『池田小三郎』
天保十三年慶応四月三月六日、江戸で生まれ育ったと言われます。

元治元年十月、江戸における隊士募集において入隊しました。
新撰組内では、伍長、撃剣師範を務め、伍長とは副長助勤の下に位置し、各小隊二名ずつ配置されている中間職です。
剣術流派は一刀流。

「新撰組往事実戦譚書」によると「剣術ニ達シ教授心得。文事ナシ」と記されています。
池田はこの文章によれば、「剣術ニ達シ」と書かれているので隊内指折りの実力者とみて間違いないと思われます。
ただし、「剣術教授心得」とは撃剣師範ではなく師範の補佐役を意味する言葉であるそうなので、撃剣師範を務めたはずの池田が補佐役と書かれたのは勘違いをして記されたのか、はたまた実際は師範ほどの実力者では無かったのかは確かではありません。
また「文事ナシ」とは学問がないという意味であり、池田が学問ではなく剣術一筋の男であったという意味です。

惜しまれるのは、池田の実力を示す記録があまり残されていない点です。
唯一残されている記録は、新撰組が江戸に撤退後、甲州勝沼の戦いの時に新政府軍土佐藩士・谷干城による、自軍の小笠原健吉と今村和助が新撰組の強者と戦って首を取ったという記録だそうです。

「接戦は珍しきことゆえ、首をあげ勝沼の本営に帰る。(中略)名は池田七三郎と云へり。健吉かむりし陣笠へ二た刀切り付けられたれども、幸にして怪我なし。和助は手の甲を少々切られたれども薄手なり。稀なる勇者と見ゆ。さだめて新撰組中の巨擘ならん」

池田七三郎と記されているのは谷干城が、小三郎を七三郎と間違えた為だそうです。
池田は惜しくも小笠原と今村を倒す事は叶いませんでしたが、稀なる勇者と評されるほどの戦いぶりであったようです。
享年27。
慶応三年三月二十日、伊東甲子太郎は新撰組を脱退し御陵衛士と称して倒幕運動を行うようになります。
その際、服部武雄も伊東と共に脱退、御陵衛士の一員となります。

しかし、近藤勇、土方歳三は対立する伊東を裏切り暗殺することを考えます。
この事件は、新撰組在隊中に剣を実戦で振るった記録の無い、服部武雄が唯一その剛剣を披露し皮肉にも最期の日となってしまった油小路事件です。

同年十一月十八日、衛士頭の伊東が新撰組の招きに応じて近藤勇の妾宅に出向き、酒を飲まされ帰り道で暗殺されてしまいます。
伊東の遺体は残りの衛士を誘い出す為に、七条油小路まで運ばれ放置される事となりました。

伊東が襲われた知らせを屯所の月真院で聞いた服部ら衛士達は、伊東の遺体を引き取るために現場の七条油小路に向かいました。
この時、服部は一同に向かって「敵は必定新撰組に極ったり。甲冑の用意然るべし」と主張したそうです。
誰よりも剣の腕の立つ服部だからこそ、新撰組の沖田達の強さを理解したうえで、甲冑を着こんで戦うべきだと説いたのだと思います。

しかし篠原泰之進は、もし甲冑を着て路上に屍をさらしたら笑い者になると主張し、皆がその意見に賛同し平服で行く事になります。
もしこの時、衛士達が甲冑を着こんでいたら勝敗は真逆になっていたかも知れません。

仕方なく服部のみは、鎖帷子を縫い込んだ衣服を着て武装したそうです。
服部ら7人の衛士が七条油小路に着くと、服部の予想通り35人ほどの新撰組隊士が現れ、衛士を取り囲みました。
篠原、三木三郎、加納、富山は早々に逃げ去ったため、現場に残ったのは、服部、藤堂、毛内の3人のみになったといいます。
35対3という絶体絶命の絶望的な中、まず毛内が討たれ、次いで藤堂も討ち果たされ、ついには服部一人になってしまいます。
服部は腰に提灯を差し、右手に三尺五寸の大刀、左手に脇差を持った二刀流に構え、迎え撃ちました。

『史談会速記録』には、こう記述してあります。
「服部氏の剣術には、新撰組が5人や10人でむこうてもこれに敵せぬことは近藤もよくこれを知っている。服部の剣術は非常に練達して強い。近藤部下の中にては、飛道具でやろうか、という説もあったが、それでは近藤自身ならびに新撰組の名誉が落つるゆえに、やはり剣でやらねばならぬ」

新撰組は二刀を振り回す鬼神のごとき服部武雄、ただ一人に多数の負傷者を出させたが、最後は原田左之助の槍に胴をつらぬかれて絶命します。
享年三十六。
翌朝まで現場に放置された服部の遺体には、20箇所もの刀傷があり、両手には刀を握りしめたままの壮絶な姿だったそうです。

新撰組の話を語る中で、視点を新撰組とした場合、この服部武雄は新撰組の敵であり、伊東と親交が深かった為、どうしても表舞台には出しにくい立ち位置であったのかも知れません。
新撰組としても、かつての同士を斬らなくてはならない油小路事件は語りたくない思い出であったでしょうし、それが服部武雄が新撰組の剣豪としての知名度が低い理由なのではないでしょうか?
『服部武雄』
新撰組緒士調役兼監察、撃剣師範を務め、新撰組で唯一二刀流を使った記述のある剣士です。

新撰組の撃剣師範をご紹介する上で、まず初めにこの服部武雄のお話をしたいと思います。

服部は1832年、播磨赤穂藩の服部覚平として生まれます。
『殉難録稿』によると、藩の老臣が政治を私物化するのを憤ってこれを殺害し、出奔して江戸に潜伏したと記されています。
そして江戸にて後の新撰組同士となる篠原、加納、佐野と出会ったと思われます。
服部武雄は篠原らとともに神奈川奉行所配下の外国人居留地警備につきます。
この件に服部が加わっていたかは定かではありませんが、同年十月篠原らは奉行所に乱入した英国人を組み伏せ、縄で縛る活躍をしてみせたと伝わります。

服部は伊東道場に出入りしていた加納の紹介で、服部の人生を大きく変えた伊東甲子太郎や鈴木と出会い親交を深めました。
この伊東とは、まるで兄弟のようであったそうです。
そして、伊東が藤堂の勧誘を受けて上洛を決めたとき、服部も同行することとなり、新撰組に入隊することになりました。

元治元年十月頃、入隊後間もない服部は新選組の新編成で諸士調役兼観察に抜擢されました。
その際に兼ねて撃剣師範も務めたという説と、撃剣師範は務めていないという両方の説があるそうです。

「服部三郎兵衛は剛力の大兵にて、頗る撃剣の達者なり」(壬生浪士始末記)
「服部は全体大兵でございましてーーー」(阿部十郎談)

服部武雄は、流派は不明でありましたが以上の様な評価を身内から受けており、とても体格の良い大柄な人物であった事が伺えます。
剣は体格が全てではありませんが、身長体重が上なら上なほど有利であったことは間違いありません。
服部は新撰組隊内でも、随一の巨漢で剛剣の使い手であったそうです。

また、桑名藩士の小山正武は、「新撰組多しといえども、剣術においては服部三郎兵衛氏によく敵するほどのものない」と評されており、新撰組隊士結城無二三の孫である結城禮一郎の証言によると「当時京都へ来ていた者のうちで剣術といえば見廻組の今井か新撰組の服部かと言われた位のものでーーー」と伝わります。
小山正武と結城禮一郎の評価では新撰組で最も強いのは服部武雄だと言うことだと思います。

ところが服部武雄の知名度は、沖田や斎藤、永倉らと比べると今一つ見劣りするのも事実であり、当時これほどまでに剣名を轟かせていた男が何故このような結果になったのか?

それは服部武雄が新撰組の主流派である天然理心流では無かっただけでなく、新撰組入隊後の活動が大きく影響していたと言います。

次号へ続くーーー。