慶応三年十月十四日頃から近江屋へ入った坂本龍馬は、慶応三年十一月十四日からは離れの土蔵から母屋の二階へと移りました。

刺客に襲われた際の状況を考えるならば、母屋の二階よりも離れの土蔵にいた方が万全の状態であったし、離れの土蔵にいたならば、ひょっとしたら龍馬は暗殺を免れていたかも知れません。

しかし何故、暗殺される慶応三年十一月十五日の前日に母屋の二階へと移動してしまったのか?

一つの理由は、離れの土蔵から便所に行くのが大変不便であり、生活がしづらかったということ。
もう一つは、連日、薩長同盟や大政奉還、寺田屋襲撃など、度重なる出来事での疲労が一気に出てしまったのか、坂本龍馬は風邪を引いており、高熱を出していたといいます。

離れの土蔵では、体が冷えるばかりでなく、井口家の者が世話をしやすいために母屋の二階へ龍馬を移したそうです。

風邪を引いた龍馬は、真綿の着物に、舶来絹の綿入れ、黒羽二重の羽織まで着込んで、背中を丸めて火鉢にあたっていました。
それは、命を落とすことになる十一月十五日も同じで、いかなる剣豪であれど、高熱が出ている状態であれば迅速な対応が出来ませんし、襲撃に会えば間違いなく討ち取られてしまう危険な状況でした。