「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。」

 

   マルコによる福音書 8章36節

 

 

人間という生き物は底なし沼だと思うのは僕だけだろうか。

その願望欲には限度というものがない。

念願のものを例え手に入れても、直ぐにまた次のものが欲しくなる。

 

僕が刑務所から出て来るとき、大した欲らしい欲は無かった。

ただひとつ言えたのは、教会でそれまで支援して下さった方々と共に礼拝に授かりたかっただけ。

でもそれが叶うとなると、次の願いが溢れ出て、次から次へとキリがなくなった。

まるで鬼畜の沙汰をみせる。

悪いと思っていても、その欲は途切れることはない。

 

確かにこの欲望は人間を進歩させるものも有ることは確かだろう。

欲望ゆえに、技術は進化し文明は発達して来た。

 

所が、私には(人間には)どうしても直面せざるを得ない問題がある。

即ち、自分の命であり、その「いのち」は冒頭に掲げた聖句に示す通り、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ってしまえば何の意味もないことは知らざれる真実なのだ。

 

自分の力では、死から逃れられないのは、「いのちは神の所有」であり、「いのちは神からの賜物だから」で、この事実を教えるために死というものがあるものだと解釈する。

それは、朽ちることのない永遠の生命を求めるようになるために神さまが教えて下さっているものだと思い止まないのである。

 

「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」 ローマ信徒への手紙 6章23節

 

この世のいのちを自分の所有物のように固執し続ければ、結局そのいのちを失い、自分のいのちを本来の所有者である神に捧げ、キリストを信じる者は永遠のいのちを授かる。

 

この身体は、時と共に滅び去る。

しかし、キリストにあって賜る永遠のいのちには、決して朽ちることのない、それに相応しい霊的な体を与えられる。

それが復活を意味するものだと思うのであるが、どうだろうか。

死者が復活する。

それは私たち人間の想像を絶する、神の創造の業だ。

 

決して欲望に囚われず、神の御心が何処にあるのか祈りのなかで模索しつつ、この時を活きて行きたいものだ。

 

今朝の祈りのなかに覚えた、小さいが大きな聖句である。


前科者から、キリスト者へ・・・




 

キリストがわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。

   コリント人への第二の手紙 12章9節

 

人は誰しも自分の強さを誇りにして生きていると思いませんか?





かつての私も、それを誇りにして生きて来ました。




資力があり、体力もあり、絶対的発言権をも有す自分に誇りを持っていたのです。




しかし、この誇りは恐れと言う言葉を併せ持つ偽りの誇りだったと思います。




恐れと言うのは、その誇りを傷つけられては怒り、更に大きな力を持つ他者を妬むと言うもので、偽りの誇りに間違い有りません。

 

このような誇りは必ず、失う時が参ります。




過去の私のように、自分の力を誇りにしている人は、このような力を失った弱さに直面すると悲嘆に暮れて絶望します。




そのような弱さに陥らないように、人はあらゆる努力をしますが、いつかは何らかの形で弱さに直面するものです。




歳を老い体力が無くなる。



定年を迎え、地位や名誉もなくなる。



病気になり、絶望の淵に立たされる。


 

しかし、自分の弱さを誇るとすればどうでしょう。




その人の人生には、もう恐れるという事は無いのではありませんか。




弱さを誇るというのは、弱さの極致です。

 

私は昨年、脳梗塞で倒れました。




自分の体力を誇り、これが神さまの御心だと、過激なボランティア活動に徹していたのですが、手足も動かない病院のベッドの上において、嘆き悲しんだものです。




しかし、自分の価値観・力を投げ捨てて、キリストの慈愛と力に身を委ねた時に、自分の力ではなくキリストの力により生かされているという真実を知りました。

 

そして、キリストを信じる者とは、キリストに結ばれてキリストの力によって生きて行くのだと言う確信を得たのです。

 

自分の弱さを誇ること。

私には、絶大な力です。

大いに自分の弱さを誇ります。



前科者から、キリスト者へ・・・




 

主が僕の心の扉を叩いて下さる

何処に居ようと どんな時でも 主なる神さまの御心を悟る事が出来るように心の扉を開けて行こう・・・

さぁ・・・ 歓喜の声を上げて 

主のご訪問を喜び祝おう 感謝しよう

獄に繋がれたからこそ  主を知ったことを

獄に繋がれたからこそ (母*1) に出会えたことを

賛美して祝おう この日 この時を・・・

離れまい 

キリスト者として 主に寄り縋り

離れまい 

マリア寿子の子供として 主に寄り縋ろう

苦しくとも 辛くとも オネシモ(*2) として

生き抜き 自分の生を 主の証し人として

立ち上がろう

ありがとう・・・母ちゃん 本当に有難う

必ず会える日を夢見て 行って来ます

2002年6月3日 刑の執行日に・・

(*1) 母ちゃん 
赤の他人の僕を、本当の子供として受け入れて下さり、本当の愛と、自分の存在価値に目を開かせて下った方。 
今も尚、変わらない愛で関わって下さる方

(*2) オネシモ
新約聖書(フィレモンの手紙)に登場する元・奴隷
エフェソの獄中でパウロと出会い、回心の道へ進む
因みに、僕の教名・洗礼名がオネシモである。
  




体調がすぐれず、寝込んでいたこの2週間・・・(風邪+扁桃腺熱)

過去、というか、一番苦しかった刑務所在監時代に書いた文章を読んで過ごした。

そして、一番心に沁みた文章が上記に掲げた雑文である。

当時と現在とは大きく環境も変わり、良きにしろ、悪しきにしろ僕の生き方も変わった。

しかし、変わってはならないものが、

「僕のキリスト者としての原点に立ち返る。」

と言うことでjはないかと痛感するのだ。

自分の十字架をしっかりと背負い、しっかりと祈りのなかで主の愛を受け止めることだ・・・


前科者から、キリスト者へ・・・