Netflixに流れてきた『こちらあみ子』、
『広島に暮らす、小学5年生のあみこ。家族に見守られながら元気いっぱいに過ごしていたが、少し風変わりな彼女のあまりに純粋な行動は、家族や同級生など周囲の人たちを否応なく変えていく』
ほのぼのした家族ドラマ、心温まるストーリーかと思ったら、
ここからはネタバレかもしれません。
映画の中に「発達障がい」という言葉が登場しないから、
言えないけど、主人公は何らかの発達障がいなんだろうなと思うけど、
やるせない・・・苦しい映画、
問いを探して、こちらのnoteにたどり着きました。
「発達障害」としてレッテルをはって、異なる者として区別することは、あまり良いことだとは思わない。ましてや勝手な偏見をもつべきではない。理念的には共感する。しかし、教育現場から考えてみる。厄介なのは、そのような高邁な理念がしばしば、悪く作用してしまうことだ。
その見事な作品性は、どこまでも定型発達者に向けられている。「変な子」であるあみ子に指をさし、配慮し、理解し、寄り添おうとする作品の構造がすでに、定型発達側の発想なのだ。そのような読書コミュニケーションにおいては、まさにあみ子のような存在こそが排除されてしまうのだ。
あみ子はあみ子を読めるのか問題