7月上旬のある日晴れくもり

数年前、家族で京都旅行の折、三条京阪に皇居望拝(過って土下座・・と通称される)高山彦九郎の座像があった。(知っていますかはてなマーク、名前も、座像もはてなマーク

・・・当時は、他の歴史名所箇所を廻っていたのであし

詳しく知ることなく過ごしてきたが、・・ひょんなことから彦九郎が拙者の住んでいる場所から遠くなく近くに「記念館」があること知り、見に出かけた。走る人



東武伊勢崎線大田駅下車、タクシー車で10分(5km)

「太田市立 高山彦九郎記念館」

受付の窓口に昔はてなマーク若いお姉さんがいて、「以前は無料だったが今は100円取るようになった・・・」と言われ、入館した。


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★明治維新を導いた原動力「高山彦九郎」の波乱の生涯★



高山彦九郎(たかやまひこくろう)は延享(えんきょう)4年(1743年)5月8日、上野国新田郡細谷村(太田市細谷町)の豪農、高山彦八正教(まさのり)の次男として生まれ。当時の細谷村は1人の大名と5人の旗本による分割統治が行なわれ、高山家は旗本筒井家知行書(ちぎょうしょ)の名主を勤めていた。



彦九郎は13歳の頃「太平記」本を読み、後醍醐天皇の南朝が王制を打ち立てる事が出来なかったことに強く憤り、18歳になると置手紙を残し京に上り学者を志す。江戸では儒学者・蘭学者など多くの学者と幅の広い交友を深め、彦九郎は自ら「儒正」(じゅせい)と名乗り国学を重視し多くの和歌音譜を残しています。



彦九郎と交流をもった人々は多岐に及び、公家、大名・諸藩士・儒学者・国学者・神官・画家・歌人、などの知識人のほか、その土地の町人・商人・工人・農民などあらゆる階層にわたっている。「高山彦九郎」日記メモには5000人を越える人々の交流の様子が克明に記載されています。



彦九郎は5回京都に上っていますが、滞在は短くて1ヶ月、長い時は2~3年にもなっています。京では篆刻家(てんこくか)高芙蓉(こうふよう)、豪商白木屋大村彦太郎、公家の岩倉具選(とものぶ)宅等に奇寓(きぐう)しながら、公家・藩士・学者・文化人などと大学学校建設、尊号問題などをめぐり交流しています。

彦九郎は27歳から47歳まで自刃するまで、厖大(ぼうだい)な日記メモを残しています。日記に記された旅先は、蝦夷地(北海道)・四国・を除けば全国に及んでいます。彦九郎の旅は情報のネットワーククラッカーを作り出したことに大きな意義があり、知識人と名も無い民衆との情報の伝達・媒体者として、叫び知識情報を全国に拡散・普及させる役割を果たしました。



何らかの使命ヒミツを帯びて入国した薩摩(鹿児島市)で大きな成果が得られなかった彦九郎は九州各地を転々としますが、寛政5年(1793年)6月27日、筑後国久留米(福岡県久留米市)の森 嘉膳(もりかぜん)宅で自刃しますドクロ。九州での彦九郎の旅とその死は謎はてなマークに満ちています。



彦九郎の自刃の後、長州藩の吉田松陰は水戸で彦九郎の存在を知り耳、強い影響を受けました。彦九郎の旅の足跡あしと行動は長州藩の高杉晋作・久坂玄瑞、土佐藩の中岡慎太郎、薩摩藩の西郷隆盛ら幕末に至る勤皇の志士達に強い影響を与え、NEW明治維新を導く原動力になりました。



参観者は拙者一人で、静まり返った記念館内を(半刻)1時間、「彦九郎の世界」ゆっくり見させていただいた目。・・知識力・行動力・・ネツトワーク・媒体者・等々うーん・すごいね~の一言に尽きます。かおアップビックリマーク



●下記の文献等参考にさせていただきました。

「太田市立高山彦九郎記念館」