AIで論文を要約出来ると知って早速使ってみたよ(≧∇≦)b
昭和の大名人浦上栄先生のお弟子さんで天皇杯連覇などの実力者「稲垣源四郎」先生
私の少年時代には憧れだった(私の道場は小笠原流、稲垣先生は日置流印西派)
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弓道における弓術の根本性とその精神的側面
AI 要約
はじめに本稿は、現代弓道界における弓術軽視の風潮に異議を唱え、弓術こそが弓道の根本であり、精神的境地への到達に不可欠であることを論じている。主な内容一。
一、研究の背景現代弓道において精神面が過度に強調され、射術が軽視される風潮がある。この風潮は、的中を排し、精神第一主義を宣伝する一部の弓道家によって広められたものであり、彼らは的中を避けることで心の汚れを恐れたが、これは重大な誤謬であると指摘されている。森川香山が「弓道」という言葉を用いた際、その根底には射術があり、技術の進捗に伴い心技両面の教育指導を進めるものであった。しかし、現代では技術や射術を軽視する弓道が主流となっている。弓道の目的として真善美の追求や高度な精神的愉悦が挙げられるが、これらは口先だけのものではなく、課題の遂行や完成、成功の度合いによって次元が異なり、高度な課題ほど精神的愉悦も大きいとされている。
二、研究方法本研究は、弓道における「本」と「末」の概念を考察するために、広辞苑における「本」と「末」の定義を引用している。弓道における射術の重要性を論じるために、中国古典「射経」の解説書や「周易外伝」からの引用を用いて、器と道の関係性を分析している。精神的な境地と技術の関係性を説明するために、チクセントミハイの「フロー」の概念を引用し、行為者の技術が内発的報酬の楽しさ、すなわち身心安定の法悦境に達する重要な鍵であることを示している。
三、研究結果現代弓道界では、技術のみに拘泥し、小手先の技巧に走り、的中のみに心を奪われる風潮が支配的であり、射の基本である気構えや体の構え、動作が軽視されがちであると指摘されている。「射経」において、弓矢は器であり、射は芸であると述べられているが、筆者はこれに対し、技が完全に自己のものとなり、心境にまで進めば「上達の妙」に達し得ると反論し、技は決して末ではないと主張している。射術こそが弓道の根本であり、真の射術を修練しなければ精神の世界には入れないと結論付けている。射行が進む際の不安や油断があってはならず、精神集中の彼方に「弓の心」とも言うべき特別な世界が存在すると述べている。
四、研究結論弓道が精神的な境地を弓と矢によって得るものとするならば、器である弓と矢を、的中という目的のために使う術である射術が弓道の根本であると結論付けられている。弓術が弓道に昇華するためには、弓術は可能な限り正しくあるべきであり、自己の射術に不安があってはならないと提言されている。
蛇足↓
確か本多流開祖「本多利実」弓聖は、禅が知りたいと尋ねて来た欧米人へ「禅が知りたいのなら、禅寺へ行きない」と追い払ったそうだ。