4月30日(土)21.6℃
かねてから土方歳三の(生家建替え後の)資料館を訪ねてみたいと
思っていたが日曜日の午後の時間帯だけなので道場稽古があり
諦めていたが○○新聞の記事に資料館がゴールデンウィークの期間に
見られる機会があり早速、出かけた
。
自宅から約2時間、電車を乗り継ぎ
正午過ぎには「土方歳三資料館」に無事到着・・・
▲土方歳三の和泉守兼定 ▲使い込んだ柄糸は磨耗が激しい
▲土方歳三の全身肖像写真 ▲土方歳三手植えの矢竹
若き日の歳三が「我、壮年武人となって
名を天下に挙げん」と言って庭に植えた・・
▲土方歳三資料館全景 平成二年まで残されていた▲土方歳三生家
一着は池田屋事件・禁門の変の際に着用
会津藩お抱刀工である土方歳三の佩刀(はいとう)二尺三寸一分六厘
(約七十・三㎝)十一代和泉守兼定の作といわれる刀をメインに
資料館に30分程拝観させて頂いた。
館内には30人程、展示品に縦列に並び、なかなか進まない
土方家の親族のお嬢さんが「館内は自由に空いてるところから
ご覧ください・・・」の一言があり・・・
縦列に並んでいる列がくずれあっちこっちに乱れ動き出した・・・
刀の前だけはなかなか目の前にして見られず・・覗き見です・・
前からいたのか若い青年がガラスごしの刀の前に座って熱心に
じっくり見つめていて当面席があきそうにもない・・・
しばらく他の展示品を見ていたが、あきらめて次のコース
土方歳三の墓がある石田寺(せきでんじ)に向う・・・
記念館から東方に巨木が見える。樹高二六メートル、樹齢六百年を
超えるカヤの木で、この木がある石田寺に土方の墓がある。
土方は五稜郭の戦いで壮絶な戦死を遂げ、遺体は収容されなかった。
あまりに壮絶な戦いだったため、どれが彼の遺体なのか判別できなかった。
そのため、石田寺にある墓には遺体が埋葬されておらず、いわゆる
引き墓となっている。墓石は土方家の墓域の右側にあり、今日も
多くの土方ファンが訪れていた。
▼受付にある土方歳三グッズと庭にある胸像
▲石田寺の記念碑と歳三の墓(引き墓で
そこに埋葬されたわけではない)
▼万願寺駅から高幡不動駅に向う、多摩都市線モノレール下の道を歩く
▲土手の側に「藤の花」 浅川が流れる▲新井橋を渡っての遠望
歳三の菩提寺 高幡不動尊(たかはたふどうそん)
京王線、高幡不動駅からほど近くにある高幡不動尊は、千葉県の
成田不動、神奈川県の大山不動と並んで「関東の三大不動」と称される
有名な寺である。(正式名・高幡山明王院金剛寺)
▲右上 仁王門 ▲右上 奥殿 左下 不動堂
▲色鮮やかに美しい五重塔 ▲不動明王像
▲土方歳三の(凛々しく堂々とした)銅像 ▲殉節両雄之碑
ここは土方歳三にまつわるものが数多く残っている。
近藤・土方両名の事蹟を記した顕彰碑。「殉節両雄之碑」と刻まれた碑は
高さ二・五メートル、幅二メートルの自然石で作られており
近藤・土方両名の誕生から浪士隊としての出発。新撰組の結成、
池田屋事件、その後続く天王山の戦いや大政奉還、鳥羽伏見の戦いから
近藤勇の処刑、土方の五稜郭での戦いから戦死に至るまでの全てが
漢文で記されている。この碑は両名だけの事蹟だけでなく「新撰組」の
碑でもある。一八七六年(明治九年)から近藤・土方の親族と
天然理心流の後援者が中心となって建立が進められ、一八八八年
(明治二十一年)にやっと完成したもので、碑の文字は
旧会津藩主の松平容保が書いている。
その横に立つ土方のブロンズ像は一九九五年(平成七年)に建立された。
高さ二・四メートル、台座からの高さ四・三メートルになる。
髪を頂きに束ね、鉄入りの鉢巻を締め、家紋「右三巳」の入った胴着と
羽織をまとって凛々しく堂々とした姿で立っている。
位牌は高幡不動尊内の大日堂に安置されている。
▲門前にある有名な「高幡まんじゅう」▲参道には、いろんな露店が並ぶ
▲門前通りにある
「新撰組慰霊顕彰句碑」 ▲土産(まんじゅう・飴・ファイル等)
帰り際、高幡不動の門前に名物「高幡まんじゅう」を土産に買う
「歳三まんじゅう」は新撰組隊士中島登が描いた戦友絵姿を参考に
して作った人形焼・・・こしあんを所望し帰宅する。
記念と思い「歳三資料館」で買った「誠の文字」が入った飴と
「歳三まんじゅう」は帰宅後、娘の孫にまんじゅう「パクパク」
飴を「カリカリ」食べられてしまった・・・
※下記の文献等を参考にさせていただきました。
土方歳三資料館・東京・江戸散歩おすすめ25コース(PHP文庫)