安政元年六月二十三日、龍馬は江戸での剣術修行を終えて土佐藩(高知県)に戻ります。
閏七月、日根野道場から「小栗流和兵法十二箇条」と「同一五箇条」をそれぞれ伝授されます。
さらに安政三年八月二十日、龍馬は一ヶ月の国暇をふただび得て、再度江戸へと剣術修行に旅立ちます。
途中、一ヶ月の国暇の延長を申し出て、安政五年九月六日、土佐へと帰国します。

龍馬は二度目の剣術修行において、安政五年一月に千葉道場から「北辰一刀流長刀兵法目録」と「北辰一刀流免許皆伝」を授かったと口伝されています。
しかし、実態は長刀の初伝程度の長刀目録しか見つかっておらず、本当に坂本龍馬が北辰一刀流免許皆伝を有していたかは不明となっています。

では、龍馬の剣の腕はたいしたことは無かったのか?
そもそも、「免許皆伝」というものは強さだけを示すものでは無かったそうです。
免許皆伝とは、その流派の道場主が与えた者に自分の道場をつくる許しを出す免許であり、龍馬の修行した期間で取得するのは難しかったのでは無いかと言われています。
しかし、塾頭をつとめた程の龍馬が長刀の目録しか見つかっていないというのには、いささか疑問が残ります。
千葉定吉は龍馬に娘の千葉さな子と一緒になり、千葉道場を支えてほしいという思いがあったそうで、免許皆伝を受け取ってしまっては志士としての活動が出来ない為、龍馬が断った可能性もあり、単に日本中駆け回る龍馬が免許を紛失したという可能性も十分に考えられます。
いずれにしても、龍馬の北辰一刀流免許皆伝は口伝でのみ伝えられており、記録としては未だ見つかってはいません。

また安政四年、江戸の土佐藩邸で、江戸三大道場の門下生による御前試合が行われます。
玄武館からは千葉栄次郎。
士学館からは桃井左右八郎。
練兵館からは斎藤弥九郎。
以上三名が審判を務め、天下の剣豪を集めた大試合が開催されました。
これは現在では全日本大会と言っても過言ではないほどの立ち合いです。

龍馬は千葉道場桶町代表として、練兵館の島田駒之助と試合ます。
島田駒之助は「今武蔵」の異名をとる二刀の剣士で、その腕は相当なものでした。
しかし、龍馬はその島田をあっさりと打ち勝ったと伝わっています。

翌安政五年、桃井道場にて千葉家を招いて試合が行われた際も、龍馬は長州藩の桂小五郎、のちの木戸孝允と立ち合います。
この桂小五郎は、明治維新の政治家として有名ですが、おそらく剣の腕は、この時代の名声から憶測すると坂本龍馬と立ち合うまでは天下一であったとされます。
神道無念流免許皆伝で、剣術と柔術の達人であり、桂の剣声は江戸中に知れ渡っていました。
長州藩、毛利敬親は大いに自慢し、他藩の藩主までもが桂の剣技を一目見たさに自藩の江戸屋敷に招待し、その太刀さばきに感嘆したとされています。
龍馬はこの桂小五郎との立ち合いにも勝利し、龍馬と親友の武市半平太は感激のあまり、故郷の小南五郎右衛門へ手紙で「この試合、龍馬がみごと勝利した」と書き記しています。

ところが、この御前試合での一件は、やはり口伝で伝わったものであり、土佐藩の公式な記録には記されていないことから、創作ではないかという説もあり、桂小五郎との立ち合いを記した半平太の手紙も偽物では無いかと考えられています。
以上の事から、龍馬の剣士としての記録はほとんど残っていないのが事実です。
しかし、土佐藩では下級の身分である龍馬の活躍を、土佐藩主山内豊信が良く思うはずもなく、それ故に記録に残さ無かった可能性も全く無いとは言い切れないと私は考えます。