◆市ヶ谷橋(いちがやはし)
市ヶ谷門にかかる見附橋でもある。
門は寛永十三年(1636年)森長継の担当で建造され市ヶ谷の出口であった
ので門の名となり橋の名ともなった市ヶ谷の名は市ヶ谷孫四郎の領地で
あったとも四谷第一の谷、又は市が立ったので市買だとも言われている。
四谷、牛込の濠は同じ高さなので濠の幅を広くして敵に備えたといいます。
このあたりは昔は桜が多く門は「桜門」と言われていました。
現在も橋をはさんで咲く土手の桜は有名で門は明治4年(1871年)
撤去されました。現在の橋は昭和2年に架設されたものです。
(千代田区教育委員会)
▲市ヶ谷駅周辺の地図 ▲市ヶ谷見附の交差点
▲JR市ヶ谷駅前交差点(この辺が市ヶ谷御門) ▲市ヶ谷橋
▲左は江戸時代の市ヶ谷御門 ▲見附側から市ヶ谷橋を眺める
▲市ヶ谷橋から飯田橋方面を眺める
▲江戸時代の地図 ▲市ヶ谷橋周辺のジオラマ
▲見附側から市ヶ谷橋を眺める 尾張上屋敷を眺める▲(現在は防衛省)
◆市谷亀岡八幡宮(いちがや かめがおか はちまんぐう)
歌川広重(初代)
左側奥は尾張上屋敷
▲ビルの谷間に八幡宮の石段が見える ▲勾配がきつい石段を上った遠望
三代将軍、徳川家光や桂昌院などの信仰を得て神社が再考され
江戸時代には市谷八幡宮と称され境内には茶屋や芝居小屋なども並び
華やかなものとして知られ大いに賑わったと言う・・・
左隣の茶の木稲荷への石段は女坂と言って・・ここにも茶屋が軒を
競っていましたが、その中に江戸の侠客、幡隋院長兵衛がみそめた
茶屋女がいたといわれています。
参拝に感謝し社殿に一礼をして再度、市ヶ谷橋に戻り、
今度は市ヶ谷橋を渡りJR側市ヶ谷駅に向かいました。
▲JR市ヶ谷駅交差点交番横にある ▲上り側から下りを見た「帯坂」
「市ヶ谷御門橋台の石垣石」(いちがやごもんきょうだいのいしがきいし)
◆帯坂(おびさか)
御門橋台の石垣石、真向かいの
銀行ビルとビルの谷間に帯坂が見える
この地はかって、旗本屋敷が並んでいた。
「番町皿屋敷」はここに居を構えた
青山家の怪談噺である。
旗本、青山播磨の家には秘蔵とされる
10枚の南京皿があった。
▲帯坂を上って右端に帯坂の標識が見える
腰元のお菊を快く思わない青山の妻は
、お菊がその皿の一枚を盗んだと責める。
自分の無実を証明する手立てのないお菊は、井戸端で首を吊った。
以来、毎晩のようにお菊の亡霊があらわれては「一つ、二つ・・」と
皿を数え、九まではたどり着くものの「一〇」が言えずにわっと泣き出す・・
ある日のこと、一人の武士が「亡霊を成仏させてやろう・・・」と
深夜、井戸近くに隠れた。すると、いつものように「一つ、二つ・・」と
始まったが、「・・・九つ」までお菊が言ったあと、武士はすかさず「一〇」と
叫んだ。その後、亡霊
は消えうせたと言う・・・。
千代田区の九段南四丁目と五丁目の境界線は日本棋院を右手に
見ながら登っていく坂です。ここはお菊が髪を振り乱し、
帯を引きずりながら逃げた・・・と言う伝説から「帯坂」の名がついた。
また外堀普請後に江戸城市ヶ谷門へ抜ける道として作られたので一名
「切通し坂」とも呼ばれる。
僅か歩けば二分くらい・・の坂道・・・
お菊の悲哀に思いを馳せながら歩く
・・・
市谷亀岡八幡宮は昨年9月上旬撮影、市ヶ谷橋以下は今年4月上旬に
撮影し編集しております。
※ 下記の文献等を参考にさせていただきました。
市谷亀岡八幡宮HP・東京江戸散歩おすすめ25コース(PHP文庫)