前回の続きです・・・ランチ後、白河駅の北側に国指定の小峰城跡があります

今日は天候が良く、小峰城の歴史を勉強しながら城内を散策して参りました

  

小峰城祉 手前が本丸御殿跡    前御門       小峰城本丸周辺想定図

 

  

清水門跡         清水門跡の説明プレート         堀

(清水門の復元事業を進めています)

 

初代丹波長重に始まる7家21代の藩主が在城した小峰城は、江戸時代における

代表的な平山城です。

慶応3年(1867)、阿部家が棚倉へ移封された後は藩が置かれず空城となっており、奥羽の咽喉である白河は鳥羽・伏見から始まった戊辰戦争の戦場の一つとなっています

慶応4年(1868)閏4月20日に会津藩兵が占拠した際に城郭は焼失。

5月1日西軍が奪還し落城。その後東軍が白河奪還戦を繰り返しましたが果たせず

7月28日に至りようやく銃声が止みました。平成3年(1991)に復元されたには三重櫓には

激戦地稲荷山の古杉が使えわれており、西軍が放った弾痕を見ることが出来ます

  

三重櫓(さんじゅうやぐら)    内部    今に残る戊辰戦争の弾痕▲     

 

三階(三層)での内部上の階には、コロナ関係で立ち入り禁止NGです

二、三組の見学者がいて係りの者がいましたが・・・

少ない来場者で立ち入り禁止もおかしな話ですねえー?(どこの場所でも散見されますね)

 

  

小峰歴史館                   御城印をゲット福島の三城を巡るぞ~(^^♪    

(小峰城の歴史や歴代の城主について知ることが出来るガイダンス施設です)

歴史館でお勉強後、駅隣の観光物産協会でチャリ自転車を借りて、市内を巡ります

 

白河口の新選組をちと説明

白河口における新選組は、歩兵・器械・大砲の三部隊で隊長・副長・軍目・指示役・頭取

などの指揮官と平隊士で編成されていました。後方基地に駐屯した際の隊士名簿(石井家文書)には士官45人の氏名と歩兵50人、小者9人、別当3人が記録されて、負傷などによる戦線離脱者も記されています。130人を超える名前が記録された別資料もあるそうです。

(白河観光物産協会)

 

  

脇本陣柳屋       柳屋の蔵座敷     傍(本町)にあるマイタウン白川ビル

  

閏4月末日、新選組の斎藤一(山口二郎)他106名の隊士たちが宿営した脇本陣の土蔵が、本町に現存しています。(また明治天皇の白河行在所跡でもある)

白河ゆかりの沖田総司

新選組の一番隊長 沖田総司は奥州白河藩士沖田勝次郎の子ですが、家督は姉の夫・林太郎が相続したため、藩に籍を置いた記録はありません。江戸の白河藩阿部家下屋敷で生まれ新選組に結成してから入隊し、池田屋事件でも活躍していますが戊辰戦争では、肺結核のため戦列を離脱しています(広報・白河)

 

  

マイタウン地下にある   大工町の「皇徳寺」にある新選組「菊池 央(たのむ)」の墓

新選組観光用姿絵(この本町マイタウン地下に無外流○○会の稽古場があります)

 

新選組隊士 菊池 央(たのむ)の墓

弘化四年(1847)弘前藩士の家に生まれ俗名は央「えい」五郎(英五郎)といい慶応三年

(1867)六月以降に新選組隊士となり慶応四年(1868)閏四月二十五日、白河口の戦いに

おいて白坂を守って22歳の若さで戦死した。墓前の正面に「誠忠院義勇英剣居士」

左側面に弘前 菊池 央五郎 右側側面に慶応四年戊辰閏四月二十五日戦死と刻まれています

ここから気になっていた遊女志(し)げ女の碑に向かいます自転車

チャリといつてもママチャリに近い自転車で本町から旧奥州街道(国道294号)を走り

阿武隈川を渡り白河城下、会津街道との分岐点前の女石(おんないし)迄・・・

ペタルを踏みます

 

  

旧奥州街道(国道294)     奥州街道と白河城下の案内 仙台藩墓所

阿武隈川をチャリンコ自転車で渡る  (説明看板)          戦死供養塔       

 

遊女志(し)げの女の碑(女石地内)

戊辰戦争時、悲劇の死を遂げた遊女について記された石碑です

越後生まれのしげは、幼くして白河の妓楼坂田屋に身を売られました。西軍下参謀

世良修藏と情を結んだため、戦後旧会津藩士がしげを憎んで殺害したと伝えられています。

世良は仙台藩や米沢藩の会津救済嘆願を退け、「奥羽を皆敵と見て武力をもって一挙に

討伐する」と書いた密書が露見したため、閏4月20日未明、福島城下にて捕縛され、阿武隈川河原で仙台藩士らによって斬首ドンッされました。これが戊辰戦争の一つのキッカケとなっております。(白河観光物産協会)

   

国道四号線分岐点三叉路地点にある遊女志げの女の碑

左側看板下の碑です

 

意外と知らなかった松平定信の「御工夫(おんくふう)の剣」

山本流居合術は松平越中守家が治めた桑名・高田・白河の各藩、松平下総家が治めた忍藩にも伝承されている松平越中守家が治めた白河藩で山本流居合術を庇護したのが松平定信である居合術と柔術の融合を試みている同流が松平定信の趣向に合ったかもしれません

山本流居合術は藩校・立教館で教授され定信自身が技を工夫して流派の改良を行ったと言われている。定信自身が工夫した術技は「御工夫の剣(楽翁公(らくおう)の御工夫)」として

現在に至るも伝承されています。(秘伝)

 

  

白河駅周辺地図     新白河から新幹線へ乗り換え新幹線自由席も空いています

 

白河観光物産協会の皆様、大変お世話になりました。「ありがとうございましたえっ!」

では、機会がありましたらぜひお伺いいたします、その日までラブラブ・・バイバイ

 

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