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近年、国内で外国人との交流が増えたし、海外に行く機会もますます多くなってきた。その中で相手の文化を理解するために、我々は自身の経験を基に様々な仮説を立てたり検証したりしている。例えば、「ある文化の人は自己出張が強い」(相手の文化についての仮設)や「英語では日本語と違って意見をはっきり言えばよい」(適切な言語行動についての仮設)がある。
また、国境を越えた人の移動が頻繁になっている中では一つの言語しかできないことは不利になり、多くの人は、いかにすれば外国語が上手になるかをよく考えるようになってきた。例えば、ネーティブの教師を雇えば子どもが英語が上手になるのではないかと考える人が少なくない。
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次では私の経験を振り返って、「言語・文化能力」と「スポーツができること」の類似性について様々な仮説を立てて、「言語・文化能力」と「スポーツができること」その比較の便利な点と不便な点について記述してみたい。
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まずは言い訳です。言語学に特に関心のない人は下の一段落をスキップして頂いても無難です。
ここでは言語ができることを文化の中で活躍できる一つの要素として捉えたい。複数の言語ができる子どもをバイリンガルだけではなく、バイカルチュラルに育てることが大切であることが論じられていることがある。言語と文化を切り離すことができるかどうかについての議論が続いている。私は外国語教育・バイリンガル教育を中心に学んできたが、なかなか怠け者なので、ここでは言語や文化能力の多様な定義に触れず、言語習得の課程に関する理論について簡単そしてある程度適当に書く。ここでは「言語・文化能力」という用語を使う。「言語・文化能力」を、「場面に適切な行動(言語行動を含む)を選び、実行できる能力」として定義したい。また、ネイティヴスピーカーという用語の適切さについて議論があるが、便利上ではここでこの用語を使いたい。以上の点は許してください。 (あまりに酷い間違いをしてしまえば、コメントやメッセージを頂けたら嬉しいです。)
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数年間日本に住んでいた中、多くのコミュニケーションの失敗を重ねた。そこで、文化とは何か、言語はネイティブのように使えるようになることは可能なのかについて考えてきた。日本語教育を専門にしている私は日本語がどこまでできているのか、学習者に日本語の特徴をどこまでわかりやすく説明できるかということは専門家としてのプライドに関わり、失敗は悔しかった。また、日常生活の中では失敗が日々あって、フラストレーションも多かった。空気を読む力が弱い私はちょっとだけ本を読んで自身の社会的行動を改善しようとしたりしたが、違いをはっきり説明して頂いた後でひょっとした覚えがある。
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会話分析の授業では、日本語では雑談の中で反対の意見を出せず、「そうですね」や「うん、だよね」を言うようにする必要があると説明された。それを練習してみると、確かに日本人との会話が少しでも長く、少しでも快適に進めるようになった。「寒いね」に対して「君寒がりやだよね」などと突っ込むのではなく、「うん、寒いね」を言った方が良いことが分かった。このような場面では突っ込まない習慣をある程度身に着いたら、母語では突っ込み合う天気の雑談をし、日本語では反対意見を出さないような雑談を楽しめるようになった。(雑談のルールの違いはそれほど明確なわけではないけど)。
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会話のルールは会話分析という研究分野の中で研究されている。また、より抽象的なルールを探る研究もある。例えば、Geert Hofstedeは様々な文化における上下関係の厳しさの程度などを表すためにホフステッド指数をあげている。

http://blog.brainpad.co.jp/entry/2014/11/28/211728
その研究に大切な知見がある一方では、文化の差と個人の違いをどのように区別できるかについてはっきり分からなかった。各文化の特徴を例えば間接的・直接的の極端をつなげる軸のどこかで点ではなく、個人差の幅を表す線で記述したErin Meyer の本を読めば、文化の違いと個人差をどのように位置づけられるか、少しすっきりしてきた。
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しかし、HofstedeやMeyerの考え方や会話分析の研究では、具体的な場面での比較及び抽象的な比較がある一方では、文化を一つの制度として総合的に捉えることがなされていない。
そこで、人間の集団の中で発展してきた様々な言語・文化と、同じ条件で出現した様々なスポーツの種類は独自の制度として総合的に捉え、対比する意味があるのではないかと考え始めた。以下では、「言語・文化の中で生きること」と「スポーツをすること」の類似性がないのかについて考えてみたい。
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1. 各言語・文化は独自のルールがあり、そのルールの抽出が可能である。そして、ルールをうまく使いこなせると、その言語集団の中で生活しやすくなる。例えば、何をどの順番で話すのか、声の大きさはどれぐらいであるべきなのか、何分ぐらい遅刻してもいいかなどのルールがある。スポーツでは同じように、どのような動きをどのタイミングでするかが大体決まっている。
そう考えると、賛成し合って話す日本的な天気についての雑談と突っ込み合って話す天気の雑談の違いが見えてくる。私は日本人に対して賛成すべき場面で突っ込むことは、卓球の試合に来たのに、バドミントンのように卓球ボールを打ってしまったと同じことだと考えてみよう。相手は文化の違いに敏感だとしても多少びっくりするかもしれない。このように、ある文化である場面に合わない行動を取ったことをスポーツの種類に合わない行動を取ったことに例えたら、経験は可視化しやすくなるのではないか。別の例で、日本人の友達が留学していた時に、振る舞いの違いでストレスが溜まった。そのこともスポーツのルールの違いで困ることに例えると便利な気がする。友達は留学先で意見がはっきり言えず、自分が見えない人間だと感じたことがたまにあったらしい。彼女がテニスコートに来て、卓球をやるかのようにボールを弱く打ったことに例えてみたらどうでしょうか。
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2. スポーツにはルールがある一方では、行動のパターンは各場面では瞬間的かつ直感的に選ぶ。言語や文化のルールに基づいた人間の交流はルールがある程度決まっているが、まったく同じようなスポーツの試合がない。参加者と場面によって毎回毎回雰囲気が多少違う。日本では天気についての雑談をするときに相手を批判しないが、親しい友達の間や機嫌の悪い人との間では突っ込みがあり得るのではないか。何をどの場面でするかが決まっている一方で、相手の行動を完璧に予想できるとは限らない。そういう意味では、スポーツの例えは文化のルールの相対性の説明に使えると便利かもしれない。
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3. 文化相対論にあるように、優れた文化や劣った文化が存在していない。スポーツに例えると、バスケのやり方はサッカーのやり方と違うからと言って、どちらかが優れていると言い難いとは一緒であろう。
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4. スポーツを初級からプロの選手になるまでやる課程と、言語・文化習得の課程は似ている部分が多い。
第一に、似ているスポーツと似ていないスポーツがあると同様、言語の距離がある。大雑把に言うと、英語を学ぶ日本人や中国人は、ラグビーをやってきた人がバレーを学び始めた選手、英語を学ぶフランス人やドイツ人はテニスやバドミントンをやってきた人がバレーを習うことに比喩できるかもしれない。
第二に、言語・文化習得も、スポーツも、やればやるほど上手になっていく。野球の試合に勝つ覚悟をしたら、日々練習すると同様、外国語が上手になりたかったら、週一回一時間程度やるだけで高い成果を期待するわけにはいかない。(朝から晩まで語学をやればいいと言いたいわけではない。)
第三に、言語・文化を身に着く課程にも、スポーツの訓練課程にも、同じぐらい頑張っている人の間でも、成果や得意な部分には個人差が出る。耳のいい人や真似することの得意な人は発音がきれいになるかもしれない。発音が上手になれないが観察能力が高くて、空気が上手に読める人は外国語での交渉がうまくなる可能性が高いかもしれない。それと同様、走るのが速い人やキャッチの上手な人がいる。また、スポーツには得意・不得意があるとともに、外国語学習に適性もある。さらに、スポーツにも、外国語にも、多面的な学習が必要である。読む練習をたくさんしただけでは、ぺらぺら話せるようになれないと同様、キャッチの練習をいっぱいしてきたからと言って、ボールを打つのが完璧になれるわけではない。外国語・異文化の習得にもスポーツの練習にも様々な技能を総合的練習する必要がある。
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5. 言語環境を変えたら、たくさん のことを同時に学ばなければいけないことは、個々の技能を練習したことがあるが、練習したことのないスポーツの試合にいきなり入ることと同様であろう。パーティーなどで唯一の外国人になったら、話題がどのように変わっていくのか、意見が求められているのか承認してほしいのかが迷ったことがあった。ラフティングのルールが説明されて、少し練習したことがあって、急に試合に入ったかの感じ。誰が何をしているのか、自分にどんなことが期待されているのかが多少分かっても、それで合っているかどうかが分からない。何がどの流れで進めているかさっぱり分からないような状態だった。
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6. 外国語を使うことも、スポーツをすることもやる目的の種類が似ている。会話には、コミュニケーションそのもののための会話(交流会話)と、誘う・説得するなどの目的のある会話(交渉会話)がある。それとともに、スポーツを試合で勝つ目標でスポーツをやることがあれば、運動を楽しむためや健康のためにやることもある。
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ここまでは言語・文化とスポーツの類似性について書いてみた。最後に、このような比較の妥当性について考えてみたい。
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言語・文化をスポーツに例えることは振る舞の違いの説明や学習課程の説明には便利な気がする。言語・文化にあるような複雑な現象やパターンを可視化し、身近な事例で説明すると、その体験をしたことのない人(例えば、違う国に住んだことのない人)にも大雑把なイメージぐらいは持ってもらえる。このような例えの使用の例を最近発見した。
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Tony Silva先生のpodcast(http://www.tony-silva.com/t3/)の留学のメリットについての議論(Episode 108)でなかなか分かりやすい例えが使われていたので、感動した。我々はなぜ海外に行って初めて自分の文化の特徴に気が付くかについての例えであった。魚に「水の中での生活はいかがですか」と問いかけても、水の中でしか暮らしたことのない魚は質問の意味が分からないだろう。ということで、水の中での暮らしについては陸上にも出たことのある蜥蜴などに聞いたらはっきりした答えが得られるかもしれない。海外に行ったことのない人間は魚と違って、水の中に生きても陸上での生活の特徴についてテレビやネットから知ることができる。
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さて、言語・文化をスポーツに例えるメリットの話に戻ると、両方は社会の中に出現し進化したので、類似点がある。そこで、様々な言語と文化のルールの差と言語・文化を使用する課程・身に着く課程をスポーツのやること・練習することに例えると分かりやすいときがあるかもしれない。
しかし、前者は後者より明らかに範囲が広いこと、前者には後者と違って暗黙なルールは明確なルールより多いことなどから、このような比較が妥当ではない場合があるはずだ。比較が可能なときと不可能なときについて皆さんのご意見やご経験を聞かせて頂きたい。
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追伸:バイアスのあることを書くつもりは一切ない。可笑しいことにお気づきなればご教示ください。

