章で答えられないのです。

 

仕事から帰ってきたお父さんがお母さんに

「メシ」「風呂」「寝る」

としか言わないのと同じように

子どもも

5W1H(いつ、だれが、どこで、どうして、どうやって、なにをした)で話せないのです。

 

当たり前です。ふだんより子どもに自分の言いたいことを親のあなたが発信させていないからです。

こういう子どもは決まって「特にやりたいことがない」と目標や希望がないと言います。

 

まだ世の中を知らないから目標がなくて当たり前だろうと流していませんか?

人間はすべて自分の望みをかなえるために生まれてきていますから

望みがないわけがないのです。

正確には本当はあるのにそれをかなえるべく行動するのが怖いか面倒くさいだけです。

自分が夢や希望を語ったところで会話のない家庭では誰も聞いてくれるわけがないと

諦めているのです。

 

世の中で多くの人から支持されている影響力のある人は

自分の在り方を上手く行動で示せています。セルフイメージは行動することでしか書き換えられません。

 

今ネット上やいろいろなところで発信されているコンテンツは多すぎて価値が下がってきていると思いませんか?

社労士会の研修でもある社労士がこう話していました。

「みんな情報をタダ(無料)だとおもっているんだよね」

 

この会話から「自分がタダでいろんなことを他人から聞かれてそれに相手している自分は損している」

と言いたいことがわかります。

それははっきり言ってしまうと

「自分自身の話の持っていき方が悪い」ですね。

 

昨今はネットで調べたり本に載っているような薄いコンテンツはそのまま使ってもすぐに飽きられています。

「自分の情報」が尖った、オリジナリティーのあるものにするには自分の理念を示し

「人がいること」を感じさせることが必要。

 

私が学ばせていただいている方の言葉を拝借すれば

「カスタマイズ化したコミュニティー」を作るには必要不可欠なことですね。

 

例えばこのアメブロの文章でもそう。

自分の在り方に関心のない人まで自分の文章を読んでもらう必要はないし

コミュニティーに入ってもらう必要はないのです。

 

先ほどの自己表現力の乏しい子どもの話に戻りますが

自分から発信する力を自分で鍛えていかないと

そういう人たちのコモディティー化が進むでしょう。

 

政府はそういう流れを知ってか知らずか大学入試改革に乗り出しました。

新大学入試は考える力・表現力を重視する選考になっています。

つまり記述問題の割合が増え徹底して「考えて書け」ということを求めています。

「国語力の低い子」は国語のテストは言うに及ばず

英語や数学もまともな答案が書けず悲惨なことになるでしょう。

 

私は現在、企業の人事評価制度や賃金制度について研究中ですが

「新テストの導入の考え方って新しい人事評価制度をいきなり導入するのと同じとちゃうん?」

ということに気づきました。

 

「人事評価制度や賃金制度を新しく導入して社員の能力やモチベーションを上げよう」

と考える社長さんは多いですが

会社のリソースである従業員が実態としてそれについていけますかということが問題ですね。

 

会社の空気を変えるための管理職、一般社員それぞれに求められる行動原則って何だろう?

経営理念や経営計画に沿ったアクションプランはできているのか?

など制度導入以外に先に「下地」として経営陣がやるべきことはあります。

 

経営者(社長)

が従業員に対して示す態度としてネガティブなのは3種類あります。

⓵叱責や暴力で攻撃する

⓶何言ってもムダとあきらめる

⓷従業員がダメなのは自分のせいだと自己否定する

 

でもこれらって家庭で親が子どもに対して示しているのと同じじゃね??

と思います。

 

これはこういう態度で一応決着させているように見えますが

親、社長が自分自身で自分の(会社の)成長を止めていることになっていますね。

 

それは子ども(従業員)のことを信じられるようになる自分の能力、可能性を

自分が勝手に壁を作って捨てているということができます。

 

「ありがとう」という言葉は魔法の言葉ですが

これは現状のモノや人に対して不平不満を言うのではなく

もっと詳しく会社のリソース(人・モノ・かね)のことを知り尽くし

現状の「戦力」で戦ってそれらに対しねぎらうということであるのです。