江戸歴史探訪も大分、ご無沙汰で掲載が遅れていましたがチト掲載時間ができ、

拙い江戸歴史のブログ掲載で恐縮ですがお付き合い願いたいと思いますしょぼん



板橋宿 江戸の四大宿場と言えば・・・

東海道の「品川宿」、甲州街道の「内藤新宿」

奥州街道の「千住宿」それに中山道の「板橋宿」である

日本橋を中心とした円の周上にありますが今回は

中山道の第一宿「板橋宿」を江戸の風情を

味わいながら歩いてみました

板橋宿上宿・仲(中)宿・平尾宿(下宿)」

それぞれ名主が置かれた総称で

仲宿(中宿)を中心に巡りあしました

JR埼京線電車の板橋駅東口を下車し改札口を抜けると

広場があり左側正面に「新選組慰霊碑

が建っています慶應四年(1868)流山で捕らわれた

新選組局長の近藤勇は慶應四年四月二十五日

板橋宿付近で処刑ドンッされ、時の軍医、松本良順を

幹事として新選組の生き残り

永倉新八、斎藤一、等が建立したものです・・






新選組慰霊碑と近藤勇の石像・右下は永倉新八の墓


板橋宿         板橋宿
      中山道観光案内板                   東光寺には関ヶ原の合戦で敗れた
                                    「宇喜多秀家の墓」がある前田家の

                                     遠縁にあたる


板橋の「新選組まつり」も、この時期に広場と慰霊碑を活用して盛大クラッカーに行われています

(拙者もたびたび拝見させていただきました)

(テーマに沿わない部分ですので細かくは割愛します)


板橋宿          板橋宿

加賀公園内にある「加賀藩前田家の下屋敷跡   広大な敷地面積を誇る前田家の下屋敷
の石柱の碑                          左側は江戸期の絵図 右側は現在推定地域


旧中山道の平尾一里塚跡を見てから踏切を渡り西口の反対方向に旧中山道商店街を通ると

国道17号線にあたり平尾追分(ひらおのおいわけ)分岐点(中山道と川越街道)になります

旧中山道を少し戻り「東光寺」と東側奥の加賀公園内に加賀百万石「加賀藩前田家の下屋敷跡」の

石柱があります・・・屋敷の広さは約22万坪という広大な敷地面積で現在でも町名(加賀)の名の

名残が見えますね

ちょいと他所道(よそ)迂回してしまいましたが都営三田線が板橋市役所から板橋本町迄北に走る

東側の平尾追分に戻り旧中山道商店街入口から「縁切榎」の板橋本町駅まで板橋宿の江戸歴史

風情を小走り走る人(無外流の業「走り懸り??」)に巡ります


板橋宿         板橋宿

左側が川越街道で右側が旧中山道商店街入り口       板橋宿平尾脇本陣豊田家 跡碑

    (平尾追分)                      (幕末に近藤勇が幽閉された場所でもあります)



板橋宿               板橋宿
    観明寺の庚申塔                     中山道板橋宿の道標(左下)が見られます

参道入り口にある庚申塔は寛永三年(1661)八月に

造立されたもので青面金剛像が彫られたものとしては

都内最古です 昭和58年に板橋区指定有形文化財になっています

                   


板橋宿         板橋宿
          平尾宿脇本陣の碑                スーパーの隣接する壁側にある

                                           板橋宿本陣跡の碑


平尾宿脇本陣(ひらおじゅくわきほんじん)


家康の江戸入府に従って三河国から板橋に移住したとの伝承がある豊田家は

平尾宿の名主と問屋役、脇本陣などを務めていて代々(市右衛門)と言う苗字帯刀を許され

平尾の玄関と呼ばれている・・・

慶應四年(1868)四月、下総(しもうさ)流山で新政府軍に捕らえられ近藤勇は平尾一里塚付近で

処刑ドンッされるまでの間、この豊田家に幽閉しょぼんされていました

(旧中山道路地の(花の湯)からのこの地に至る場所が解らず「観光センター」の方に道案内や

史跡解説を頂き、大変お世話になりましたありがとうございますニコニコ・・・感謝!ラブラブ


板橋区民センター傍に「旧新藤楼跡」があったと・・・センター案内の方に説明いただきました

なんでも明治初期に大火メラメラがあり旧板橋宿は灰塵と化しこれ以降、宿場町は遊郭街キスマークと変貌して

賑わっていったようです・・・江戸中期には板橋飯盛女は150人位いたのでしょうから

飯盛り旅籠はこの平尾宿に集中していて料理屋割り箸や茶屋お茶お団子が軒を連ねていたんでしょうね・・・

この場所あたりでしょうね・・・(ちょい寄り道)


一息し、旧街道を北に足を運びます


板橋宿         板橋宿

   遍照寺にある馬頭観音塔群           左上は板橋遊郭の妓楼「新藤楼」

何故か雑然と並んでいた?・・・が    右側はかつての場所には高いビルが建ち面影もありません

                         (新藤楼の玄関だけは赤塚の郷土資料館におかれているとの

                         ことでした)      

                


「遍照寺(へんしょうじ)」

江戸時代は天台宗のお寺ですが明治になって真言宗のお寺になっています

江戸時代には境内に馬馬の、つなぎ場があり明治時代になると馬市が開かれたと言われています


「板橋宿本陣跡(いたばしじゅくほんじんあと)」

本陣は参勤交代の際に街道を通行する大名や幕府役人などが宿泊したり休憩お茶する施設で

板橋宿では飯田新左衛門家が勤めていました


本陣は「中山道宿村大概帳」によると建坪九七坪、門構え玄関付であったと記されています




板橋宿         板橋宿

文殊院の山門・・・左側は延命地蔵堂です            文殊院にある女郎(遊女)の墓

                                   いつもながら悲哀を感じる・・お墓です

「文殊院(もんじゅいん)」


宗派は真言宗豊山派で、御本尊は文殊菩

薩です・・・江戸時代の初めに飯田家が、延命地蔵の

境内を整備したのに始まると伝えられています・・・境内入口には閻魔大王が祀られ、

墓地には加賀藩主前田吉徳の娘祐仙院に仕えた飯田静の墓碑や遊女の墓などがあります


「中(仲)宿脇本陣跡(なかじゅくわきほんじんあと)」

代々宇兵衛を名乗る飯田家は、板橋中宿の名主と問屋役、脇本陣を勤めました

文久(1861)に皇女和宮が徳川家茂に降嫁した際には宿泊所となり、また明治以降も

明治天皇の大宮氷川神社行幸や、皇族による地方巡見の際には休憩場となっています




板橋宿         板橋宿
   江戸風情ある建物                       江戸期の中山道板橋上宿の御料理

                                       御休泊所


板橋宿          板橋宿
左は明治初期の板橋 右は現在の板橋         現在の板橋(北側に向かい右側面の板橋)


「板橋(いたばし)」

旧中山道の石井川に架かる橋で、板橋の地名の発祥となったと言われています

太鼓上の木製の橋で、長さ9間(約16.4m)幅3間(約5.5m)ありました


板橋を渡り(石神井川)本町商店街を歩くと右側に「縁切榎(えんきりえのき)」があります

縁の切りたい人や逆に悪縁を絶って良縁を求める人から信仰を集めていまし


街道脇に初期の榎があった頃は旅人には薄気味悪い榎として恐れられていたが、いつしか

不縁の木としてあがめられ・・・榎は本来結びの木として知られいたものが

板橋の榎は「縁を切る木として・・・」特に離縁を願う女性たちの信仰対象になったのである


文久元年(1861)の和宮降嫁の時には迂回する道がつくられました

また、この榎(えのき)を根元から菰でスッポリ覆ったとも言われています



板橋宿                板橋宿

初代の榎(えのき)                      縁切榎(えんきりえのき)

気持悪いですか?                榎は災厄の侵入を防ぐとして昔から村や町外れの境に

                           植えられたという江戸期には周囲6mの大木でした

                 (今日も二人の女性が絵馬と何やら記帳をしお祈りしていましたが・・・)

悪縁斬りと良縁結びのパワースポット「縁切榎」を後にして最期の場所「日曜寺」に向かいます

ここは旧中山道から都営三田線を横断し反対方向の処にあります



「日曜寺(にちようじ)」

宗派は真言宗霊雲寺派で、御本尊は愛染明王です

享保年間(1716~36)に徳川吉宗の次男田安宗武が、堂宇を造営し、汁物を寄進したことに

始まります・・・山門にかかる独特な草書体で揮毫されている額が架けられていますが

(1815)7月2日に松平定信が奉納したものです


板橋宿         板橋宿

 日曜寺の山門                          江戸名所図会「乗蓮寺」

中央は松平定信が揮毫された額があります      中山道の中(仲)宿にあったと言われている)

    
現代の板橋宿名産ではなく江戸名産の土産でも・・と思い・・観光センターの方に訪ねましたが

「江戸期から継承されている食べ物?う~ん無いね・・・大根かな?・・」
乗蓮寺の江戸名所図会に馬に乗せて「大根(だいこん)」が運ばれている図会がありましたが

練馬から運ばれた「練馬大根」でしょうか?(愚問ででしたね!パンチ!)苦笑

・・・・一人思い浮かべながら帰りの都営三田線「板橋本町」に足を向けましたあし


   

 ※誤字、脱字他、誤りがありましたらお許しください!しょぼん


 <板橋区教育委員会の文献等を参考させていただきました>