クルーザーの中で・・・共通善に貢献している ということに対する リスペクトがある状況 | インターナショナルスクール式・グローバルに活躍するチカラ/楽しい子育て・グローバル教育!

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息子のインターナショナルスクールでの学び、自身の仕事を通して感じた教育問題、楽しくグローバルに活躍するための子どもを育てる、インターキッズを主催しております。

 

船買ったから〜音譜

 

友人に誘われて、

クルージング

の予定が、

風が強すぎて

次回へ延期になったのですが、

 

 

いやいやいや、

すごい世界びっくりあせる

 

 

 

驚きまくってたら、

 

来年、これ届くから〜いいよ〜音譜

 

待っててね〜音譜

 

 

 

 

 

 

さて、さて、そのクルーザーの中で話していたのは・・・

 

 

昨日のサンデル教授のこちら

 

 

 

 

 

能力主義を強調しすぎることの怖さ、

 

自分も影響を受ける対象になる、

 

 

 

グローバル化やデジタル化に

 

乗り遅れてふるい落とされないために、

 

つねに労働市場の需要に合わせて

 

自分をアップデートしたり、

 

スキルアップをしなければならず、

 

これはしんどいです。

 

 

 

能力主義の問題、

 

社会の中に

 

「勝者」と「敗者」を作ってしまう

 

 

 

勝者と敗者に分かれた世界では

 

競争が激化し、

 

成功することへの

 

圧力は非常に大きいものとなる。

 

 

 

能力主義ではなく、

 

労働の尊厳に重きを置くメッセージや政策にシフトする

 

 

民主主義における条件の平等とは、

 

すべての人が同じ収入を得るということではなく、

 

誰もが尊厳を保ち、尊重されるということ。

 

 

 

自分の家族、コニュニティ、

 

共通善に貢献している

 

ということに対する

 

リスペクトがある状況。

 

 

目指すべきは、

 

それぞれの教育水準や収入にかかわらず、

 

誰もが互いに尊敬できる社会。

 

 

収入ではなく、

 

家族を養うことや、

 

社会、コミュニティに貢献していることなどで

 

測られるのが望ましい状態。

 

 

社会や共通善に対する貢献度は、

 

収入の高さに反映されると誤解されがちですが、

 

目指したいのは、

 

共通善への貢献度がお金で測られるのではなく、

 

生活のために真面目に働き、

 

社会の発展に貢献できることが尊重される社会です。

 

 

 

社会への貢献度、

 

あるいは自分の能力やスキルが

 

「お金」という尺度で

 

図られないとしたら、

 

その貢献度は何で

 

測られるようになるのでしょうか。

 

 

 

現代の社会では、

 

何がいい生活や社会なのか

 

ということについて、

 

それぞれがまったく違う意見や

 

見解を持っているのですが、

 

政治家は人々の間に

 

価値観の相違があることを好まないので

 

対話の機会を持とうとしない。

 

 

 

特にモラルや

 

精神的な価値観における違いを

 

埋めるのは容易ではないですから。

 

こうした問いと向き合わないため、

 

モラルや価値観の

 

相違に対する判断を下すことを

 

避けるために、

 

収入やGDPという指標を

 

社会や共通善への貢献の物差しにして

 

ごまかしているのです。

 

 

 

しかし、今回の本でも述べている通り、

 

私たちが生きていくうえで

 

いい生活とは何か、

 

いい社会とは何と

 

いう問いは避けて通れません。

 

 

 

私たちが考える

 

いい社会を実現するためには、

 

共通善に対する貢献を

 

何で評価するべきか

 

という議論をしなければならない。

 

 

 

どんな価値観や美徳を

 

大切にする社会を作っていくか

 

という議論をするうえで、

 

倫理的価値観の話は避けられません。

 

 

 

正義とは何か。

 

共通善を目指す意味は何か。

 

私たち市民はお互いにどんな責任を負っているのか。

 

 

 

社会への貢献は何で評価できるのか。

 

それぞれが尊厳を維持し、

 

互いを尊重するにはどうしたらいいか――。

 

 

簡単に答えられるものではありませんが、

 

公における議論の中心テーマはこうしたものであるべきです。