この話を聴いて居ても立ってもおられず友人に尋ねて回った。知る人ぞ知るタイで最初に日本のお餅菓子(大福)を売り始めた若い娘パンナーと第二次世界大戦末期の当時、タイ王国ナコンナーヨック県に駐屯していた大日本帝国海軍軍医佐藤少佐の淡くて愛おしい人間物語があった。残念ながらパンナー女史は既に他界されていたが、息子さんのマノップ氏にお会いできることになり、胸躍らせながらご自宅を訪ねた。まずはその「Mochi-餅」を戴くことにしよう。


大福餅…

さて、餅の話をしよう。日本人なら当たり前の餅菓子の大福なので、一口食べた瞬間…「あれ?これ大福餅、そう、日本の大福餅ね?」という感想。特段むちゃくちゃに美味しい、珍味だ、逸品だ!という感覚でなくて、なんというか日本で小さい頃から母が市場の饅頭屋で買ってくるおやつの「大福餅」そのものなんだね。マノップ氏は僕の顔を覗きながら「なんだ?美味しくないのか?」と怪訝な顔をしている。「そりゃそうですよ、これ、日本の大福餅そのものですよ!敢えて言えば中身のタイ産の黒豆、緑豆、赤豆のこしあんに微妙な”南国味”を感じる。日本の大福より少し小さい団子のような大きさなのであっという間に4つ口に放り込んだ…” “マノップさん!これ普通に日本人が好きな大福餅ですよ、(もぐもぐ)…そして美味しい😋” マノップ氏の顔が朗らかに見えた。


佐藤軍医はどうして若き日のパンナーさんにこの餅の作り方を教えようと思ったのだろうか?…その思いがずっと胸をよぎる。そうだ、今日は東京に留学している息子が父への土産にくれた日本茶を持ってきたんだ…(つづく)

 

軍医佐藤との淡い恋愛物語?

第二次世界大戦末期のタイと云えば、敗戦色の濃い枢軸国(The Axis)日本につくより連合国(The Allies)につく方が賢明という国策だったという。日本は遂にその大東亜共栄圏(Great East Asia Prosperity Sphere)の政策を断念する時が来た。徐々にタイの一般社会にも駐屯日本軍への嫌悪感が増す時期でもあった。中でもパンナーさんが作る「餅」も敵性ものとして、村の人々から作るのを止めるように言われた。それでもパンナーさんは作り続けたという。それはお金のためか、軍医佐藤に想いを馳せていた為か? 


当時の日本人は、しかも軍人であればなおさら、規律軍律に厳しく、まして統治下の現地住民に気軽に声を掛けたり、会話をすることなど法度とされていただろう。しかし佐藤はなぜ下町の菓子売りの女性に餅の作り方を教えたのだろうか?(読者の最大の疑問)佐藤は恐らく、現代で言えば「現地住民実態調査員」のような役職だったと思う。軍医=医師として、現地の食べ物や現地住民の食生活などについて自由に行動できた身分に違いない。そしていつもは駐屯地内での食事もするが、時折村に出て村の食堂などで食べていたのだろう。駐屯地の前で日本軍人を相手に毎日お菓子を売るパンナーのとこへきて「おい、娘!お前のお菓子は美味いが、餅は作れるか?」タイにはもち米を主食とする地方もあるので、もち米があることは佐藤も知っていた。つたないタイ語を放ったのか、通訳を介したのか定かではないが、佐藤はそのように彼女に問う。「モチ、モチ?」彼女はつぶやきながら繰り返す。「そうだ!餅だ、餅!日本人は餅が好物なんだ、作れるか?」恐らく通訳が話したのであろう、餅は日本人のソウルフードのようなもので、祖国日本の味を思い出して食べてみたいから作れ、とでも言ったのだろう。パンナーは戸惑いながらもこの優しそうな日本の軍人の教えるまま餅をついて、お菓子を作り始めたのだろう。元々美味しいタイのお菓子を作っていたパンナーは色々なアイデアで餅の中に入れる具を考えた。大豆、黒豆、緑豆…すべてタイ人が食べているものばかり。それを餅の具として作って、ある日佐藤が現れた時「佐藤さん、できました!食べてみてください!」

「おおおお、できたか!どれどれ」

「お口に合うかわかりませんが…」

「・・・おお、これは旨い!“上等だ(Yoto)!!!”」

生前にパンナーが息子さんに話した中で、パンナーに向かって佐藤が「Yoto!Yoto!」とよく言ってくれたと。マノップ氏が私に訊いた…“Yoto”というのはどういう意味だ? 「私はそんな日本語はないです…うーん、なんだろう」 マノップ氏は少し残念な顔をして「以前の日本の新聞記者が来た時に訊いたけど、彼らにもわからなかったんだ、君にもわからないか…なんでも〝一番良い″とか言う意味らしいが」・・・ちょっと待て…


だてに30年以上タイに住んでいるわけではない(笑)パンナーが耳にした「Yoto!Yoto!」

タイ語では“J”の発音が“Y”になることを知っている私は尋ねた「マノップさん、それひょっとして“Joto!Joto!”じゃないですか?彼は眼をパチパチさせてそうかもしれないとうなづく。「そうです、Yoto!じゃなくてJoto!と佐藤は言ったんですよ、つまりパンナーの作った餅が〝上等″だと!つまり一番おいしい!と云ったんですよ!」私は思わず自分自身に向けたのかとっさに拍手をしてしまったいた。「そうだ!上等!つまり上等品!なんですよ!」

佐藤に褒められた若い娘パンナーは有頂天になったに違いない。日本の軍人に褒められた、あの優しい笑顔の佐藤に褒められたと。佐藤自身も「可愛い娘だなぁ‥」と心の中で思ったに違いない。それからパンナーが作る日本の「モチ」は巷で大人気となり、日本の軍人だけでなく村の人達が買いに来るようになったのだろう。

いつしか佐藤も別の地域へ転属になり、パンナーに別れを云いに来た「おい、お前の餅は最高に美味い!上等品だ!俺が生きていたらまたここに帰ってくる、しっかり作って売れ!」

簡単な言葉のみを一方的に放ち、佐藤は去っていった。しかしパンナーの心の中では「寂しくなるな、またあの佐藤さんの優しい笑顔が見られなくなる…」それが彼女の最初の異国の、すぐに敵国になってしまう、日本の軍人青年に抱いた淡い恋心だったのかもしれない。当時のタイでも現在のように女性から男性に大胆に告白をしたり、胸中を伝えることはなかったという。パンナーは生活のため、家族のため、とにかく佐藤に教わった餅の作り方を続けて生計を立てれらると自信に満ちていただけかもしれない。当時、軍医佐藤がどういう人物だったのか全く資料がない。年齢、出身地、階級などいまだ不詳のままだ。従って18歳のパンナーにとって恋人になる対象年齢なのかそれとも優しい兄のような存在だったのか?また、異国の権威ある軍人から褒められたことに対する喜びだったのか…知る由はない。


餅と戦争

マノップ氏が云う…「ここで作る餅は母パンナー遺伝のレシピです、防腐剤は一切使わないのでその日のうちに召し上がってくださいね」

 

自宅から2時間半かけて買いにくるのだから一個だけ買って帰るわけにはいかない。冷蔵庫か冷凍庫に保存すれば2、3日は持つのではないかと思う。さらに餅は焼いても美味しい、ですよね?自宅に持ち帰ったのは全部で6パック24個!一人で食べきるには数日かかる。翌朝、いつものトーストを止めて、フライパンに惜しみなく4個並べる。香ばしい香りが部屋に漂い、ほどよく焦げ目ができたところで皿に載せる。〝熱い!″ ―これこそ餅の本来の食べ方じゃないか?!餅独特のびよーんと伸びる生地、中身の赤豆のこしあんが顔を出す。焼け目の具合がちょうどよくパリパリ感があって一気にほうばってしまう。幼い頃に母に市場で買ってきてもらったあの美味しい焼餅を想い起こしながら…当面朝食には困らないかな。

ではマノップ氏の話で締めくくります。


彼が母パンナーから聞いた話の中に、大日本帝国の敗戦が決まり駐屯地に居た日本兵士たちの中には、敷地にあるお寺の前で割腹自決をしたり、拳銃で自害したり、ジープに乗った兵士数人が丘の麓の洞窟の中に車ごと突っ込んで爆死したりと、凄惨な光景を目にしたという。現代人の我々には、特に私には全くの初耳で衝撃を受けた。決して日本の学校の教科書には載ってない事実。アジアに駐屯していた日本兵士は海外にいてもさえ、敗戦の悔しさに耐えきれないのか、連合国軍の捕虜になるくらいならいっそ自決などと考えていたのだろうか?もしくは大本営からの命令だったのか?


こんなに静かで田園が広がるタイの長閑な村で、祖国の敗戦を恥じ、愛国精神を以ってそこまでして命を燃やし尽きるのか?とても悲しくて悔しくて仕方がなかった。恐らく母パンナーもその光景を目の当たりにし悲しんだに違いない。佐藤軍医もか…いや良からぬ想像は辞めておこう。

 

―佐藤の行方―

日本帝国海軍軍医佐藤…

大日本帝国泰国ナコンナーヨック駐屯連隊

マノップ氏が語ったすべて話の「佐藤」はこれだけだった。軍医佐藤は一体どういう人物だったのだろう?年齢は、出身地は、役位は、家族は?

 

駐屯地の前でお菓子を売る、タイの若き可愛らしい乙女に日本の餅の作り方を教えたのはなぜだろう。何が彼をそうさせたのか、手がかりが一切ない。軍医という肩書上、恐らく村の中を見回り、住民の食べ物や食生活などを調査する自由はあったのだろう。どういう経緯があったにせよ、パンナー娘に餅の作り方を教えたのは事実であり、その後転属になりパンナーの前から消えていったのも事実。

 

その後、佐藤は何処へ行ったのか。今はそれがとても心に引っかかり、私の人生の大きな問題を抱えてしまったような気がする。自分の奇異な性格なのか、この物語を知ってからずっと佐藤とパンナーの出会いからの「起承転結」パズルのピースを探すかのように繋ぎ合わせたくてしょうがない。在タイ日本大使館の知人に訊いたり、大使館広報課の先輩に訊いたりしてみたが、佐藤軍医のことは誰も知らない。関連するインターネットやYouTubeでの情報を読み漁りしたが、肝心の「佐藤」の消息が全くない。パンナーに別れを告げ、彼女の人生への励ましとも取れる、それとも今生の別れの言葉と取れる一言を残し去っていった軍医佐藤。


しかしどこへ? 日本へ復員兵として日本に戻り、戦後日本で家族と共に幸せに暮らせたのか、妻はいたのか、子供はいたのか?それとも当時の激戦地域で疫病が蔓延する、日本軍の愚かな戦略「インパール作戦」というタイ西部のカンチャナブリからビルマを抜けて英国領インドのImpalへ兵士、物資を運ぶ「死の鉄路」と呼ばれた泰麺鉄道の建設に軍医として携わり、疫病に罹った兵士や住民の治療に奔走したのか…そこで死んだ建設に携わった10万人以上が疫病で命を落としたという。

 


もし佐藤軍医が生きて日本へ帰っていたら、なぜパンナーの元に帰ってこなかったのか、別れ際には「生きていたら帰ってくる」と云ったではないか。それはどういう意味なのか。軍医佐藤に馳せる思いは尽きない。本当に日本に無事に帰国して家族を持っていれば、多分、彼の孫あたりの世代が私と同じ世代であろう。せめて佐藤の子孫がいて、祖父が第二次世界大戦中に日本の餅の作り方をタイのお菓子売りの若き娘に教えて、それが今でも人気の「日本の菓子餅」としてタイ全土で語り継がれているということ知って頂きたい。

 

もし叶うのであれば、私と同じ年代であろう佐藤の子孫にタイで会ってみたいと思う。そしてあなたの祖父はタイで如何に命を繋ぎ、そしてパンナーの人生をも繋いだという話をしてみたい。佐藤が架けたタイと日本の友情と愛の懸け橋を未来の世代へと伝えていきたい。

(完)