新撰組では、慶応元年五月頃の編成で、撃剣、柔術、文学、砲術、馬術、槍術の各分野で秀でた者を師範に務めさせて、外部から師範を招くのではなく、隊士が相互に得意分野を学び会う制度がもうけられていました。

このうち撃剣とは、従来の木刀で形稽古のみを行う剣術ではなく、現代の剣道の元になったと言われている防具を着用し、実戦を想定して打ち合う剣術をさします。
この撃剣は戦闘の基本として特に力を入れられていました。

もし、仮に新撰組隊内で一個人として最も強かった者の名前を挙げるとするならば、必然的にこの撃剣師範を務めた者の中からという事になるわけなのですが、いったいどのような人物がいたのでしょうか?

まず、『壬生浪士始末記』による記載順によると撃剣師範として任命された者の名前は、沖田総司、池田小三郎、永倉新八、田中寅三、新井忠雄、吉村貫一郎、斎藤一の以上七名。
しかし、同時期に諸士調役兼監察に任命された服部武雄も一説によれば撃剣師範を兼ねていたと言われています。
以上の事から『壬生浪士始末記』の七名プラス服部武雄を含めた合計八名を撃剣師範としてご紹介します。

また追って詳しくご説明したいと思いますが、一般的に三強と呼ばれている沖田、永倉、斎藤と肩を並べていた、それ以外の隊士も、剣術を人に教える得手不得手はあったかも知れませんが、自他共に認める隊内選りすぐりの剣士であったとみても間違いないと思われます。

次回の記事では、諸士調役兼監察も務めた服部武雄から記述していきたいと思います。