慶応三年十一月十五日、この日は坂本龍馬満三十二歳の誕生日でしたーーーー。

記録によると、午後三時頃、近くの酒屋「大和屋」に宿泊している福岡孝弟を訪ねるが不在だった為、午後五時頃に再び訪問しています。
しかし福岡は午後五時も、やはり不在であったために龍馬は「近江屋」へと戻ります。

午後五時から六時にかけて、中岡慎太郎が龍馬を訪ねて「近江屋」へやってくる。
中岡の用事は、前年九月に三条大橋で幕府の制札を除去しようとして新選組に襲われて重傷を負い、壬生屯所に収容されていた土佐の脱藩浪士宮川助五郎が放免されて出てくるにあたっての引き取りの相談でした。

当時、脱藩は最も重い罪の一つでしたので、脱藩した宮川助五郎を土佐藩が引き取るはずもなく、龍馬か中岡を頼ってくる可能性が高かったからです。

龍馬と中岡が雑談したまま、午後七時になった頃、河原町四条上ル東側にある書店「菊屋」の小僧峰吉が訪ねてきました。
峰吉は藤吉同様、龍馬と中岡を大変尊敬していたそうで、峰吉は龍馬暗殺の襲撃から生き残り、この時の光景を後生に証言し残しています。

中岡は、午後三時頃に陸援隊詰所を出て、近江屋へくる前に脱藩後下宿していた「菊屋」に寄り、峰吉に「薩摩藩御用達の店『薩摩屋』に手紙を届け、その返事を『近江屋』に持ってこい」と命じています。
峰吉はその中岡への伝言を持って「近江屋」へやってきたのでした。

しばらくすると、土佐藩横目付の岡本健三郎が訪ねてきて雑談に加わりました。
さらに、文人志士であり、志士たちに多額な金銭援助をし、在京の志士から慈父の如く敬慕されていた板倉槐堂が来訪し、自筆の掛軸を龍馬に贈呈し、板倉のみ帰ります。
この掛軸は、龍馬が暗殺された際の血痕が付着し、現在重要文化財として京と国立博物館で保管されている「梅椿図」の掛軸です。

其の二へ続く……。