前回の続きで今度は鶯谷(うぐいすだに)と呼ばれる谷中初音町三丁目から四丁目を歩く

鶯(うぐいす)の初音音譜にちなんで付けられ、その年に初めて鳴く鶯のことだそうだ

春でもないが「ホ~ホケキョ~音譜」・・叫び


日暮れの里を歩く(二)      日暮れの里を歩く(二)
      観音寺の築地塀                        赤穂浪士供養塔


谷中五丁目に入ると「観音寺の築地塀(かんのんじのついじべい)」が見えた

土と瓦を交互に積み重ね土塀に屋根瓦をふいた江戸時代のもの

シッカリした珍しい土塀なので何度も端から端まで長い土塀を往復してみた・・・

ついでお寺を覗いて思わぬ発見!

このお寺は「赤穂浪士ゆかりのお寺」でもありました

赤穂浪士四十七士に名を連ねる近松勘六行重と奥田貞右衛門行高は当寺で修行している

文良の兄と弟であった・・・文良はのちに当寺の第六世となった朝山大和尚であったとのことです

四十七士の供養塔として古くから伝えられ現在でも霊を弔う人が訪れるという

観音寺の解説板に記されています


日暮れの里を歩く(二)     日暮れの里を歩く(二)
通りで妙な?ひらめき電球お店があります・・なんと読み    谷中のお煎餅屋さん・・・昔ながらのお煎餅

どんなお店でしょうか?(クイズではありません!笑ニコニコ)   食べてみたいが先を急いだしょぼん

日暮れの里を歩く(二)
ゆうやけだんだんと谷中ぎんざ

 

夕日が美しく見られる階段上(だんだん)場所と・・

レトロ調の谷中銀座商店街(残念ですが夕方まで待てないよ!しょぼん


日暮里の北口に出ましたあしここに上野戦争に敗れた彰義隊を匿った経王寺(きょうおうじ)

があります新政府軍の攻撃を受けた弾痕の跡が今もなお山門に残っています


日暮れの里を歩く(二)     日暮れの里を歩く(二)
            経王寺正面             弾痕跡が生々しい経王寺の山門


幕末の傷跡残る経王寺からお口直しに隣りの風流なお寺、通称(月見寺お月様)と言われている

本行寺(ほんぎょうじ)」へ

日暮れの里を歩く(二)     日暮れの里を歩く(二)
本行寺(ほんぎょうじ)別名「月見寺」    かつては風情ある月見お月様場所として見られたのだが・・・


日暮れの里を歩く(二)      日暮れの里を歩く(二)
通称月見寺にある小林一茶の句碑                 種田山頭火の句碑
他にも著名な儒学者や書道家の墓があります


日暮れの里を歩く(二)      日暮れの里を歩く(二)

現在でも富士山が見える目富士見坂(ふじみざか)」     高村光太郎記念碑

関東の富士見100景に選ばれています        第一小学校の校門前にあり同校を卒業した

                                 高村光太郎の「正直親切」は直筆です

     

日暮れの里を歩く(二)

        諏訪神社(すわじんじゃ) 建御名方命(たけみなかたのみこと)を祀る神社

                        長野県にある諏訪大社の分社

                 

日暮れの里を歩く(二)      日暮れの里を歩く(二)
 日暮里惣図(にっぽりそうず)

(図の左下に大きな黒い傷が二本、誰だ!   江戸時代は憩いの場所として親しまれた西日暮里公園

傷つけたのは・・・プンプン


道灌山の船繋松(ふなつなぎのまつ)はここのシンボルであり

近住の人たちに親しまれ大切にされていました

道灌山船繋松はこの絵の中で台地上に高くそびえていましたが安永元年(1772)の秋大風のため

一本が折れ残り一本になっている


日暮れの里を歩く(二)      日暮れの里を歩く(二)
                           現在の遠景▲

                          江戸時代の道灌山▼

日暮れの里を歩く(二)       日暮れの里を歩く(二)
  道灌山(どうかんやま)                道灌山虫聴(どうかんやまむしきき)

 虫聴きの名所でしょうね道灌山に集まり月お月様を眺め季節の虫の声を聴き音譜・・・

 夜通し星空楽しんだのでしょうね!

 なんという風情ある、風流な味ある時代だったのでしょうか・・・江戸っていいですね!ニコニコ

 


参考文献 荒川ク教育委員会・台東区教育委員会