掛け声と共にお白州の場に登場し
下手人がシラを切り他人に罪を
なすりつけようとすると、諸肌を脱いて
「この桜吹雪、忘れたとは言わせねえぜ!」。
その威勢のいい声のタンカを切るのは遠山の金さんこと遠山左衛門尉影元(遠山金四郎)。
▲遠山の金さんのイメージ(遠山金四郎)
いれずみ奉行として名高い遠山金四郎は天保11年(1840)三月から
三年間の間、北町奉行の職にあった。
お奉行は今でいえば東京都を所轄する警視庁長官と東京地裁所長、
さらに都知事を兼ねたような役職だ。
この北町奉行や南町奉行を訪ねてみました。
1:八重洲北口出入口(正面奥) 2:八重洲出入り口ドア
3:ドアを開けた膝下にありました(黒い影)▲探した北町奉行表示プレート
トラストタワー沿いにある江戸城外堀の石垣 ▲トラストタワーN館通り沿いに
ある北町奉行所跡(左下中央)
「北町奉行所」は東京駅八重洲口のノースタワーのあたり
東京駅の八重洲を結ぶ自由道路の八重洲側大丸横にその
表示プレートがある。ドアの膝下に嵌め込まれているので探すのに
結構苦労しました。(一度でわからず、二度目の訪問で探しました。)
(何故、わかりずらい場所にあるのか?わかりません?)
八重洲口駅前の外濠は東京オリンピックの際埋め立てられてしまったが、
この外濠通りの内側(城側)が大名等が居住していた。
JR山手線「有楽町」駅を下車し、中央口から外に出ると目の前に現れるのが
「イトシア」丸井をキーテナントとする商業施設とオフィスが混合する
複合施設で、このあたりが数寄屋橋御門前。
ここに「南町奉行所」があった。
紀州の殿様が下女(湯女)をお手付して生れた吉宗が成人して
徳川八代将軍に就いた際、同時に紀州から引き上げられたのが
大岡越前(大岡忠相)。
水野忠邦に付き添って出世を遂げ、妖怪とまで恐れられた
鳥居耀蔵(とりいようぞう)も南町。
さらに遠山左衛門尉景元も北町奉行を務めた後、こちらの
南町奉行の職のも就いている。
有楽町イトシア前広場 正面に史跡 現代版の南町奉行所?(駅前交番)
南奉行所の史跡 発掘した石を
使用しているベンチ? 南奉行所跡の説明案内板
史跡を活用した石のベンチ
北町奉行、南町奉行は月番といって一月ごと開いた。
今月は北町奉行が開き、訴状を受け取ると、翌月は奉行所を閉め
それに代わって南町奉行所が開く、といったシステムだ。
ということは、「もう少し待てば、南町が開く。提訴は南町のほうにしょう」など
ということがあったことも充分推測できる。
例えば、北町奉行の遠山の金さんと南町奉行の鳥居耀蔵の頃。
水野忠邦の奢侈(しゃし)禁止令を忠実に実行した鳥居の南町と、
不況だからといって庶民の楽しみを奪ってしまうとさらに経済が悪化するとして
取り締りを緩め、お目こぼしをした庶民波の金さんが仕切る北町と
庶民はどちらを頼りにしたか・・・
因みに原則として旗本が任命され役料は三千石
勘定奉行の上座配下の与力・同心などがいた。
下記の文献等を参考にさせていただきました。
江戸を訪ねる東京のんびり散歩・東京都教育委員会