JR山手線電車の田町駅を下車し北側、第一京浜、右側の三菱自動車車社屋前に

西郷南洲・勝海舟会見の地碑」が立てられている

この場所にあった薩摩藩蔵屋敷で明治維新前夜、慶應4年3月14日幕府の陸軍総裁「勝海舟」が

江戸100万市民と悲惨な火メラメラから守るため西郷隆盛と会見し江戸無血開城を取り決めた

この蔵屋敷(現在地)の裏はすぐ海に面した砂浜で当時、薩摩藩国元より船で送られて来る

コメなどはここで陸揚げされ(明治5年)更に埋立てられ海までは遠くなりましたが、この付近は

江戸時代の海岸線であった・・・またこの辺りは月見の名所で「月お月様の岬」と呼ばれ

「風光明媚」な場所として知られています


幕末の激動地「三田・高輪」        幕末の激動地「三田・高輪」
     西郷南洲・勝海舟会見の地碑                     薩摩屋敷跡


戊辰戦争のきっかけとなった「江戸薩摩藩邸の焼討メラメラ事件」この舞台となった「薩摩藩邸跡」は

ノッポビルの日本電気本社ビル敷地内垣根にあります(事件の詳細は割愛します)

ここの屋敷跡が、なかなか解りません守衛さんに聞き・・・何とか見つけることが出来ました

「ヤレ・・ヤレ」ですしょぼん


田町駅に戻り駅前の交差点信号機を渡り慶應仲通り商店街を入口に入り右手に

水野監物邸(みずのけんもつ)(屋敷)跡」がある


この地は赤穂事件で吉良邸討ち入りに加わった大石内蔵助良雄ら四十七人のうち

九人が預けられ三河岡崎藩水野家芝三田屋敷の一部である

間重治郎光興、奥田貞右衛門行高、若い矢頭右衛門七教兼・・等がこの屋敷で自刃しドンッ

武士の本懐を遂げています

(この商店街の右手にある水野監物邸跡は探すのに苦労しました・・解りずらい処にあります)


幕末の激動地「三田・高輪」    幕末の激動地「三田・高輪」   
  左側が水野監物邸跡の解説板です         西郷隆盛と会見し江戸を救った「勝海舟」



さくら通りと平行にある「聖坂(ひじりさか)」を南に歩くと左手に「済海寺(さいかいじ)」が見えます

入口の左手に「最初のフランス公使宿館跡」の標柱があり、ここは安政五年(1858)九月に

日仏修好通商条約が締結され翌年の六年八月十二日に仏公使宿館が設置されました

初代フランス公使のロッシュはイギリスのパークス(東征軍側)に対抗して

徳川幕府を援助していました

戊辰戦争の陰にイギリスとフランスの戦いがあったことは意外と知られていないかもしれませんね



幕末の激動地「三田・高輪」        幕末の激動地「三田・高輪」

済海寺にある「最初のフランス公使館跡」(中央)が碑    赤穂義士史蹟碑から前の団地を観る


(以下は幕末から脱線しますが時代は江戸中期に溯ります)


更に南下して歩くと魚籃坂(ぎょらんざか)と伊皿子(いさござか)が交差する場所に来ますと

すぐ傍は「高松宮邸」です・・・ここの敷地は熊本藩細川家の下屋敷で大石内蔵助以下、十七人の

赤穂浪士が切腹ドンッした 「赤穂義士史蹟碑」「大石良雄(よしたか)外十六人忠列の跡」が

閑静な団地・マンションの片隅にあります・・・切腹した中庭が見えませんでしたので

塀越しに覗き込んで目撮ってみました、大きな大木が邪魔してましたが庭石があり

「なんとも言えない雰囲気でしたね?・・・」



幕末の激動地「三田・高輪」       幕末の激動地「三田・高輪」

赤穂浪士の総師 大石良雄等十七名が          門の壁に掲げられている説明板

壮烈な死を遂げた現場である   

幕末の激動地「三田・高輪」

旧細川邸とは肥後熊本藩の細川家下屋敷です

歴代の総理の細川さんで知られている細川家です

赤穂義士史蹟から近くにありますが

地下鉄の白金高輪駅近くになります

このシイは高輪支所の丘陵上に独立しする単木で

樹高10.8メートル、幹廻り8.13メートルもある

樹木です・・・今も現存するのですから

どのくらいの樹齢でしょうか?凄いですね!

赤穂事件も長い歴史の中で見続けてきたのでしょうか?

「逞しい古木にパワーを貰いましょう!ニコニコ

東京都指定天然記念物になっています




 

    

▲ 旧細川邸のシイ



幕末の激動地「三田・高輪」      幕末の激動地「三田・高輪」
        高輪大木戸跡                         泉岳寺



また来た道を戻り、伊皿子坂の交差点を右折すると、ほどなく泉岳寺駅に向かいますあし

泉岳寺駅の北側に「石垣が見えてきました」

この石垣は「高輪大木戸跡」です・・・江戸中期享保九年(1710)芝口門に立てられた起源と

言われていますが諸説あります

甲州街道は四谷大木戸・・・中山道は板橋大木戸と共に街道の要衝で江戸の南の入口として

道幅六間(約10m)の旧東海道の両側に石垣を築き夜は閉めて通行止めとして

治安の維持と交通規制の機能を兼ね備えていました

「思いの外大きい立派な石垣があり驚きましたがえっ・・・」

暫く眺め・・・南側に戻り泉岳寺交差点を真西に一直線に歩くと・・・あし

忠臣蔵で有名な赤穂浪士のお墓がある泉岳寺です・・・以前に投稿掲載しましたので割愛します。


(上記、写真画像は2011年夏の頃です。編集しておりますのでご了承ください。)

※一部、東京都教育委員会の解説文献を参考にさせていただきました・・・

オマケの寄り道あし 


風の便りに?忠臣蔵にまつわる「切腹最中があるよ!・・・」と言われドキッとするネーミングだね!

興味本位に、これは面白いと思い・・・上記の時期と違いますが買い求めてきました

JRの新橋駅下車して徒歩あし7分ぐらい

なんでもこのお店(御菓子司 新正堂)

浅野内匠頭(たくみのかみ)が切腹された屋敷跡(田村右京太夫)に店があるのです

(港区新橋4-27-2)四丁目の環二通りの交差点にでると一際目立つ旗に

「切腹最中」と書かれ店内は切腹最中を買い求めるお客さんが並んでしました

最中に北海道の十勝産の高級小豆の餡がたっぷりはみ出し「切腹」を連想させていました

シャレにお詫びの時とか退職の時、持参しようか?・・とか妄想しながら

ついでに歌川国芳の武者絵の「義士羊羹(ようかん)」、バニラ・抹茶・ココアの生地にクリームを

サンドした「出世の石段」・・・若くて明るい女性おとめ座店員さんに説明を受け・・

つい・・ついひらめき電球土産袋も大きくなった・・・「ボリュームある切腹最中の逸品美味しかったよ!」

それに低カロリーで糖分の多い餡子(あんこ)で頭も体もリフレッシュだね!

なんか最後は食べものの案内になってしまった???・・・脱線ついでに御免ね!しょぼん



幕末の激動地「三田・高輪」       幕末の激動地「三田・高輪」  

餡がボリュームたっぷりにはみ出した「切腹最中」   義士羊羹・・・47士揃えるといくら?になるの~

幕末の激動地「三田・高輪」       幕末の激動地「三田・高輪」
お待たせ!元気で笑顔ニコニコの定員さん「つい・・・」   小判もついで買い添えて(一番右下右黄金色)