ヨットマン
1992年、『トーヨコカップジャパングアムヨットレース92』という大会が行われたのをご存じの方いますか?
写真は佐野三治さん。
この時のレースの参加者です。
ヨットってカッコいいイメージありますが、想像以上に過酷であり、危険が伴う競技なんですね。
当然ヨットに乗る男たちは強靱な精神と体力を持ち合わせているんです。
海の上で、自然相手ですから、対人間の格闘技とはまた違うんです。
オレもまったくヨットはわからないんですが、このレースが出てる雑誌を父から見せてもらい、写真だけでも衝撃を受けました。
雑誌ヨット モーターボートKAZIの当時の記事です。
↓
参加ヨット9艇
佐野さんのヨットは「たか号」
真冬の日本から常夏のグアムへ 1334マイルという日本最長のコースを走るジャパン~グアムヨットレースは、ヨットマンにとって年末年始の恒例行事となっていた。
死者、行方不明者合わせて14人。
12月26日正午に油壺沖をスタート
当日は朝からみぞれまじりの冷たい雨が降っていた。気温4度、北の風8メートル。
グアムを目指すこのレースの一番の難所は八丈島近海。
過去のレースでもリタイアが出るのは必ずと言っていいほどこの海域だ。
この年は27日~30日にかけて年末低気圧と呼ばれる台風並の低気圧が日本列島縦断。
27日から相次いでリタイアが出る。
同日夜、マリンマリン号のナビゲーターが青ヶ島付近で落水。
マリンマリン号はレースをリタイアし、捜索開始。
リタイアした他のヨットも一緒に捜索した。
29日、八丈島沖でマリンマリンが航行不能になる。
30日、マリンマリン転覆。4遺体が収容され、4名が行方不明になった。
その後リタイアしたヨット、フィニッシュしたヨットがもあり、残りは たか号(佐野さんのヨット)
だけとなった。
29日の交信以後連絡が取れなくなっていたが、無線の故障だと思われていた。
もうすぐフィニッシュするだろう‥誰もがそう思っていた。
ところが実際は最後の交信8時間後、聟(むこ)島の北約150キロで転覆していたのだ。
レース本部が救助依頼したのは6日。
10日には捜索を打ち切ったが、1月25日、たか号のクルーの一人である佐野三治さんがライフラフトでの漂流27日目にしてイギリス船籍の貨物船に救助された。
たか号の事故はメインセールを破損、ジブをあげ航行中、12月29日20時頃、小笠原群島、聟島の北80マイル付近で起きた。
艇は大波を受けて転覆。
1時間ほどで復原したが水船状態となった。
1名はすでに死亡。
6名はライフラフトに移乗した。ライフラフトには、8人×3日分の応急食料と水500cc。
海上の状況は北西の風20~25メートル。
乗員がラフトに移乗したためその後たか号は沈没したものと思う。
応急食料はラフト移乗時にかなり流出。
1人分の、しかも2~3日分しか残らなかった。
漂流し始めて11日目の1月9日、2回捜索機を見たが発見されなかった。
翌日10日、寒さ飢えで衰弱した1人が死亡。
11日には3名が次々死亡。そして14日か16日に一番若い1名が死亡した。
一人になった佐野さんは「生きようとゆう生存への意欲が身体中からわいてきた」とゆう。
カモメを捕らえて食べ、スコールで溜まった雨水を飲んだ。
空気が抜けたラフトの中には海水が浸水。
「死に直面して死について考えた」という。
遭難から27日目の1月25日夕方、近くを航行中の貨物船を発見し、懸命きライフジャケットを振り同船に知らせた。
収容されたラフト内には、ジャンパー3着、ライフジャケット5着、時計4個、シャツ6枚、靴下片方3足があった。
ラフト内側にはフェルトペンで「1月9日YSを発見」と書かれていた。
オレが小学生の時にも1度お会いしたことがありましたが、また今回大島で会うことができました。
ヨットマンてカッコいいですね。
もうちょっと早く雑誌を読んでしまっていたらオレも海の上目指していたかもしれませんね(>_<)
写真は佐野三治さん。
この時のレースの参加者です。
ヨットってカッコいいイメージありますが、想像以上に過酷であり、危険が伴う競技なんですね。
当然ヨットに乗る男たちは強靱な精神と体力を持ち合わせているんです。
海の上で、自然相手ですから、対人間の格闘技とはまた違うんです。
オレもまったくヨットはわからないんですが、このレースが出てる雑誌を父から見せてもらい、写真だけでも衝撃を受けました。
雑誌ヨット モーターボートKAZIの当時の記事です。
↓
参加ヨット9艇
佐野さんのヨットは「たか号」
真冬の日本から常夏のグアムへ 1334マイルという日本最長のコースを走るジャパン~グアムヨットレースは、ヨットマンにとって年末年始の恒例行事となっていた。
死者、行方不明者合わせて14人。
12月26日正午に油壺沖をスタート
当日は朝からみぞれまじりの冷たい雨が降っていた。気温4度、北の風8メートル。
グアムを目指すこのレースの一番の難所は八丈島近海。
過去のレースでもリタイアが出るのは必ずと言っていいほどこの海域だ。
この年は27日~30日にかけて年末低気圧と呼ばれる台風並の低気圧が日本列島縦断。
27日から相次いでリタイアが出る。
同日夜、マリンマリン号のナビゲーターが青ヶ島付近で落水。
マリンマリン号はレースをリタイアし、捜索開始。
リタイアした他のヨットも一緒に捜索した。
29日、八丈島沖でマリンマリンが航行不能になる。
30日、マリンマリン転覆。4遺体が収容され、4名が行方不明になった。
その後リタイアしたヨット、フィニッシュしたヨットがもあり、残りは たか号(佐野さんのヨット)
だけとなった。
29日の交信以後連絡が取れなくなっていたが、無線の故障だと思われていた。
もうすぐフィニッシュするだろう‥誰もがそう思っていた。
ところが実際は最後の交信8時間後、聟(むこ)島の北約150キロで転覆していたのだ。
レース本部が救助依頼したのは6日。
10日には捜索を打ち切ったが、1月25日、たか号のクルーの一人である佐野三治さんがライフラフトでの漂流27日目にしてイギリス船籍の貨物船に救助された。
たか号の事故はメインセールを破損、ジブをあげ航行中、12月29日20時頃、小笠原群島、聟島の北80マイル付近で起きた。
艇は大波を受けて転覆。
1時間ほどで復原したが水船状態となった。
1名はすでに死亡。
6名はライフラフトに移乗した。ライフラフトには、8人×3日分の応急食料と水500cc。
海上の状況は北西の風20~25メートル。
乗員がラフトに移乗したためその後たか号は沈没したものと思う。
応急食料はラフト移乗時にかなり流出。
1人分の、しかも2~3日分しか残らなかった。
漂流し始めて11日目の1月9日、2回捜索機を見たが発見されなかった。
翌日10日、寒さ飢えで衰弱した1人が死亡。
11日には3名が次々死亡。そして14日か16日に一番若い1名が死亡した。
一人になった佐野さんは「生きようとゆう生存への意欲が身体中からわいてきた」とゆう。
カモメを捕らえて食べ、スコールで溜まった雨水を飲んだ。
空気が抜けたラフトの中には海水が浸水。
「死に直面して死について考えた」という。
遭難から27日目の1月25日夕方、近くを航行中の貨物船を発見し、懸命きライフジャケットを振り同船に知らせた。
収容されたラフト内には、ジャンパー3着、ライフジャケット5着、時計4個、シャツ6枚、靴下片方3足があった。
ラフト内側にはフェルトペンで「1月9日YSを発見」と書かれていた。
オレが小学生の時にも1度お会いしたことがありましたが、また今回大島で会うことができました。
ヨットマンてカッコいいですね。
もうちょっと早く雑誌を読んでしまっていたらオレも海の上目指していたかもしれませんね(>_<)