前回に続いて英国BBC制作のポップミュージック史ドキュメンタリー・シリーズのクラウトロック=ドイツロック編をご紹介。
Krautrock - The Rebirth of Germany (BBC Documentary)
「クラウトロック」なるカテゴリー用語が登場し、1ジャンルとしてドイツのロックが広く語られるようになったのは1980年代中期以降の事で、そもそもドイツのロックバンドなどというものは一部の例外を除いて彼らが精力的に活動していた1970年代には日本では非常にマニアックな存在であった。
この番組ではサブタイトルに"The Rebirth of Germany"とあるように1945年にナチスドイツが敗戦し、それからドイツが国家として復興していく過程に於いてポップミュージック~ロックがどのように若者に浸透・発展していったのかが一つのテーマとなっている。1968年から1977年にかけてドイツのロックシーンではノイ、カン、ファウスト、クラフトワーク、アモン・デュールを筆頭に他の地域には見られない、非常にユニークな音楽性を持ったロックバンドが群雄割拠する黄金時代を迎えた。
まずはクラウトロックの中でもヒッピーコミューンでの活動からロックバンドへと発展していったアモン・デュールが登場する。彼らはナチス政権時代にはヒトラーの山荘があった事でも知られるバイエルン州のミュンヘンで政治的思想を同じくす所謂「同志」による、アート・コミューンとして1967年に結成され、翌1968年からロックバンドとしての活動をスタートした。ギタリストのジョン・ヴァインツィエルとボーカルのレナーテ・クナウプが幾つか興味深い証言をしているのだが、それによると戦後ドイツではヒトラー=ナチス時代への否定的評価が社会全体を支配しており、彼らの両親もその時代の出来事については沈黙しがちだったと言う。彼らは共同生活を送りながら激動の時代だったドイツで学生運動のデモに参加して警察と衝突したり、政治色の強いハプニング(イベント)で即興演奏を披露した。初期のメンバーの一人は後に過激な活動で知られるドイツ赤軍を創設する。彼らは1968年9月のロック・フェスティバル「エッセン・ソングターゲ」に出演する直前、プロミュージシャン指向のクリス・カラー等が離脱し、彼らは新たにアモン・デュールIIを結成した。アモン・デュールは呪術的なボーカルとトライバルなリズムを主軸とし、既製のポップミュージックにクラシックやフォーク等、メンバーの嗜好を自由に反映させてロックの枠に嵌まらない独自のサウンドを確立した。バンドが分裂した後、アモンデュールⅡの方は幾分「音楽的」となり、英国のサイケハードロック・バンド、ホークウインドのようにサイケデリックな要素を発展させたサウンドは「スペース・ミュージック」とも呼ばれた(ベーシストのデイブ・アンダーソンは後にホークウインドに加入)。また彼らは『パリ、テキサス』(1984年)『ベルリン・天使の詩』(1987年)等の作品でロードムービーの旗手として注目を浴びた映画監督のヴィム・ヴェンダースにも大きな影響を与えたドイツニューシネマの旗手、ウエイブライナー・ヴェルナー・ファスビンダー監督の『ニクラス・ハウゼンの旅』(1970年)にも出演した。
Amon Dull / Rainer Werner Fassbinder / Niklashauser Fart
※映画『ニクラス・ハウゼンの旅』に於けるアモン・デュールⅡの出演シーン
他のドイツのバンドではポポル・ヴーがベルナール・ヘルツォーク監督の『アギーレ/神の怒り』(1972年)他のサウンドトラックを制作している。ポポル・ヴーは初期に於いては中心人物であるフローリアン・フリッケが操るアナログ・シンセサイザーとパーカッションを主体とするアンビエント・エレクトロニカ・ユニットで、途中から韓国人女性のデュヨン・ユンの歌やコーラスにダニー・フィッフェルシャーの弾くギターやピアノ、オーボエ等各種楽器が彩りを添える静謐な室内楽のような美しいサウンドスケープを創造した。ドイツのロックを特徴付ける一つの要素として、元々は現代音楽の分野で発達したエレクトロニック・ミュージックの手法を取り入れたアーティストやバンドを多数輩出した事が挙げられる。その代表格でありドイツの他のバンドを差し置いて同時代的に世界的な成功を収めたのがエドガー・フローゼをリーダーとするタンジェリン・ドリームである。エドガーはベルリン・アカデミー出身で絵画を初めとする美術全般に造詣が深く「ゾディアック・フリーアーツ・ラボ」というアート・コミュニティーに参加していて1967年にはシュールレアリスムの大家であるサルバドール・ダリともコラボレーションをしている。このコミュニティーに出入りしていた一人でアンビエント・エレクトロニカのパイオニアであるクラスターを結成したハンス・ヨアヒム・ローデリウスは「そこは(ポップアートの大御所)アンディ・ウォーホルが主宰していたニューヨークのファクトリーと同じ精神を持った場所だった」と回想している。同年エドガーはタンジェリン・ドリームを結成し、1969年にメンバーを一新してクラウス・シュルツ、コンラッド・シュニッツラーとの3人組となり翌1970年にオール・レコードと契約して『エレクトリック・メディテーション』をリリースする。他方、ハンス・ホアキム・ローデリウスとディーター・メビウスが結成したクラスターの奏でる電子音はメロディーやリズムといった従来の音楽を構成する要素に囚われる事なく文字通り自由で「フリーフォーム」なものだった。タンジェリン・ドリームやクラスターとも関係の深いトーン・ステイン・シュルベンのメンバーとして活躍したヴォルフガング・ザイデルやローデリウスは口を揃えるように当時ラジオでよくオンエアされていた、単なる英米の音楽文化の焼き直しに過ぎない「シュラガー」(ドイツ語のポップスで「甘口の音楽」の意)に批判的で、自分達独自の音楽文化を創造したかったと証言している。それがシンセサイザーを主体としたドイツならではの独創的な実験音楽を生み出す原動力となった。
21分過ぎからはクラウトロックの最重要バンドと言っていいカンがフィーチャーされている。カンは学生時代に現代音楽家のシュトックハウゼンから直接講義を受けたホルガー・チューカイとイルミン・シュミット、ジャズドラマーのヤキ・リーベツァイト、そしてホルガーからギターの手ほどきを受けたミヒャエル・カローリ等によって1968年に結成された。番組ではホルガー、ヤキに加え、世界放浪の途上でドイツ滞在中にカンの2代目ボーカリストの座に収まった日本人ヒッピーのダモ鈴木が当時を回想している。カンは反復リズム=ミニマリズムとジャズの融合が基本的なサウンドコンセプトで、それにレゲエや世界各地の民族音楽の要素を取り込んだ、これまたフリーフォームな音楽スタイルを構築した。またそうしたサウンドを縫って英語や日本語を織り交ぜて単に歌うだけでなく、叫んだり呟いたりダモ鈴木はカンの持ち味の一つであるエキゾチズムを一層際立たせた。ホルガーがダモ鈴木について「たった一人で世界中を旅して回っていたサムライ・ヒッピーだった」と回顧している
のが印象的だ。
29分過ぎからはテクノのオリジネイターとも評されるクラフトワークが、彼らの人脈から派生したノイ!、ハルモニア、ラ・デュッセルドルフと共に紹介される。クラフトワークはラルフ・ヒュッター、フローリアン・シュナイダーとサポートメンバーであるミヒャエル・ローター、クラウス・ディンガーの4人によって1970年に活動をスタート。音楽アカデミー仲間であったラルフとフローリアンがバンドのメインコンセプターとなり、初期の作品に於いて様々な音楽的実験を繰り返した挙げ句、1974年にリリースした『アウトバーン』が全米でヒットし、以降作品毎にポピュラリティーを増していき、1980年代のパンク~ニューウエイブ全盛期にはテクノポップの旗手として一躍ビッグネーム・バンドとなる。若き日のラルフ・ヒュッターが「旧西ドイツでは敗戦によって音楽を含め何もかも失った。我々の世代は一から音楽文化を作り上げなければならない」と語っている映像もインサートされている。彼らはデュッセルドルフもしくはその近郊都市を拠点として活動していたがクラフトワークを離れたミヒャエル・ローター、クラウ・スディンガーが1971年に結成したノイ!は3枚のアルバムを残して1975年に活動を停止(1995年に活動を再開)するが、彼らのサウンドを特徴付けた所謂ハンマービート(俗に8つ打ちと呼ばれる)は英国のジョイ・ディビジョン~ニュー・オーダー等、多くのニューウエイブ・バンドに継承された。番組でもパンクロックの始祖であるイギー・ポップが彼らのサイケデリックなドラムサウンドの斬新さについて語っている。
1960年年代中期以降、ドイツではビートルズのヒットに触発されてレコード会社各社が有望な新人バンドを発掘しようと血眼になっていたが、いずれも大した成果は得られなかった。
34分過ぎに登場するファウストはそんな中、音楽ジャーナリストだったウーヴェ・ネテルベックのコーディネートにより大手レコード会社であるドイツ・ポリドールと当時としては破格の条件の契約を手にし、その後も数奇な運命を辿ったバンドだ。ファウストは先のウーヴェが作詞を手掛け、バンドのプロデュースやコンセプトメーカーとして1971年に活動を始めた。英米発信の耳障りの良い凡庸なポップミュージックへの反発がクラウトロックの独自性を確立する上で大きなモチベーションになったのだが、ファウストはそうしたスタンスを極限まで追及し、その実験性は当時の感覚からすると最早音楽ですらない「ノン・ミュージック」の域に達していた。メンバーであるヴェルナー・ディーアマイアーとジャン・エルヴェ・プロンが語る当時の回想は番組中、出色の面白さだ。彼らはドイツ北部ハンブルク近郊のヴュンメという地域に作ったコミューンで共同生活を送り「アート・イズ・リビング」、「リビング・イズ・アート」をバンド活動のモットーにしていたが、まさにそれを実践した稀有な存在だ。ファウストの作品は音楽のみならずレコードのパッケージも例えばファースト・アルバムは透明プラスチック・ジャケットに握り拳のレントゲン写真がプリントされたアナログ・レコードがインサートされたものでパッケージそのものが前衛アートと言っていい。因みにファウストのアルバム『Faust Ⅳ』(1973年)収録曲の一曲目は"Krautrock"とタイトルされている。クラウトロックという呼称について当のアーティスト達はあまり好んでいなかったようで「クラウト」という言葉自体、当時はヒトラー統治時代のナチスドイツを連想させる蔑称だったようだ(日本人を「ジャップ」と呼ぶ感覚に近いかも知れない)。「クラウト」とは一般的にはドイツ名物のザワークラウト(キャベツの漬物)を指す。クラウトロック特有のサウンドを確立するのに大きな貢献をした人物として優秀なエンジニアでもあったプロデューサーのコニー・プランクが挙げられる。彼はケルン郊外に構えた自前のスタジオで革新的なサウンドを求めて様々な音楽的実験を繰り返しながらクラスターやカン、クラフトワーク、ノイ!といったクラウトロックを代表するバンドのプロデュースを手掛け、彼らが後に世界的な評価を得る基盤を作った。1970年代中期には英国のプログレ(プログレッシブ・ロック)・バンドが世界的な成功を収め、マイク・オールドフィールドの
『チュブラー・ベルズ』のヒットに味を占めてプログレ・バンドの発掘に余念が無かったヴァージン・レコードのリチャード・ブランソンがドイツの「プログレッシブ=進歩的」な音楽性を持ったバンドに目を付け、いち早くアプローチをかけてきた。ファウストもリチャードの誘いを受けて2枚の作品をリリースする事になるのだが、彼らはリチャードを評して「ギャンブラー=山師」だったと言い、面白いエピソードを披露している。メンバーに本格的に英国を基盤とした活動を勧めるリチャードに対して彼らは「英国のようなミントソース和えた肉料理(の味付け)は我々には考えられない。ドイツ料理を作れるコックを用意して欲しい」と言ったのだが、それはブランソンにとって屈辱的な発言だったようだと言う。ファウストはそのあまりにも先鋭的な音楽性が仇となって英国ではセールス面でも惨敗したのだが、実験的なアプローチながらファウストよりも遥かに「音楽的」だったタンジェリン・ドリームが1974年にリリースしたシンセ・シンフォニー作品の『フェードラ』は好調なセールスを上げ、彼らはコベントリー大聖堂でコンサートを行うなどヴァージンでのレコード・ディールを契機として順調にキャリアを積み上げていった。
42分過ぎからは再びクラフトワークが大きくフィーチャーされ、彼らが世界的にブレイクした『アウトバーン』リリース以降の活動について検証している。1974年に中心メンバーのラルフとフローリアンが自前のクリング・クラング・クラング・スタジオで本格的にエレクトロニック・サウンドの探求を開始する。一時期クラフトワークのサポートメンバーだったヴォルフガング・フリューアが英米で大ヒットした『アウトバーン』について嬉々として回顧しているのだが、この作品は産業国家としてのドイツの象徴である高速道路=「アウトバーン」の自動車での走行体験を音楽で再現したもので、リスナーはあたかもドライバーになって実際に乗車して発進、そして走行するプロセスを擬似体験できるような楽曲だと語っている。(この番組では触れられていないが)フリューアの自伝によると『アウトバーン』が米国でヒットしたきっかけとなった初の全米ツアー中、ラジオから流れるこの曲が1960年代にヒットしたビーチボーイズのサーフィン~ホットロッド・チューンのワンフレーズを思わせる部分があると指摘を受け、それもこの曲が米国でヒットした一因ではないかと回想している。
以下に挙げるクラフトワークの歌詞の"Wir fahr'n fahr'n auf der autobahn"という部分がビーチボーイズの"fun,fun,fun"という有名なコーラスに似ているという(所謂「空耳」のような話だが)。
Wir fahr'n fahr'n auf der autobahn
wir fahr'n fahr'n auf der autobahn
vor uns liegt ein weites tal
die sonne scheint ein glitzer strahl
Kraftwerk - Autobahn (Single version 1974)
※クラフトワークの『アウトバーン』
Beach Boys - Fun Fun Fun
※ビーチボーイズの『ファン・ファン・ファン』
クラフトワークは1975年に『放射能』、1977年に『ヨーロッパ特急』をリリースし、次第にアーティストとしてのビジョンも拡大して1978年には彼らのマニフェストとも言える、テクノロジーとヒューマン・ロマンティシズム=人間の情愛の融合をテーマとした『マン・マシーン=人間解体』を完成させた。また『ヨーロッパ特急』の歌詞には次のような一節があるが、
From station to station
Back to Dusseldorf city
Meet Iggy Pop and Davd Bowie
KRAFTWERK - Trans-Europe Express Lyrics
※クラフトワークの『ヨーロッパ特急』の歌詞
この頃、デヴィッド・ボウイのプロデュースにより『イディオット』、『ラスト・フォー・ライフ』という2枚のアルバムをリリースしたイギー・ポップがボウイと共にクラフトワークの歌詞に描写されている。番組でもイギーがクラフトワークについて語っている映像は非常に興味深い。
一方、ノイ!を解散したミヒャエル・ローターとクラスターのローデリウス、メビウスの3人はハルモニアを結成してアンビエント・エレクトロニカの先駆けとして2枚のアルバムを制作した。英国のグラムロック・バンド、ロキシー・ミュージックを脱退したばかりのブライアン・イーノが彼らの作品から大いにインスパイアされ、1974年にハンブルクを訪れて彼らと様々なアイディア交換をし、1976年にはイーノが参加したレコーディングも行われた。こうした一連の経緯が数年後にイーノがアンビエント・ミュージックのパイオニアとして開花する下地となった。1976年から1977年にかけてはイーノが参加したディヴィッド・ボウイの『ロウ』『ヒーローズ』がベルリンのハンザ・スタジオにてレコーディングされた。この作品はイーノを媒介として彼と親交があったドイツの様々なアーティストのクリエイティブ・エッセンスがたっぷりと詰まったクラウトロックの集大成との見方もできる。『ヒーローズ』はノイ!が1975年にリリースしたアルバム『ノイ|75』に収録された"HERO"から着想を得たものであり、同作品収録の『V-2 シュナイダー』の曲名はクラフトワークのフローリアン・シュナイダーに因んで付けられた。
Neu!- Hero
※ノイ!の"Hero"(1975年)
David BowieHeroes
※デヴィッドボウイの"Heroes"
番組のエンディングではボウイの『ヒーローズ』が流れる中、様々なクラフトロックのアーティスト・ショットが映し出された後、先述したヴォルフガング・ザイデルが2009年にベルリンで開催されたクラブ・イベントのポスターの「クラウトピア(Krautopia)」(ドイツのレーベル)のクレジットを指差してこのドキュメンタリーは幕を閉じる。彼がまだ若い頃、クラウトロックが蔑称めいた響きを持って使われていた時代を思うと感慨深いものがある。
付け加えて、よく指摘される事だが1960~1970年代のドイツのロックシーンは日本のそれとは非常に多くの共通項が見受けられる。つい最近、英国のロック・アーティストで日本のロック史に深い造詣のあるジュリアン・コープの著者、『JAPROCKSAMPLER ジャップロックサンプラー ~戦後、日本人がどのようにして独自の音楽を模索してきたか-』(2007年・白夜書房)を読んでから一層、その感を強く持った(ジュリアン・コープは1995年に刊行されたクラウトロックのガイド本"Krautrock Sampler"も出版したいる)。まずドイツ、日本共に敗戦国であり、戦前・戦時の社会体制-ドイツ
の全体主義・日本の帝国主義-への反省と否定、その反動から民主主義が何物にも優先する美徳とされ、それがともすれば極端な社会主義への傾倒を引き起こし、また国家挙げての教育の成果もあって次代を担う若者のメンタリティーもそうした価値観に支配された。所謂スチューデント・パワーの嵐が吹き荒れた激動の1960年代に思春期を迎えたドイツと日本の戦後世代の若者は当時、過激な左翼運動に身を投じる事がロック・バンドで活動するのと同じようにヒップな行動でもあった。アモン・デュールの初期のメンバーにドイツ赤軍の構成員がいた話は日本のアンダーグラウンド・ロックのカリスマ的存在だった裸のラリーズのオリジナル・メンバーの一人がバンド脱退後に日本赤軍の活動家となり、あのよど号ハイジャック事件を引き起こしたというエピソードを連想させる。そして両国のバンド共に英米のポップミュージックに影響された流行歌(ドイツではシュガラー、日本の歌謡曲がこれに当たる)への反発から独自性を持ったロックミュージックを模索していた等など、共通する部分は多々ある。そんな中、クラフトワークは工業立国であるドイツ、ドイツ人の伝統的美徳である実直さや勤勉さをモチーフにした『アウトバーン』『ヨーロッパ特急』等の作品を制作し、テクノカットと呼ばれた独特のヘアスタイルにスクエアなスーツ姿という出で立ちでステージに立ち、ロボットのような動きで黙々とシンセサイザーを弾くというパフォーマンスで注目を集め、他のクラウトロック・バンドとも一線を画す画期的なドイツ固有のスタイルを提示した。日本でもクラフトワークに影響されてシンセサイザーをフィーチャーした斬新なロックユニットのYMOが一世を風靡し、多くのフォロワーを産んで彼らは一躍「テクノポップ」ブームの立役者となったのだが、クラフトワークのスーツ姿に対抗して中国共産党の人民服をステージコスチュームに選んだというのが何とも微笑ましい(日本では一時期、文化大革命を主導した毛沢東を戴く中国共産党は左翼運動家達のヒーロー的存在だった)。クラフトワークとYMOは共に後年、テクノの始祖としてテクノやハウス等、広義に於けるエレクトロニック・ミュージックの多くのフォロワーにリスペクトされる事になるのだが、クラフトワークの『ヨーロッパ特急』はヒップホップの始祖であるアフリカ・バンバータが1970年代後半にニューヨークのブロックパーティーで頻繁にプレイし、1982年にそれを元ネタとした『プラネット・ロック』をリリースしてヒップホップが大ブレイクするきっかけとなったのはあまりに有名な話だ。クラフトワーク以外にもクラウトロックが現在の音楽シーンに大きな影響を与えた例は枚挙に暇がない。
クラウトロックに関する個人的な思い出と言えば今から十数年前、とある仕事を通じてクラウトロック最大のプロデューサーであるコニー・プランク夫人のクリスタ・ファスト女史と僅かの間であるが交流した事だ(と言っても直接お会いした訳ではなく国際電話で話したりファクシミリでやり取りした訳だが)。当時、クリスタはドイツ・ケルンにあった既に故人とだったコニー・プランクのスタジオのブッキングを担当していたのだか勝ち気ながらも非常に心配りの効く聡明で優しい方だった。彼女はコニーと知り合う前は女優で、絵画の才もあり、童話作家でもあった。またコニーがプロデュースした英国のエレポップ・バンド、ユーリズミックスのアルバム『イン・ザ・ガーデン』(1981年)に収録されている"Revenge"のレコーディングにも彼女は「笑い声」で参加している。
EURYTHMICS- Revenge
※ユーリズミックスの"Revenge"。2分15秒過ぎにクリスタの笑い声がフィーチャーされている
Krista Fast Discography at Discogs
※クリスタのディスコグラフィー
そのクリスタも今や故人となってしまったが(2006年没)、1994年の暮れに彼女から僕の下に届いたクリスマスカードは今も手元にある。
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