もっと気軽に居合道!  熊谷・川越道場 剣酔記-安兵衛ゆかりの地
メトロ地下鉄東西線地下鉄の早稲田駅を下車・・・


駅前に高田馬場の決闘の際、安兵衛が酒店

に立ち寄り走る人お酒をグイット一杯

お酒飲んだとされる・・・

延宝年間(1670年頃)創業の小倉屋(現在はOKURAYA)

に寄り記念に淡麗辛口の吟醸酒(高田馬場

 堀部安兵衛 720ml¥1350)

を買いました。

最寄の馬場下町交差点信号機が目入り馬場下町交番の上が穴八幡宮である。

きっと戦勝祈願に安兵衛もついでに

立ち寄ったかもあし



▲堀部安兵衛のお酒



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▲中央:堀部安兵衛 飲用の酒枡         ▲堀部安兵衛の小説



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▲参道の階段を上がると「隋神門」が見える    ▲流鏑馬の像


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蟲封じの祈願・商売繁盛・出世開運に利益があると言われ流鏑馬などで

知られる穴八幡神社です。



穴八幡宮神社(あなはちまんぐうじんじゃ)穴八幡宮


前九年の役で勝利して凱旋した源義家が、康平五年(1062)、

日本武尊命(やまとたけるのみこと)の神話にならって兜と太刀を奉納し、

八幡宮を勧請(かんじょう)したことに始まると伝えられている。

寛永十三年(1636)江戸幕府御持弓頭(おもちゆみがしら)

松平直次がここに的場をつくり、射芸の神として八幡宮を奉祀(ほうし)した。

八代将軍吉宗が高田馬場の流鏑馬を復活させたのは穴八幡と射芸の

関係にあやかってのこととされる。


早稲田駅から穴八幡宮を左に見て

八幡坂をあがると西早稲田交差点信号機です。


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西早稲田交差点▲:現在位置地図        ▲西早稲田交差点


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▲(早稲田通り)

決闘の場所は右下の右側一画        ▲ 江戸名所図絵 高田馬場


高田馬場(たかだのばば)


明治維新まで幕臣の弓馬の練習場としてここに高田馬場があった。


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寛政五年(1793)二月四日に挙行された

高田馬場流鏑馬(やぶさめ)場所

絵図によると馬場は東西二百間、

南北二十五間とあり東から西へ追いまわしと

呼ばれた中土手が築かれ土手の南側が馬、

北側が弓の練習場となっていた。


中土手から北の松並木の土手までは

現在ビルや住宅が密集し、

往時を偲ぶことは難しいが幸い南側の部分が

早稲田通り道路として残り

(昭和初年、道路南側を拡幅)、

この大通りがまさに江戸の昔、

旗本たちが馬で駆け回っていたところとなる。





▲高田の馬場 名所江戸百景(広重)


馬場の中央で南に寄った西早稲田三~十二~三あたりに

将軍お立ち台が置かれていたと古老の言い伝えがある

流鏑馬場所絵図に見る検所がそれであろう。


慶長年間、家康の側室で高田殿と呼ばれた茶阿の局がこの辺り風景を

こよなく愛し遊覧の地とした。

高田殿没後、寛永十三年(1636)三代将軍家光がこの芝野に弓馬練習場を

築造し高田馬場となったと言われている。

高田馬場の由来は他説もある。

室町時代までにここは高田郷戸塚村と言われており

北に高田村、西には上高田村もあり、この地名に因るものだと


享保十三年(1728)八代将軍吉宗は家光の馬場築造記念日の三月五日を

選びここ高田馬場に於いて初めての流鏑馬を行なった。

以来、元禄七年(1694)大江戸を沸かした安兵衛の仇討ちで世に知られる

ところとなり寛政の頃になると、江戸市中で男伊達になるものが流行し

試合勝負の名所のようになった。


昭和の初めまで旧馬場の中央西よりに小学校があり校庭に伝説の

「安兵衛刀傷の松」があった。

松の真偽のほどはともかく、果し合いはこの一画で行なわれたものと推測する

明治末期、旧高田馬場に建てられた堀部安兵衛の碑は現在

水稲荷神社境内にある。

またお立ち台北側にある茶屋町通りはかなり古く江戸名所図絵にあるように

八軒茶屋が並び雑司が谷鬼子母神や弓馬の旗本たちの休息所として

田楽や焼団子を名物として繁盛した。

                           八幡寿司四代目



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▲水稲荷神社の正面入口参道          ▲水稲荷神社社殿

階段を上り左側に碑はあります。    体の悪いところを狐のそこを触って

                        自分の体を触ると体の痛みをやわらげる

                        という耳次け神狐がある。


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▲堀部武庸加功遺跡 碑          ▲左の遺跡に記されている原文を

(安兵衛の功績を称えた碑です)      わかり易く記載された解説文です

                         (画像容量を大きくしてあります。)


浪人中の中山安兵衛は高田馬場の決闘の助太刀で勇名を馳せ、

赤穂藩の堀部弥兵衛に請(こ)われて堀部家の養子に入った。

その縁によって、赤穂藩改易後、四十七士の一人になって吉良邸に

討ち入りを果たした。

その堀部安兵衛は赤穂四十七士の隋一(ずいいち)の剣客として知られている。


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▲碑はメトロ日比谷線八丁堀駅下車     ▲八丁堀一丁目の亀島橋町会の

亀島川の亀島橋北側左端にあります。    協力によって碑は建立された。



堀部安兵衛武庸之碑 


碑文が記してあるので読める範囲で写してみました。

(当時の水谷町は現在の八丁堀一丁目です)以下碑文です▼


越後新発田五萬石溝口藩中山弥次右衛門の子

寛文十一年生れ元禄元年江戸之念流堀内道場へ入門

元禄四年玉木一刀斎道場師範元禄七年二月高田の馬場に於て

叔父菅野六郎左右衛門之仇討

其の後も京橋水谷町儒学者細井次郎大夫家に居住

浅野家臣堀部家の妙と結婚堀部安兵衛武庸となる

禄高二百石元禄十四年十月本所林町に於て長江長左衛門の名で剣道指南

元禄十五年十二月十四日赤穂義士の一人として吉良邸に乱入仇討す

元禄十六年二月四日歿三十四歳

法名 刀雲輝剣信士



因みに1月2日放映の新春ワイド時代劇「忠臣蔵~その愛」

テレビ東京系午後4時~主役の堀部安兵衛は内野聖陽

(以前にJIN-仁-の坂本龍馬役)で江戸の暮らし、浪士たちの思いを背負い、

庶民の苦しみを見つめる中で成長する安兵衛を演じています。

拙者はバッチリ録画しましたが皆様はご覧になりましたでしょうか?


次回は北町・南町奉行所を廻ります。


下記の文献等を参考にさせていただきました。

東京のお江戸をめぐる散歩コース50

八幡寿司四代目・江戸名所図会よみがえる八百八町・

名所江戸百景(広重)・堀部安兵衛(上下巻)新潮文庫