内藤新宿」は甲州街道の最初も宿場町で他の三宿に比べ百年後の、元禄十二年(1699年)

浅草の名主、高松喜兵衛が開設させた新しい宿場であったと言われている


もともと、この地は信濃高遠藩内藤家の下屋敷の一部を新しく設けられたので内藤新宿と

呼ばれています・・・(現在の新宿一丁目から三丁目迄の一帯にあたります)

新宿駅駅周辺の繁華街から東側にズレますね)

(以下、詳しくは割愛致します)

聞いたことがあると思いますが、伝説では徳川家康が内藤氏に

「馬馬が一息で廻れるだけの所領を与えよう・・・」言ったので

馬に鞭を入れDASH!駆け廻り江戸一の広大な所領を手に入れた」・・とも言われている


宿場内では旅籠屋、茶屋が増え・・・御多聞の洩れず飯盛り女おとめ座による岡場所(色街ラブラブ)としても

賑わいを見せましたが・・時の八代将軍徳川吉宗の時代(享保の改革)もあって

風紀の乱れを嫌い、一時は廃宿となりましたが復活して次第に盛り場として発展し

文化五年(1808年)には旅籠屋が50軒・引手茶屋80軒となり

(詳しくは割愛致します)江戸四宿の中でも品川宿に次ぐ賑わいを見せ・・・

明治維新まで続き現在では内藤新宿と言う地名は残っていませんが

新宿の名は・・・この内藤新宿に由来しています



内藤新宿         内藤新宿


新宿御苑の大木戸門前から四谷方面を見る        新宿御苑前大木戸門前から新宿駅を見る

    (四谷四丁目交差点)             四丁目交差点から奥が内藤新宿の旧宿場一帯になる

    
内藤新宿         内藤新宿

内藤新宿復元模型(新宿区立歴史博物館)
                                    左側 「内藤新宿」右側 「四谷大木戸」

                                            江戸名所図会

宿場の様子



「内藤新宿」は東西9町10間余(約999m)現在の四谷四丁目の交差点(四谷大木戸)から

伊勢丹(追分「おいわけ」と呼ばれ甲州街道と青梅街道の分岐点であった)あたりまで続いていました


宿場は大き三つにわかれ、大木戸側から下町、仲町、上町と呼ばれていました


太宗寺(たいそうじ)の門前は仲町あたり・・本陣(大名や公家、幕府役人などが宿泊、休憩する施設)

や問屋場「といやば」=(次の宿場まで荷を運ぶ馬と人足を取り扱う施設

内藤新宿の場合、人足50人、馬50疋(ひき)と定められていたが、のちには25づつとなった)

高札場(こうさつば)=(法度「はっと」、掟書「おきてがき」、罪人の罪状などを記し周知する立札)が

ありました

内藤新宿は江戸の出入り口にあたる、品川・板橋・千住・新宿のひとつとして繁栄いたしましたが

それを支えたのが旅籠と茶屋でした


これらに飯盛女(めしもりおんな)と呼ばれる遊女が置かれましたが元禄15年(1702)には

当時、幕府公認の遊l興地であった吉原からの訴訟が出されるほど繁盛しました

飯盛女の共同墓地「子供合埋碑(こどもごうまいひ」が成覚寺(新宿2-15-18)にあり

区指定有形文化財に指定されている


宿場の廃止と明和の立返り


このように大変な賑わいをみせた「内藤新宿」でしたが享保3年(1718)に開設後

わずか20年にして宿場は廃止となります、これは利用の少なさ、旅籠屋の飯盛女がみだりに

客を引き入れたこと、旗本内藤新左衛門の弟、大八が信濃屋の下男(げなん)に殴られた事件などが

原因と言われますが、八代将軍徳川吉宗の「享保の改革」に伴う風俗統制の影響もあったようです

その後、度重なる再興の願いにより明和九年(1772)に宿場は再興されました。


              

内藤新宿          内藤新宿


     新宿御苑大木戸門入口                四谷大木戸跡碑(よつやおおきどあとひ)


四谷大木戸碑は昭和三十四年十一月、地下鉄丸ノ内線の工事で出土した玉川上水の石橋を

利用して造られた記念碑である。実際の大木戸の位置は、ここより約80メートル東の四谷四丁目

交差点のところで東京都指定旧跡に指定されている  (東京都教育委員会)



内藤新宿          内藤新宿


新宿御苑(しんじゅくぎょえん)


内藤氏の江戸屋敷の一部がそのルーツと言われています

明治に入り、農事試験場を経て、明治39年に皇室の庭園となり、戦後昭和24年(1949)に

国民公園として一般に公開されました・・・広さ58.3ha(約18万坪)、周囲3.5kmの園内には

フランス式、イギリス風形式庭園、そして日本庭園が巧みにデザインされ、明治を代表する

近代西洋庭園と言われています・・・(拙者、もちろん日本庭園中心に園内散策し広大な

内藤家屋敷跡に思いを馳せ歩きましたよ・・・)

内藤新宿          内藤新宿



太宗寺にある内藤正勝の墓(内藤家墓所)           太宗寺にある江戸六地蔵のひとつ

                                       右側写真 「 銅造地蔵菩薩坐像



内藤新宿太宗寺(なかのしんじゅくたいそうじ)▲
太宗寺は慶長年間初頭(1596年頃)に開いた草庵を前身とし、後の信州高遠藩主内藤家の

菩提寺として発展した寺院です


内藤新宿          内藤新宿

遊女たちの投げ込み寺
  成覚寺(じょうかくじ) 正面                     子供合埋碑(こどもごうまいひ)



江戸時代の内藤新宿にいた飯盛女(子供と呼ばれていた)達を弔うため、万延元年(1860)十一月に

旅籠屋仲で造立したもので、惣墓と呼ばれた非葬墓地の一角に建てられた墓じるしである

飯盛女(めしもりおんな)の抱えは実質上の人身売買であり抱えられる時の契約は年季奉公で

年季中に死ぬと哀れにも、投げ込むようにして惣墓に葬られたという


もともと墓地の最奥にあったのが昭和三十一年の土地区画整理に際し現在地に移設された

宿場町として栄えた新宿を陰で支えた女性たちの存在と内藤新宿の歴史の一面を物語る

歴史資料である



内藤新宿          内藤新宿  


成覚寺にある「旭地蔵(あさひじぞう)」             花園神社の右側「唐獅子雌雄一対」   



花園神社(はなぞのじんじゃ)  慶安元年(1848)尾張興公の別邸内に創建され、別邸内に

花園があったところから花園神社と呼ばれ内藤新宿の鎮守として信仰されています 

旭地蔵(あさひじぞう)    蓮座と反花の間に十八名の戒名が記されています

これらの人々は寛政十二年(1800)から文化十年(1814)の間に宿場内で不慮の死を遂げた

人達で、そのうちの七組の男女はなさぬ仲を悲しんで心中した遊女と客達であると思われます

宿場町が生み出した悲しい男女の結末の一面を物語っています

別名「夜泣き地蔵」とも呼ばれたいます


内藤新宿          内藤新宿


 花園神社(はなぞのじんじゃ)              天竜寺の時の鐘(てんりゅうじのときのかね)

天竜寺の時の鐘  

天竜寺の鐘は元禄十三年(1700)牧野備後守成貞により寄進されたもので内藤新宿に時刻を告げた

時の鐘」である 内藤新宿で夜通し遊興する人々を追い出す合図であり「追い出し鐘」として親しまれ

江戸の時の鐘のうち、ここだけが府外であり武士も登城する際、時間がかかるなどのから

三十分早く時刻を告げたという・・・上野寛永寺・市谷八幡とともに江戸の三名鐘と呼ばれています



内藤新宿         内藤新宿


新宿三丁目交差点手前が甲州街道            追分の位置にある現在の新宿三丁目交差点
伊勢丹左奥が青梅街道へ                       (新宿伊勢丹前)



内藤新宿         内藤新宿

三丁目交差点歩道上にある「追分道標あし」と絵図     追分(おいわけ)名物 「追分だんごお団子


四谷四丁目の「大木戸跡碑」から内藤新宿の内藤家の庭園(新宿御苑)~新宿界隈の

主だった史跡を巡って参りましたあし・・・

ちょうど天竜寺の鐘が鳴ったようで音譜???足もくたびれたかな?にひひ

最期の新宿三丁目交差点信号機傍の追分名物「朝仕込みの追分団子お団子」を土産に買い

黄昏時(たそがれとき)の新宿駅東口の駅に向かいました ・・・

拙い拙者と御同行(ブログ御購読)「ありがとうございました!シラー



上記、文献として「東京都新宿区教育委員会」を参考にさせていただきました・・・