英国BBC制作のポップ・ミュージック・ドキュメンタリーが面白過ぎる。
今回はそのサザン・ロック編を。
と、その前に前回、『Krautrock~クラウトロック=ドイツのロック史』で触れたドイツのプロデューサー、コニー・プランク夫人だったクリスタ・ファスト女史が書いた創作童話"The Mermaid"のイメージ映像がネット上にアップされているので紹介したい。実はこの作品の音源はクリスタと親交のあったユーリズミックスのボーカリスト、アニー・レノックスとピーター・ガブリエルがナレーションを務め、クリスタがプロデュースを手掛けた朗読CDとして1992年にドイツ国内のみでリリースされたものだ。内容は人魚とイルカの恋愛寓話で、アップされたイメージ映像もサウンドや語りと見事にシンクロした素晴らしいものだ。クリスタ亡き後、現在ではCD作品も入手困難な状態となってしまったがネット上で彼女の作品が生き続けているのは素直に嬉しい。
THE MERMAID - (The Most Beautiful Love Story)
※詳細は不明だがErika7233という映像アーティストが編集した美しい映像イメージに彩られたクリスタ・ファスト作品の童話"The Mermaid"の朗読劇。女声をアニー・レノックス、男声をピーター・ガブリエルが担当。
ANNIE LENNOX AND PETER GABRIEL-DIE NIXE-THE MERMAID-MC ALBUM-GERMANY
※ユーリズミックスのオフィシャル・サイトにアップされている"The Mermaid"の作品データ。
さて、今年は米国大統領選挙が行われ、現職である民主党のオバマ氏と共和党のロムニー氏との間で史上稀にみる熾烈な選挙戦が繰り広げられているが、サザン・ロック(米国南部発の土着的なロック)は1970年代には米国の音楽シーンで一大ブームを巻き起こし、一時は一般国民レベルで大統領選挙の趨勢まで左右する程の影響力があった。
Sweet Home Alabama - The Southern Rock Saga
※英国BBC制作のサザン・ロック・ドキュメンタリー
ジョージア州出身のジミー・カーター氏が1976年に行われた大統領選挙で大39代米国大統領に選出された時にはカーター氏を支持するサザン・ロックのバンドやアーティスト達の応援が大きな追い風となった。
このドキュメンタリーはそのサザン・ロックを代表するバンド、オールマン・ブラザーズ・バンドとレーナード・スキナードと、奇しくもその両バンドのレコード制作とマネージメントを手掛ける事になったアランとフィルのウォルデン兄弟の栄枯盛衰の物語を縦軸として1960年代後半から1970年代にかけてベビーブーマー世代の若者を中心に盛り上がったヒッピー・ムーブメントを含むカウンター・カルチャーが終焉し、米国社会が新たな時代精神となる価値観を求めて模索していた混迷の時代を改めて検証したものだ。
番組では冒頭、アフリカ系アメリカ人の地位向上を目指した公民権運動の偉大な指導者だったマルティン・ルーサー・キング牧師が1968年4月4日にテネシー州メンフィスで白人の暴徒によって暗殺された事件の映像が流され、オールマン・ブラザーズ・バンドのグレッグ・オールマンがキング師の死の翌日、彼への追悼の意を込めて『ゴッド・レスト・ヒズ・ソウル』を書き上げたと紹介している。そして同時に同年、アラバマ州知事で極端な人種差別政策を打ち出して米国独立党から米国大統領選挙に立候補したジョージ・ウォレス氏の映像がインサートされる。キング師とウォレス氏という、公民権運動の背景にあった人種差別という米国社会の大きな病理を巡って相対立する二人をクローズアップする事によって後々詳述するサザン・ロックの抱えるもう一つの側面が浮かび上がってくる。
サザン・ロックの立役者の一人、フィル・ウォルデンはサザン・ソウル最高のシンガーであるオーティス・レディングやアル・グリーン等多くのR&Bアーティストのマネージメントを務めた後、アトランティック・レコードのディレクターであったフランク・フェンターの助力により弟のアランと共に故郷であるジョージア州メイコンにキャプリコーン・レコードを創設した。1960年代後半に米国を席巻したカウンター・カルチャーとしてのロック・ミュージックは米国中に隈なく浸透し、ニューヨーク、ロサンゼルスといった東西海岸の大都市圏だけでなくディープサウスと呼ばれる米国深南部も例外ではなかった。デュアン(デュエインと発音されている)とグレッグのオールマン兄弟はナッシュビル生まれで、幼少時にヒッチハイカーによる殺人事件で軍人だった父親を亡くし、母親一人に育てられた。後に一家はフロリダ州に移住し、彼ら兄弟は同地で盛んだったブルースやR&B、ソウル・ミュージック等の黒人音楽を存分に聴いて育った。早熟だった彼らは10代の頃に始めたオールマン・ジョイズ等のガレージバンドで活動した後、アワーグラスという比較的ポップなアプローチのバンドでロサンゼルスのリバティー・レコードと契約して1967~1968年にかけてアルバム2枚をリリースする。が、商業的には失敗し、バンドは解散する。アワーグラスのメンバーとしてオールマン兄弟と共に活動したポール・ホーンズビーは後にレコード・プロデューサーとして数多くのサザン・ロック・バンドの作品を手掛けた。オールマン兄弟はフロリダ州に戻り、デュアンはその後、アラバマ州マッスル・ショールズにあるフェイム・スタジオのスタジオ・ミュージシャンとしてソウル・シンガーのウィルソン・ピケットの『ヘイ・ジュード』(1968年)のレコーディングに参加し、そこで披露したスライド・ギターの名演が高く評価されて「女王」アレサ・フランクリンやパーシー・スレッジ等の一流黒人アーティストのレコーディングに引っ張り凧となる。また英国人ギタリストのエリック・クラプトンも「初めて『ヘイ・ジュード』でデュアンのプレイを聴いた時の衝撃は忘れられない。」と述懐している。フェイム・スタジオはR&B、ソウル系アーティストのレコーディング・スタジオとしては名門で白人、黒人を問わず有能なミュージシャンによってバッキング・トラックが制作される事でも有名でアレサ・フランクリンやエタ・ジェイムズの数々の名作を生み出した。
Wilson Pickett- Duane Allman - Hey Jude
※ウィルソン・ピケットの『ヘイ・ジュード』。フェイム・スタジオでのデュアン・オールマンの最初のレコーディング・セッションである。
一方、フロリダ州ジャクソンビルではロニー・ヴァン・ザント、ラリーヤンストロム等によって後にレーナード・スキナードと改名するローカル・バンド、ボブズ・バックヤードが1964年に結成された。
これまた再びフロリダを拠点にしたデュアンとグレッグのオールマン兄弟は黒人ドラマーのジェイモー・ジョハンソン等と新たにオールマン・ブラザーズ・バンドを結成し、フェイム・スタジオでのデュアンの仕事ぶりに着目したウォルデン兄弟によって設立されたキャプリコーン・レコードと契約した。彼らのサウンドは番組中でもサイケデリック・ブルース&ソウルやコズミック・ブルースという比喩が聞かれるようにブルースやソウル、カントリー、ジャズ等、米国音楽の様々なエッセンスが詰まった壮大なスケールを持ったジャム演奏が特徴だった。
13分過ぎには当時の世相を象徴的に描いたデニス・ホッパーが監督したアメリカン・ニューシネマの傑作『イージー・ライダー』(1969年)の映像がインサートされ、女性ジャーナリストで歌手でもあるキャンディア・クレイジー・ホースが黒人に対する人種差別を含め、当時の米国南部の保守的な風土について語っている。『イージー・ライダー』のストーリーではヒッチハイクの旅の途上でヒッピーの主人公がバイクでハイウェイを走行中、南部の保守的な南部白人に唐突に銃で撃たれてしまうというショッキングなエンディングを迎える。米国南部ではやはり長髪のロックミュージシャンに対する風当たりも強かったともグレッグは回想している。
続いてニール・ヤングの『サザン・マン』が流れ、警官の暴力による黒人への虐待や白人至上主義を標榜する人種差別主義者団体のKKK(クー・クラックス・クラン)のショットを挟み、オールマン・ブラザーズ・バンドの『ドリームズ』をバックにベトナム戦争の映像が映し出される等、番組は当時の混沌とした社会状況を伝えている。
Dreams - The Allman Brothers Band - Live Fillmore East 1970
※オールマン・ブラザーズ・バンドのフィルモア・イーストでのライヴから『ドリームズ』
ロニー・ヴァン・ザント率いるボブズ・バックヤードはクラブサーキットを続けながら1970年にレーナード・スキナードと改名し、彼らの代表曲となる『フリー・バード』をデモ・レコーディングする。アラン・ウォルデンはレーナード・スキナードの事を「ジューク・ジョイント・(ジュークとは「楽しく遊ぶ」という意味で音楽に合わせて自由に歌い踊る酒場)・ミュージック」と明言している。アランはキャプリコーン・レコードを離れてハスラーズ・インクというアーティスト・マネージメントと音楽著作権を管理する会社を設立し、その第一号アーティストとしてレーナード・スキナードと契約した。
オールマン・ブラザーズ・バンドはキャプリコーン・レコードと契約すると早速ファースト・アルバムをリリースしたものの商業的成果は得られなかったが、「トラベリン・バンド」の異名通り休む間もなく米国中をツアーして回り、徐々にライヴ・バンドとしての評価を高めていく。
25分過ぎではハードロック・バンドのクリームの成功で一躍世界的なギター・ヒーローの座を手にした英国人のエリック・クラプトンとサザン・ロックの関わりが紹介される。クラプトンはクリームを解散後、短命に終わったがスーパー・グループと謳われたブラインド・フェイスも解散して米国に逗留、そこでデレク・アンド・ザ・ドミノスを結成し、名盤の誉れ高い『いとしのレイラ』(1970年)を制作したが、このアルバムにはデュアン・オールマンがフィーチャーれている。「エリック・クラプトンは非常にシャイな英国人だった」と回想するのは番組中、度々登場するボニー・ブラムレットであるが、彼女は夫であるデラニーとの夫婦デュオで活躍し、白人とは思えない「黒い」表現力を持ったソウル・シンガーでエリック・クラプトンとの共演等で知られる。この夫婦デュオはデビュー・アルバムをリリース後、エリック・クラプトンをサポート・ギタリストとしてツアーも行い、1970年にはライヴ・アルバム『オン・ツアー・ウィズ・エリック・クラプトン』をリリース。またデュアン・オールマンとも交流を深め、デュアンは『デラニーよりボニーへ』(1970年)、『モーテル・ショット』(1971年)という2枚の作品に参加した。
Eric Clapton - Duane Allman - Layla (Alternate Version)
※「スローハンド」クラプトンと「スカイドッグ」オールマンが競演した『いとしのレイラ』のアウトテイク。ラフ・ミックスだがギターの音の粒立ちがオフィシャル・バージョンより数倍生々しい。後半のインスト・パートのボビー・ウィットロックのピアノとギターの絡みも素晴らしいが、ここでは各パート楽器群が揃って情感豊かに「歌っている」ように感じる。スライド画像の途中で"SOUL MATES,TWIN FLAMES"の文字がアップされる。最高にエモーショナルな一曲。
オールマン・ブラザーズ・バンドは『オールマン・ブラザーズ・バンド』(1969年)『アイドルワイルド・サウス』(1970年)の2枚のアルバムをリリース後、彼らの真骨頂であるライヴを収録した『フィルモア・イースト・ライヴ』(1971年)で様々な音楽ジャーナリズムに絶賛され、音楽シーンに確固たるポジションを確立する。このアルバムはこの頃3~4分以内のシングル曲しかオンエアできなかったAMラジオに代わって、アルバム一枚まるごとオンエアする事も可能で音楽好きの若者のリスナーの間で急速に浸透していったFMラジオで頻繁にオンエアされた事もあり、彼らの人気に拍車をかけた。同じ時期に、アート志向で長尺の楽曲をセールス・ポイントに米国でも人気が高まりつつあった英国のプログレッシブ・ロック・バンドも同様の事情からFM局のリスナーから人気に火が付くという現象も起こった。
順風満帆に見えたオールマン・ブラザーズ・バンドバンドだったが1971年の10月29日、デュアンがオートバイ事故によって僅か24歳の短い生涯を閉じる。その一年後の1972年11月11日にはデュアンの後を追うようにベーシストのベリー・オークリーもオートバイ事故で亡くなってしまう。
34分過ぎに登場するアル・クーパーはボブ・ディランの『ライク・ア・ローリング・ストーン』の他、数々のレコーディング・セッションで名演を残しているマルチ・プレイヤーだったが、クラブ出演中のレーナード・スキナードを気に入り、大手のMCAレコード内に設立したアル自身のレーベル「サウンド・オブ・ザ・サウス」と契約を結んで彼らのデビュー・アルバムをプロデュースすることになった。レーナード・スキナードのデビュー・アルバムは1973年にリリースされたが、白人労働者の日常~「ブルーカラー・ライフ」を高らかに歌い上げた『シンプル・マン』や『フリー・バード』は1960年代後半から続いていた、過剰に政治的なスタンスを取るロック・バンドに席巻されたロック・シーンに辟易していた若いロック・ファンの共感を呼びビルボード最高27位というチャート・アクションを記録した。
オールマン・ブラザーズ・バンドも1973年7月28日にニューヨークで開催されたサマー・ジャム・アット・ワトキンズ・グレンという大規模な音楽フェスティバルにはザ・バンドやグレイトフル・デッドと共に出演し、あのウッドストックを上回る60万人もの観客を動員したのだが、この音楽フェスはフォークやブルース、カントリー等の米国のルーツ・ミュージックをベースに持ったバンドが脚光を浴びるきっかけともなった。同年8月にリリースされた『ブラザーズ・アンド・シスターズ』はビルボード・チャートのアルバム部門で最高位1位を獲得し、彼らの勢いは留まる事がなかった。オールマン・ブラザーズ・バンドの成功により俄然注目度の高まったキャプリコーン・レコードはフロリダ出身のカウボーイ、サウスカロライナ出身のマーシャル・タッカー・バンド等、サザン・ロック・バンドを続々と世に送り出し、商業的にもそれなりの成果を上げた。サザン・ロックというジャンルもバリエーション豊かになりハードなブギ・サウンドが売り物のテキサス出身のZZトップやアーカンソー出身のブラック・オーク・アーカンソー、ヒット・チューン『イマジナリー・ラバー』に代表されるメロウなバラードもこなす多才なアトランタ・リズム・セクション(ジョージア州出身)等、多彩な顔ぶれが米国のメインストリームのロック・シーンを賑わした。
41分過ぎにはこのドキュメンタリーのタイトルにもなっているレーナード・スキナードが『スウィート・ホーム・アラバマ』(1974年リリースのセカンド・アルバム『セカンドヘルピング』に収録)を演奏するTVショウの映像が流されるが、冒頭ロニーがMCで「ニールの名前を出すなよ。あいつの事は話したくない。」と一言。この曲は実は先述したニール・ヤングの『サザン・マン』へのアンサー・ソングとして書かれたものであり、この経緯についてはコラムニストの町山智浩氏の『やじうまUSAウォッチ』に詳細が書かれている。
やじうまUSAウォッチby町山智浩「神と銃」レーナード・スキナードが歌うアメリカ
Lynyrd Skynyrd 11-11-1975 The Old Grey WhistleTest ( FULL SET)
※レーナード・スキナードが出演した英国のTVショウ。22分過ぎに『スウィート・ホーム・アラバマ』を演奏する前に問題のMCが聞ける。
45分過ぎには当時、大統領選挙に出馬したジョージア州出身のジミー・カーター氏が同郷のジョージア州メイコンのキャプリコーン・レコードを訪問し、オールマン・ブラザーズ・バンドの選挙キャンペーンへの参加をオファーする映像がアップされる。カーター氏がオールマン・ブラザーズ・バンドやマーシャル・タッカー・バンドの大ファンであり、この事によって多くのサザン・ロック・ファンの若年層有権者がカーター氏に親近感を覚えたとカントリー・ミュージシャンのチャーリー・ダニエルズが証言している。ノースカロライナ出身の彼が率いるチャーリー・ダニエルズ・バンドも"South's Gonna Do It Again"が大統領選挙のキャンペーン・ソングに使用され、カーター氏の躍進に一役買った。この一連のキャンペーンによってサザン・ロックそのものが全米中でポジティブでファッショナブルなイメージとなり、「古き良きアメリカ」を体現した米国南部発のカウボーイ・ハットやジーンズ・ファッションが大都市の若者の間でもトレンドとなった。47分過ぎにアップされるのはこの頃ヒットしたバート・レイノルズ主演の映画"Smokey and the Bandit"(邦題『トランザム7000』)(1977年)だが、この作品からもそうした当時の社会風俗が伺える。
そして50分過ぎには1976年11月、民主党のジミー・カーター氏が共和党のジェラルド・フォード候補に勝利を収め米国大統領に就任する模様が流れる。一方、皮肉にもこの年オールマン・ブラザーズ・バンドはメンバー間の個人的確執が深刻さを増し、バンドは一旦解散する。解散の原因はソロ活動でも成功したグレッグやディッキー・ベッツと他のメンバーとの間のライフスタイルの乖離(メンバー中で一人だけ突出して莫大な収入を手にしたグレッグが派手なロックスター・ライフを送るようになりドラッグにも手を染めてしまう)で、グレッグとディッキー以外のメンバーは新たにシーレヴェルというバンドを結成する。
レーナード・スキナードは1977年10月20日にロニー等3人のメンバーがツアー中にエンジン・トラブルによる飛行機墜落事故で死亡。ロニーの弟であるドニー・ヴァン・ザントがボーカルを務める38(サーティーエイト)・スペシャルは同年デビューしている。
栄華を極めたキャプリコーン・レコードもオールマン・ブラザーズ・バンドの解散と前後して急速に鎮静化したサザン・ロック・ブームの影響やフィル等会社トップ陳の放漫経営が祟って経営難に陥り、1979年に閉鎖した。また大統領に就任したジミー・カーター氏も政策の看板だった「人権外交」と表裏一体だった対外的な弱腰姿勢が仇となり、この頃アヤトラ・ホメイニ師を戴くイランで起きたイスラム革命への対応の不手際等に米国内でも批判が高まって1980年の大統領選挙では保守派の共和党候補ロナルド・レーガン大統領に大差で敗れ、カーター氏は任期を一期務めただけでホワイトハウスを去った。
番組のエンディングではオールマン・ブラザーズ・バンドが1979年に、レーナード・スキナードは飛行機事故から10年後の1987年にそれぞれ再結成され(レーナード・スキナードのボーカルはロニーの弟ジョニーが務める)、双方共に今日までレコード制作やライヴ活動をしている事を伝えるテロップが流れる。そしてフィル・ウォルデンは1990年代にキャプリコーン・レコードを再稼動させ成功するが2006年に他界したと。最後に番組にフィーチャーされた38スペシャル、アラン・ウォルデン、アル・クーパー、ボニー・ブラムレット、チャーリー・ダニエルズ、マーシャル・タッカー・バンド、ポール・ホーンズビーのネームクレジットがアップされ、"are still jukin',,,"と結んでいる。
Lynyrd Skynyrd - Sweet Home Alabama, Live Nashville, TN, USA
※2003年に米国テネシー州ナッシュビルで行われたレーナード・スキナードのライヴから『スウィート・ホーム・アラバマ』
サザン・ロックは日本でも僕が洋楽ロックを聴き始めた中学2年(1974年)頃から盛り上がり始め、高校1年だった1976年にそのブームはピークを迎えるのだが、当時は音楽雑誌には毎号必ずオールマン・ブラザーズ・バンド等のサザン・ロックの記事が掲載されていた。サザン・ロックを象徴するキーワードである「レイドバック(のんびり、ゆっくりの意)」という言葉が流行り、またカーター大統領が誕生した1976年は米国独立200周年に当たり、音楽誌以外にも様々な雑誌でサザン・ロックを絡めた米国特集が組まれたりして、この時期には改めて米国への憧憬が深まったものだ。
サザン・ロックという本題とは関係ないがカーター大統領誕生の背景に因んで個人的に思い入れの深いハンター・S・トンプソンというジャーナリストについて書いておこうと思う。トンプソンは1967年にカウンター・カルチャー・マガジンとして創刊された米国の雑誌『ローリング・ストーン』の名物ライターでルポライター作家としての出世作『ラスベガスをやっつけろ』はジョニー・デップ主演で1998年には映画化もされた。tompsonhunter1961という僕のアメブロのニックネームはこのトンプソンに敬意を表したものだ。トンプソンは惜しくも2005年に亡くなったが(猟銃自殺)、生前の彼の業績は幾つかの著書が日本でも邦訳出版され、彼の生涯を追ったドキュメンタリー映画『GONZO~ならず者ジャーナリスト、ハンター・S・トンプソンのすべて』(2011年)も制作された。このトンプソンが1976年の大統領選挙では雑誌『ローリング・ストーン』誌上でカーター氏を支持する記事を書きまくり、特に若者を中心に米国の世論を大きく動かした事は有名な話である。それまではエスタブリッシュメントとされていたニューヨーク・タイムズやワシントン・ポスト等の大手新聞メディアの論調が大統領選挙の動向を左右するのが常識だった。当時急速に発行部数を伸ばしていたとは言え『ローリング・ストーン』はまだまだ一介の若者向けカルチャー誌に過ず、大手メディア関係者からは所詮「ヒッピーが作った壁新聞」(隔週刊行の雑誌だったが)等とも揶揄されていた。その『ローリング・ストーン』に掲載されたトンプソンの、まるで熱に浮かされたようなハイテンションな筆致によるバックアップ記事によって結果的にカーター氏をホワイトハウスに送り込んでしまったのは新進メディアが成し遂げた掛け値なしの快挙だった。
『映画GONZO―ならず者ジャーナリスト、ハンター・S・トンプソンのすべて―』公式サイト
※ハンター・S・トンプソンの生涯を追ったドキュメンタリー映画の公式サイト。トレイラーもアップされている。
Rolling Stone Magazine [United States] (3 June 1976)
※カーター氏が表紙の『ローリング・ストーン』誌1976年6月3日号。トンプソンによるカーター氏のバックアップ記事、"Jimmy Carter & The Great Leap Of Faith"のリードが誌面に踊る。
サザン・ロック・バンドに話を戻すと、レーナード・スキナードがニール・ヤングの『サザン・マン』へのアンサー・ソングとして『スウィート・ホーム・アラバマ』を書いたというエピソードでも明らかなように彼らの持つ保守的なマインドは意外な事に現在では一部のロカビリーやスキンズ・バンドにも受け継がれている。レーナード・スキナードが南部人を無知で野蛮だと十把一絡げに括ってステロタイプ化して批判したニール・ヤングに噛み付いたのは、カナダ人でニューヨークやロサンゼルスに住んでいる輩に俺達の住む南部の何が分かるか、という憤りからであり人種に限らず何らかの差別や偏見というものは古今東西どこにでもある訳で、地域には地域特有の事情があり、ことさら一面だけを槍玉に上げて他所者にしたり顔で(しかもポピュラー・ソングとして)歌われる筋合いのものではない、という事だと思う。ロカビリー・バンドの一部はヒルビリー・ミュージック(初期のカントリー・ミュージック)をルーツに持つバンドもあり、古典的なヒルビリー・ソンクはレーナード・スキナードと同様に平凡な労働者の日常の悲哀を忌憚なく歌ったものだ。またスキンズ・バンドでは以前にも紹介した英国のスクリュードライバーはレーナード・スキナードのカバー・バージョンをレパートリーにしていたが、その多くはブルーカラーである彼らが就業する労働現場では「人種差別反対」という綺麗事だけでは済まされないリアルな現実が横たわっている。ニール・ヤングの歌詞にカチンと来たレーナード・スキナードのメンタリティーはこれと似たような感情ではなかったかと思う。
音楽的な側面から見るとサザン・ロックはオールマン・ブラザーズ・バンドのツイン・リードやレーナード・スキナードのトリプル・リード・ギターはライヴ・パフォーマンスでは火を吹くようなインプロビゼーションの応酬でギター・バトルが展開されたり、オールマン・ブラザーズ・バンドのダブル・ドラムスという編成は2人のドラマーによる、敢えてジャストに決めないポリリズムの妙味といったものもある。こうした要素は今日では所謂ジャム・バンドに引き継がれ、番組にも登場するギタリストのパターソン・フッドが率いるアラバマ出身のオルタナティブ・サザン・ロック・バンドのドライブ・バイ・トラッカーズを筆頭にライヴにレコード制作にと各地で活発な活動をしている。因みにパターソン・フッドはアラバマ州の優秀なスタジオ・ミュージシャン集団でスワンパーズの別名でも知られるマッスル・ショールズ・リズム・セクションのベーシスト、デヴィッド・パターソンの息子であり、世代から世代へと受け継がれるサザン・ロックを初めとする米国南部の豊饒な音楽的土壌が窺い知れる。