青森旅行の目的は観光人気の「奥入瀬」だけではなく、
幕末の戊辰戦争の明治維新の折、
新政府軍に敗れ、「会津藩」は、お家断絶になりましたが、
後にお家再興を許され「斗南藩」として
二戸、三戸・下北地方に移封されました。
北の地への移住は会津藩士と家族の新たな
血と涙の苦汁の日々の始まりでもあり艱難辛苦の
会津武士の足跡を追う旅でもありました。
青森旅行二日目の午前中に三沢駅前のレンタカーを借り
三沢空港より国道170号を北に一時間位・・か
谷地頭(やちがしら)の道の駅「三沢」隣の
斗南藩記念観光村「先人記念館」に着きました。
開墾をする会津藩士
左上:先人記念館表 右上:記念館裏側 上左右:裏側にある牧場迹
中央:廣澤安任の住居兼書斎を復元した 中央:様々な用具
「六十九種草堂」
「先人記念館」~斗南藩(となみはん)と廣澤安任(ひろさわやすとう)~
明治四年に廃藩置県が行われ、青森県が誕生した折、これに深くかかわったのが
斗南藩の少参事である元会津藩士「廣澤安任(ひろさわやすとう」と言われています。
安任はその後、三沢市谷地頭に日本初の民間洋式牧場を開設し旧斗南藩士たちに生きる希望を
与えました。安任が牧場経営の様子を取りまとめた書簡「開牧五年記事」に福沢諭吉が序文を
贈り、また明治九年の明治天皇東北御巡幸の折随行した明治政府の大久保利通は
安任に入閣を進めたが「野にあって国家に尽す」・・・と一介の牧夫として北辺の地の開拓に
一生を捧げる覚悟であることを告げています。
「六十九種草堂」(ろくじゅうきゅうしゅそうどう)
廣澤安任の住居書斎を復元した建物です。
「六十九種騒堂」という名前は明治14年に東京で開催された内国勧業博覧会に牛馬が食べる
野草69種類の研究成果を出品したことを記念して命名、
当時親交のあった勝海舟により「六十九種草堂」と揮毫した書が贈られました。
旧斗南藩士北山入植地跡
明治3年、会津藩が斗南藩へと新封されたことにともない会津藩士の移住が始まった。
七戸藩領であった三沢にも、廃藩置県後の明治6年、会津藩士が移住し、ここ北山と
南山に各50戸、479人が居をかまえた。
生垣として植えられたイチイが当時をしのばせる。
平成10年10月 三沢市教育委員会
歴史にあまり興味のない奥方殿を隣の「道の駅」に残し記念館内を見
ていました。
館内の受付の方にいろいろ「斗南藩」のことについて質問をしましたが、あまり知識が無いと・・・
奥から専門員が出てきてしばらくお話です。
例えば・・・此処に廣澤牧場の遺構がありませんか?廣澤牧場は此処の場所にありましたが
今は無いと言うことです・・・他に史跡はありませんか?・・・と質問をしましたら
近隣に会津藩士の入植地跡があります・・・此処からそんなに遠くありません・・・と言って
入植地跡の写真をカラーコピーして頂きました。
そんなお礼をしている時です
あまり遅いので心配した奥方殿が入館してきて
「いつまで見ているの?・・・早く奥入瀬に行きましょう・・・
」と催促です・・・
「ウーン」残念ですが入植地に行かれず奥入瀬に直行することになり
この写真コピーが拙者にとって貴重な資料になりました。
専門委員の方は斗南藩のことに関する説明を事細かく親切に説明を頂き感謝です
「誠にありがとうございました」・・・
参考文献 道の駅みさわ斗南藩記念観光村「先人記念館」・むつ市
三沢市教育委員会