「すんません、あんまりそっちの方は詳しくなくて」私は答えた。酒は飲まない私には答えようがない。二人は黙ってしまった。沈黙が車内が包んだ。が、それもつかのま二人は再び話し始めた。営業用としてそういう方面も調べときやぁなあと私は思っていた。
私は車を御堂筋の道頓堀橋南詰の側道に止めた。二人は通称ひっかけ橋の方へ・・・タイガースが優勝した時には大騒ぎになる通りに向かっていった。
私は後部ドアーを閉めアクセルを踏み込もうとした時、左後ろに人影を感じた。
営業用カンというやつだ。
私はブレーキを踏み左後ろを振り返った。
女が今にもドアーガラスを叩こうとしていた。
その表情に困惑した表情と哀願の表情が浮かんでいた。
タクシーはたくさん止まっている。それも一時間や二時間客待ちしているタクシーはざらだ。
客もそれをよく承知していて短距離の客は気を使って流しのタクシーを拾う。
私はそれに当たったという訳だ。
ワンメーターの客だなと私は思った。
嫌がる運転手もいるが私は迷惑だとは思わない。客は客だ。
それに拒否して会社に通報されても難儀だ。
乗車拒否は解雇案件なのだ。私には後がない。
その女の傍らには少女が立っていた。
十四、五歳のその年相応の幼さと妙に色っぽい目や唇を持った少女だった。
極端に短いスカートから細い足が伸びているがふっくらした所がなくキレイというより妙に哀れさを感じるものだった。
「いいですか?」女が尋ねた。
「どうぞ」私は営業用の笑みを浮かべた。
女はホットしたように少女の手を引っ張り込むように乗り込んできた。
「堺までお願いします」
意外だった。堺なら五、六千円はある。
「高速でいいですか?」私は尋ねた。
はい、と答えて行き先を言った。
堺市内というより堺市の南のはずれ、新興住宅地のある所だった。
私のボロマンションに近い。
私は車を発進させた。
御堂筋を下り千日前通りを右折し阪神高速汐見橋入り口に向かった。
二人は黙ったままだった。
少女は下を向いたまま携帯電話をいじっているし、女は疲れた表情で前を見つめたままだった。
あの女だった。
昨日見た女だ。私を欲情させたあの女だ。
今日は少し派手なドレスだった。
これからあの店に向かうのだろう。
派手なドレスを着た女に何故か欲情を感じなかった。
悲しみを感じただけだった。なぜだか分からぬ。
「真理ちゃん、食事用意してあるから食べてね、お父さんはもう店に行っているから」と女は言った。
真理ちゃんと言われた少女は相変わらず携帯電話をいじったままだった。
そのお父さんというのが店のマスターらしい。
この女の多分旦那なのだろう。
そのマスターとはお目に掛かった事はなかった。
車は阪神高速に入った。
「真理ちゃん、これ部屋に放り出してあったから綺麗にしておいたわよ」
私はバックミラーで後ろを見た。
ネックレスだった。シンプルなデザインな小ぶりなイヤリングに見えた。
女はそれを少女の耳に付けようとした。
その手を少女は払いのけた。
ネックレスは窓ガラスに当たりフロアマットに落ちた。
女は下を向き探している様だった。
私はルームライトを付けた。
「すいません」と言って女は探し続け、少女は知らぬ振りをして窓外を眺めていた。
「お客さん、止めた時に私も探しますよ」と私は言った。
「すいません」と女は再び言った。
ふっとため息をついて女は座り直した。
少女に向き直ると女は言った。
「お母さんが真理ちゃんに置いていったのよ。大事にしなきや。」
「美沙子さんには関係ないことじゃない」
女の名は美沙子というらしい。いい名だ。私は思った。好きな名だ。
「ともかくお父さんに心配させないで」女は強く言った。
「心配する訳ないじゃない」ほとんど聞き取れない声で言った。
美沙子という女は後妻か・・・私はそう思ったがタクシーの運転手の習性として「聞きながら聞かず」に徹する事にした。
車は堺インターを過ぎバイパスを通って国道に出た。
美沙子という女は家の住所を言い、少女を降ろしたら待ってて欲しいと言った。
少女を降ろして店へ行くのだろう。夕方からいい稼ぎだ。
私はアクセルを踏み込み闇の中へ走りだした。
●スナック・ミサ
私はこじんまりしたその家に着いた。
同じような建物が何十棟と続く新興住宅地だ。
バブルの頃、不動産ブームに乗って建てられたのだろう。
皆、古びている。子供たちは独り立ちし今は親の世代しか住んでいないに違いない。
玄関前の小さな庭はよく手入れされていた。
その横にガレージがあったが車はなかった。
旦那が乗っていったのかもしれぬ。
沢田は表札をみた。
吉見と書かれ小さく勇二、真理子と書かれていた。
勇二はこの家の主人で、真理子はさっきの娘だろう。
美沙子と呼ばれたあの女は雇われママということか。
勇二というこの家の主人と美沙子とはどういう関係なのだろうか。
美沙子はその少女と家に入っていった。
バッグを車に置いていった。
一戸建てはともかくマンションの場合待たせてそのまま乗り逃げする輩もいる。
なかには金をちょっと貸してと言って金を借り荷物を置いていくが、中を開けると新聞紙や古雑誌でそのまま乗り逃げというのも結構多い。
運転手は客に無理難題を言われても極めて弱いのだ。
その点、美沙子は商売柄そういう事によく気がつくのかもしれぬ。
すぐに美沙子が出てきた。
私は車を発進させた。
美沙子は物思いに耽っているようだ。
その姿は水商売に向いている様には思えなかった。
営業用とプライベートとは違うのかもしれないが。
しばらく私は黙ったまま車を走らせた。
美沙子はふっと気づいたように言った。
「運転手さん、行き先言ってないと思うんだけど・・・」と言いながら外を見た。
「行き先わかっているみたいね」
美沙子は不審そうに私を見、乗務員証を念入りに確認している。
「ああ、すいません。お客さんの店の前の道、通勤の時に使っているんです。その時、お見かけしたことがあるんです。」
美沙子は少し安心したようだが警戒心は解いていないようだ。
「店の前を通って仕事に行かれるですか?」と美沙子は尋ねた。
私は住んでいる場所と勤務先を言い、あの旧道を走るのが好きだと言った。
「新道の方が早いのに」と言って美沙子は笑った。
和やかな空気が二人の間に流れた。
やがて車は国道からその旧道に入った。
旧道に入ると人も車も少なくなり美沙子は窓を開けた。
生温い空気が入ってきて沢田の顔も撫でていく。
7月半ばの蒸し暑い夜だった。
やがて新道の高架が見えてきてその傍らの店も見えてきた。
「沢田さんでいいのかしら?料金はマスターが払うから待っててくれる。」
乗務員証の名前を見たのか、私の名前を呼んだ。
「結構ですよ」と私は言った。
この女がここの住人か、少なくともこの店の関係者だということははっきりしている。
店の灯りが見えるが人の気配はなく、声もしない。
こんな所で商売になるのか、とてもそうとは思えない。
私は車を店の前に止めた。
美沙子は店の中に入っていった。
私は車の外に出た。
私は煙草を取り出し火をつけた。
この商売を始めてめっきり煙草の量が増えた。
もっとも最近の禁煙、節煙の世情でタクシー車内での禁煙が広まり、私の会社も乗務員の車内禁煙は禁止されているが。
私は煙草を強く吸い込み、道ばたに捨てようと手を動かした時、店のドアーが開いて男が出てきた
男は悪党の犯罪現場を見つけたように私を睨み付けた。
一見やくざ風だが目は優しい。
荒々しく見えるのは商売用かもしれない。
タクシーに乗っているといろいろな客に会うものだ。
まさに人生の縮図と言っていい。
タクシードライバーはドアーを開けた瞬間に客の品定めをするものだ。
トラブルを起こす客は多い。
タクシーに長く乗務すればする程どんな客か一目で解ってくるものだ。
その勘は大概当たる。
私は煙草の始末に困り、制服のポケットに入れた。
ポケットに穴でも開けば所長の大目玉を喰らうことだろう。
男は私に近づくなり財布を取り出し聞いた。
「いくらだい?」
「5890円です」私は答えた。
男は一万円札を差し出した。
私は車に戻り釣り銭入れを取り出した。
背中越しに男は声を掛けてきた。
「沢田さんって言うらしいね、うちのママがえらく君が気に入ったようだ。」と言いながらアンドンの社名を見た。
「他の会社にママを送迎してもらっているんだがよかったら君に送迎してもらいたいんだが」
意外な頼みだった。たった今初めて乗ったタクシーの運転手に送迎を頼むとはどういうことだろう。
ともかくも確実に入る売り上げがあるということは悪い話ではない。
「たいした距離じゃあないんで、たいした売り上げにならないんだが良ければどうだい」
「はい、お願いします。送り迎えさせていただきます。」と言いながらその理由を私は考えていた。
私の私自身に対する理由と彼の私に対する理由だ。
「そうかい、頼むよ。私は吉見だ。」
「沢田です」私は改めて自己紹介した。
私はお釣りを渡し頭を下げた。
彼はしばらく私を見つめ踵を返して店へ戻って行った。
私は車に乗り込み一服吸った。
吉見という男の事を考え、そして美沙子という女の事を考えた。
私はポケットから吸い殻を取り出し吸っていた煙草と一緒に捨てた。
店の方を見てみたが彼が出てくる気配はなかった。
カラオケの音が聞こえてきただけだった。
私は車を発進させた。
