■ 2007年11月17日 ロジャース再考

ロジャース式カウンセリングを、1995年から5年間スーパーバーザーの元でみっちりと仕込まれた福地結路ですが。

福地結路には、最近そのロジャースがちょっと合わなくなって来ました。

どういうことかと言うと
ロジャースにはカウンセリングの三原則がある。
①受容・・・無条件の肯定的配慮
②共感・・・感情移入的理解
③カウンセラーの自己一致
これは、自分に自信が無く日常生活に支障を来たす人には良いと思う

但し、
 スピリチャル系セッションでこの理論を使うと

例えば
 クライアントさんが
 自分の悩みを話し、さらに外界(自分の近い関係の人や団体)
 に付いての理論を述べる

 その際に
 外界に付いての否定的な意見をカウンセラー的に
 共感して肯定してしまうと

 後から
 クライアントの言っていた事を受容・肯定したのでなく

 セラピストの福地結路があの団体について・あの人についてこう言っていた
 
 私がそう言っていた事にもなりかねない。
 私の立場はWin&Winである

ではどうすれば良いか?
 
クライアントさんが外界に対して否定的な意見を持っていれば
 その内面世界を受容して共感する事は重要

 でも
 受容し共感した上での

 『こういう考え方もあるよ』

 っと肯定的な意見のコーチングも重要と思う今日この頃

■ 2007年11月26日 感情体験に正直に

福地結路は風邪をひいて随分寝込みました。
 風邪の高熱のなかで、以前の人間関係の中で
 当時は自分が全く怒ってなかった事が、
         実は激怒していた事に気付きました。

まあ、人前で私に対して侮蔑の言葉を言う人なんだけど・・・
 それが一度ではなく、何かの度毎に言うので
 当時は、
    『この人は可愛そうな人間なんだ・・・』
    『他人を侮蔑する事で自分が優越感に浸りたい人なんだ』
                   っで納得しようとしていた
 当時はその人とも仲が良かったし。

でも風邪を引いていて
自分が受けた屈辱や侮蔑の数々に対して激怒している事がわかった。

そして昨日、
風邪が治ったかと思ったら、一日頭痛だった。
やっぱりその人に対して激怒の感情が起こった。
 
自分の感情には正直に拾い上げよう
もしそれがネガティブな感情だとする
その感情を押し殺したまま気付かずに居ると・・・
病気と言う形になって感情が訴えてく来ます。

ネガティブな感情でもその場で小出しに出せば後々残らなですし
自分が今・ここで何を感じているか
 頭や常識で湾曲せずに、感じたままを外界に表現してみましょう。

筆者追記
人の感情の喜怒哀楽の内で、喜哀楽は他人の前でも表現してよい感情と現代社旗はされています。
しかし、怒りは他人の前では表現してはいけない感情として現代社会では認識されていますね。
怒りの感情をその場で表現すると、周囲の人々も共感してくれてその場が収まる場合もあります。
本人もその場で表現しているのでその感情を後々引きずる事はありません。
しかし、その時の感情を抑えて数日後にメールや電話で『実はあの時・・・』と始まる場合。
大抵の場合は、相手に共感してもらえず問題がこじれてしまいます。
感情の喜怒哀楽の内に優劣はありません。
全ての感情が自分の中でおこるのを受け入れましょう。
大抵場合怒りの感情の場合は、その裏に真実の感情があるものです。
受け入れられない悲しさや、ないがしろにされて屈辱感など、それらの怒りの裏側にある感情を見つめてみましょう。
そして周囲の人には、怒りに任せて表現するのではなく、自分の起る感情を受け入れた後で表現してみましょう。
きっと周囲の人も理解してくれるでしょう。


■ 2008年01月10日 伝え方と自分の当たり前

 人と話をするときに、
  自分の当たり前と常識を前提に話すと、
        相手には一見伝わった様に見えても・・・
 日にちがたった後に相手がどううけとったかを聞いてみると、
  かなり自分が伝えようとした事とは違う場合があります。

最近ではシンクロニシティとして出てきたので
          私の注目目すべきテーマですね

先ずは相手に伝える場合
 ■自分の前提知識を外し、全く知らない人を相手に話すようにする
 ■ニュアンスや感情を読み取って行間を読み取ってもらう
     (間や雰囲気で察してもらう)っというのを止める
 ■感情を抜いて理論的に伝えるがその時に愛も忘れずに

それを注意して伝えたとしても
  此方の伝えたいことが正確に伝わっている事は
                 120%無いと思う事

  此方の伝えていない事を相手の感性による行間埋め(ト書き)
    をしてしまう場合は充分に考えられるということ。

但し
 セッションなどに於いて
 此方の伝えた事と全然違う様に行間埋めをしていた場合は
 その人にとってベストな事が起こっていると思い見守る事。
 但し
  あまりにも違う事をクレームの様に公言している場合は訂正させる

公開制のブログ日記なども
 そのまま読んでくれる人や曲解して読む人それぞれいる
 まあ、それぞれの人が自分の概念を通して読むのでしょうがない。

ブログも
 リアルで逢ってない人の私のイメージは本当に10人十色
 自分のイメージで福地結路像を作り上げている。
 まあ、ブログはチャネメッセが多いので存在によって波動が違うけど
 
自分のイメージや意見が曲解された場合
 相手のコンプレックスを私のシャドウを通して投影されている。
 ので
 それによって相手の問題点が良く見える。


■ 2008年01月12日 育てるということ

福地結路は現在ライトワーカーの育成の活動をしてます。

では
 育てるとはどういうことでしょうか?

私はクライアントからの依存と
     セラピストからの支配によって
 スピリチャルな考えを統一して
   何時までたっても
       独り立ちさせずに抱え込む
            ことでは無いと思います。

育てると言うことは
 クライアントを自律・自立させること
  スピリチャルの世界で自分固有の世界観を持って
  自分自身の中心と繋がって、
   誰かに依存する事なく自分で立って
   誰かの意見に支配される事なく、自分で自律する事。

 色々な人が色々なスピリチャル理論を説く中
   それぞれの人の意見を
   その人(その団体)にとっての真実と受け入れ
     自分は自分で影響を受けないと言うこと。
       違いを認め合うと言うことだと思います。
 
 違いを認め合えば手を繋ぐ事は簡単です。

皆さんもう一度立ち止まって考えて下さい
 あ・な・た・は
   所属する団体ORセラピストによって
         育てられていますか?
              OR
         その団体の戦士になる為の洗脳を受けてますか?

■ 2008年01月13日 もうひとつの未来

親友ってなんでしょうね
 良い時だけ傍にいて
  塩梅が悪くなるとクモの子を散らすように逃げていく
    それは親友では無いと思います

 お互いの違いを認め合って
  時に行き過ぎたときや
   路を外して横道に逸れそうになったとき
    そっと諫めてくれるのが親友ではないでしょうか?

  まあ、そういう状態の時は
    人に耳を傾けない状態でしょうが・・・
      親友だからあえて苦言を述べるって事もあるよね
  しっかりとしたラポールがあれば聞けるはずだよね


でもね
 自分の周りに自分の考えに対しての
   イエスマンだけを集めて親友と言った場合
     行き着く先は裸の王様だよね。

 中世の王様に近くには道化といって
   もっとも地位がないけれども
     王様に苦言やアンチテーゼを述べる人がいたんだよね。

 まあ、自分の周りに自分と同じ考えの人だけを集めれば
    楽だし居心地が良いけどね
     それを続けると考えが偏るよね


もうひとつの未来を探してみませんか?