以前紹介した『Heavy Metal Britania』に続き、英国BBC制作のポピュラー音楽史ドキュメンタリーの英国プログレッシブロック(プログレ)編、『Prog Rock Britana』を今回は紹介したい。

BBC Prog Rock Britannia an Observation in Three Movements

英国ではハードロック~ヘビーメタルと同様に、1960年代後半から1970年代にかけてブリティッシュビート・バンドやサイケデリックロックから音楽性を発展させた所謂プログレ(プログレッシブロック)・バンド~イエス、キング・クリムゾン、ジェネシス、EL&P、ジェスロ・タル等が音楽シーンを席巻した。
冒頭の30分程は"THE SHAPE OF THINGS TO COME"と題して1967~1970年迄のプログレ黎明期を振り返ったものでプロコル・ハルムのゲイリー・ブルッカーがプログレ・バンドの多くはロック史上初のコンセプト作品であるビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリーハーツ・クラブ・バンド』に大いにインパイアされたと語っている。このアルバムがリリースされたのが1967年であるが、これは名プロデューサー、ジョージ・マーティンの指揮の下に当時の4トラックレコーダー数台を駆使した多重録音による組曲形式の楽曲構成、そして暗喩に満ちた深い歌詞等それまでは単なる独立した楽曲の寄せ集めに過ぎなかったロック(ポップ)・アルバム(LP)の常識を覆す画期的な作品だった。クラシック音楽とロックの融合というのがプログレの一つのテーマだったのだが、そういう意味でもビートルズのこの作品はプログレ・バンドの指標となった。プロコル・ハルムもクラシックの要素を上手くポップミュージックに消化した『青い影』のヒット・シングルがあるが、この楽曲は日本の松任谷由実の創作の源泉となり彼女独特の作風のベースともなったのは有名な逸話である。余談だが今年デビュー40周年を迎える松任谷由実は件のプロコル・ハルムと共演した『青い影』のカバーをレコーディングし、来る11月28日から国内4ヶ所で御大・ゲイリー・ブルッカーを迎えたアニバーサリー・ショウを敢行する。続いては『Heavy Metal Britania』にも登場したアーサー・ブラウンの回想がここでもフィーチャーされているのだが、米国発のヒッピー・ムーブメントの波は英国にも押し寄せ、彼らのショウでも多くの若者がこの頃発明されたLSD等のドラッグでトリップしていたと語っている。クラシックとサイケデリックロック、この相反する2つの要素の融合がプログレの起源でもある。サイケデリックロックとプログレを結ぶミッシングリンクの一つに数えられるバンド、ザ・ナイスはキーボードのキース・エマーソンのジミ・ヘンドリックスを彷彿とさせるド派手なパフォーマンスで注目を集め、映画『ウエストサイド・ストーリー』の劇中歌『アメリカ』の大胆なカバーでスマッシュヒットを飛ばす。また英国南西部にあるケント州カンタベリーには後に「カンタベリー・ロック」と呼ばれるようになるプログレ・バンドの一つの潮流がある。この一派は1964年頃に活動を始めたワイルド・フラワーズというバンドを母体としてデイヴィッド・アレン、ケヴィン・エアーズ、マイク・ラトリッジ、ロバート・ワイアットの4人により結成されたソフト・マシーンから派生したもので、このメンバーがバンド脱退後それぞれキャラバン、ハットフィールド&ザ・ノース、マッチング・モール等のバンドを結成してカンタベリー・ロックという一つの系譜が形作されていった。彼らカンタベリー一派はケルト神話の聖地という土地柄を反映してか幻想的なサウンドとジョン・コルトレーンやディジー・ガレスピーに代表される新旧ジャズをベースにした高度なテクニックに裏打ちされた圧倒的な演奏力を誇り、プログレの中でもジャンル内ジャンルとも言うべき特異な個性を放っている。ソフト・マシーンはロンドンのアンダーグラウンド・シーンのメッカであったクラブ「UFO」にピンク・フロイドやクレージー・ワールド・オブ・アーサー・ブラウン等の先鋭的なバンドと一緒に出演し、互いに刺激し合いながらジャズのインプロビゼーションを導入したりして実験的なアプローチの演奏を繰り広げていた。後にプログレの巨頭となるイエスもこの頃、マーキー・クラブに出演し始めサイケデリックロックにクラシックやフォーク、ジャズのエッセンスをブレンドした彼ら独自の「イエス・サウンド」を確立しつつあった。1960年代後半から1970年代前半にかけては米国のウッドストック・ミュージック・フェスティバルに触発され、英国でも野外フェスティバルが花盛りとなり、大小様々な規模の音楽フェスティバルが各地で開催されていた。そんな中、1969年7月5日に開催されたローリング・ストーンズのハイドパーク・コンサートでフロントアクトとして出演し、観衆の度肝を抜いたのがキング・クリムゾンだった。彼らもまたフォークやジャズ、ブルース等多様な音楽を取り入れた独自の音世界を追求していたのだが、個々のメンバーの強固なミュージシャンシップもあってそれら構成要素となった様々な音楽的エッセンスを非常に高い地点で融合し、他に比類無い強力なサウンドを作り上げた。1969年10月にリリースされたデビュー・アルバム『クリムゾン・キングの宮殿』は作品の内容を見事に反映させた鮮烈なカバー・アートと共にロック史に残る永遠のマスターピースである。
約31分過ぎからの第二章、"THE CLOSE TO THE EDGE"ではプログレ発展期とも言える1970~1973年迄の状況を振り返ったもので、隆盛を迎えつつあった当時のプログレバンドのビッグネームがいくつか紹介される。まずはジェネシスのマイク・ラザフォード、トニー・バンクス等メンバー自らがそのキャリアを振り返る。そして元ザ・ナイスのキース・エマーソン、元キング・クリムゾンのグレック・レイク、元クレージー・ワールド・オブ・アーサー・ブラウンのカール・パーマーにより結成されたプログレのスーパーグループ、EL&Pが紹介される。彼らはザ・ナイス時代からさらに派手で過激になったキース・エマーソンのライヴパフォーマンス(モーグ・シンセサイザーに短剣や日本刀を突き刺す!)をセールスポイントに世界を又にかけた大規模なコンサート・ツアーを敢行し、驚異的なレコードセールスを上げたプログレバンド最高の「ロックスター」となった。彼らは日本でも特に女性のロックファンに人気があり、少女漫画に登場するキャラクターのモデル(青池保子作品の『イブの息子たち』)になったりもしたほどで、僕と同年代のある女性音楽ライターはその漫画作品をきっかけにEL&P、そしてロックに興味を持ったという。先に紹介されたイエスもこの頃、米国でも成功を納め一躍、スーパーグループの仲間入りを果たす。途中から加入したクラシックの素養もあるキーボードのリック・ウエイクマン、サイケデリックロック・バンド、トゥモロウに在籍していたギタリストのスティーブ・ハウの才能がこのバンドで開花し、後にキング・クリムゾンに加入するジャズ・ドラマーのビル・ブラッフォード在籍時にレコーディングされた『こわれもの』(1971年)『危機』(1972年)と立て続けに傑作アルバムをリリースした。この時期コマーシャルなポップ・ミュージック・シーンではデヴィッド・ボウイやT-REXといったグラム・ロックも全盛期を迎えるが、彼らは名物音楽番組「トップ・オブ・ザポップス」等TVメディアに頻繁に出演して人気を博したのに対してプログレ・バンドの多くは音楽専門誌等、紙媒体のみの露出でスーパーグループにのし上がっていった。イエスを初めとして当時のプログレ・バンドを特徴付けるものとしては凝りに凝ったアルバム・カバーが挙げられる。ジェネシスの『トレスパス』、『ナーズリー・ライム』等のカバーを手掛けたイラストレーターのポール・ホワイトヘッド、ブラック・サバスのアルバム・カバーも手掛けたマーカス・キーフ(ヴァーティゴ・レーベルのアフィニティーのカバー等で知られる)、ピンク・フロイドの一連の作品に見られる哲学的なコンセプチュアル・アートで有名なデザイン・チームのヒプノシス等、この時代に活躍したプログレ・バンドのアルバム・カバーを制作したアーティストはイラストや写真をコラージュして担当アーティストの作品世界を見事に視覚的に再現してみせた。

AFFINITY
※何とも言えぬ味わいのあマーカス・キーフによるアルバムカバーで有名な英国ジャズロックバンドのアフィニティー

中でもイエスのアルバム・カバーで名をなしたロジャー・ディーンの幻想的な作品の数々はイエスの音像をイラストで具現化しただけでなく、リスナーにはアルバムカバーを眺めながら音楽に耳を傾けるという新たた楽しみを提供した。そうした行為によって彼らの作品はリスナーにとって一層深みを増した。イエスの各作品に於いてそのサウンドとロジャーのイラストは正に一対のアート「作品」だったと言っていい。

YES Discography at Discogs
※ロジャー・ディーンによる美麗なアルバムカバーもアップされているイエスのディテコグラフィー

さて、クラシックの要素をロックに置換して独自の「シンフォニック・ロック」を確立したイエスに対し、主にジャズの演奏形式をあらゆるアプローチでロックに導入していったのがキング・クリムゾンである。バンドのリーダーであるロバート・フリップは非常に厳格な「音楽家」でライヴ中も派手なパフォーマンスは極力控え、終始座ったままであたかも求道僧のような佇まいで一心不乱にギターを弾きまくっていた。この頃プログレを含めてロック・バンドが大きな人気を集め、米国を初め世界各地で大規模なツアーを行うようになると今で言うバンドの追っかけ=グルーピーも現れ、一部のバンド(レッド・ツェッペリンのご乱行はつとに有名)はコンサート後には決まって彼女達と乱痴気騒ぎに興じるようになる。キング・クリムゾンはそんな風潮を皮肉ったて『レディースオブ・ザ・ロード』(アルバム『アイランド』収録)というナンバーを発表したりした。この映像中でも度々登場するピート・シンフィールドは初期のキング・クリムゾンの作詞を担当していたのだが彼は決して楽器を扱う訳ではないが、ライヴに於けるライティング等、視覚的効果に関して客観的な立場からアドバイスしたりしてバンドのコンセプト・メーカーとして重要な役割を担っていた。またジェネシスのフロントマンであるピーター・ガブリエルはアーサー・ブラウンのシアトリカルなパフォーマンスをさらに発展させ、特異なコスチュームを身に着けた演劇仕立ての完成度の高いショウが評判を呼んだ。奇才イアン・アンダーソン率いるジェスロ・タルはフォークやジャスの要素を取り込んだ比較的ポップなアプローチの楽曲を巧みに配列したコンセプト・アルバムを制作し、全米アルバムチャートの1位も獲得した。彼らのアルバム・カバーも凝った作りで新聞紙をモチーフにした『ジェラルドの汚れなき世界』(1972年)等はレコードを包装したパッケージ自体が一つのアート作品でもあった。そしてプログレというよりロック史の一つの分岐点となった重要な作品が1973年に英国のとあるインディペンデント・レーベルからリリースされる。それが当時のレコーディング技術を駆使した気の遠くなるような多重録音作業の末、マイク・オールドフィールドがほぼ一人で完成させた『チュブラー・ベルス』である。この作品は今や宇宙旅行事業(!?)にも進出したベンチャー起業家の草分け、リチャード・ブランソン率いるヴァージン・レコードの最初のリリース作品でもあったが、音楽ビジネスでの成功を夢想して野心満々だったリチャードの積極的な売り込みが功を奏し、米国ワーナーブラザース制作のホラー大作映画の『エク
ソシスト』のサウンドトラックに使用され大ヒットする。作品内容はマイクがギター、ベース、ピアノ、ティンパニ等多数の楽器を操り、寄せては返す波のせせらぎを思わせる単調なリズムの繰り返しのミニマルミュージック的なインストゥルメンタル作品だが、1小節ごとに微妙に変調していき、あたかも英国の田園風景を想起させる世にも美しいサウンドスケープが展開される。因みにマイクもカンタベリー・ロックの系譜を汲むミュージシャンの一人である。
63分過ぎからの第三章は"BRAIN SALAD SARGERY"とタイトルされ、1974年頃には商業的にも成功を収めて頂点を極めたプログレがやがて低迷し、現在に至る迄を検証している。まずEL&Pのカール・パーマーが登場し、当時ロックドラマー憧れの的だった装飾・機能共に特別仕様のドラムセットを紹介する。後方に吊された巨大な銅鑼、タムを叩くとそれに連動してシーケンス制御で電子音を鳴らす等、大手シンバルメーカーのパイステと共同開発したカールのセットは非常に画期的だった。イエスは1973年にリリースしたアルバム『海洋学の物語』で一つの頂点を極める。この作品はアナログレコード2枚組の全4曲80分余りの大作としてリリースされ、息付く間もない展開をする複雑な楽曲構成で究極のキメ~ブレイクの連続でリスナーもある種の忍耐を強いられる程の濃い内容だが、こうした作風にさすがに疲れ果てたのかキーボードのリック・ウエイクマンはこの作品を最後にバンドを脱退し、以後ソロアーティストに転じる。ドラマーにビルブラッフォードを迎えて最強のラインナップとなったキング・クリムゾンは1973年に『太陽と戦慄』『暗黒の世界』、1974年に『レッド』という3作品をリリースした後、一旦解散する。EL&Pはスタジオ・アルバム『恐怖の頭脳改革』(1973年)をリリースして大規模な世界ツアーを敢行した後、長い沈黙に入る。ジェネシスは看板だったフロントマンのピーター・ガブリエルが脱退してソロ・アーティストに転身するが残されたメンバーのうちドラマーだったフィル・コリンズがシンガーに転向して徐々にポップなサウンドアプローチに移行し、これが幸いして商業的にもそれまで以上の成功を手にする。この時代に活躍したプログレ・バンドが試みた音楽的実験や冒険の成果は後に英国の国民的バンドとなったクイーンの初期の作品に於いても実践されている。そしてまさに我が世の春を謳歌していたプログレ・バンドにとって大きな転機となる出来事が起こった。セックス・ピストルズに代表されるパンクロックの出現である。彼らは基本的にシンプルな3コードの楽曲をラフにラウドに演奏し、主にクラブやパブでショウを行っていたが、既にビッグネームとなっていたプログレ・バンドをエスタブリッシュメントの象徴的存在として敵視し、メディアを通じて彼らのセールスポイントとなっていたテクニック至上主義や大掛かりなステージセット、高額なコンサートチケット等を厳しく非難した。クリエイティブ面でもセールス面でもスローダウンしつつあったプログレ・バンドにとってこの流れは痛恨の一撃となりリック・ウエイクマンは当時を回想して「パンクがプログレを殺した」とはっきり証言している。さらに英国を襲った不況の真っ只中、1979年に誕生したサッチャー政権が始まったこの時代はレコードも売上が激減したがプログレ・バンドの表現手段の真骨頂であるアルバムが深刻なセールス不振で、代わりに初期のパンクロックの表現フォーマットの定番だったシングル盤がよく売れた。付け加えてリックが興味深い洞察として語っているのだがそれは彼が子供の頃、両親が夢中だったパール・カー&テディー・ジョンソン(英国の夫婦エンターテイナー)のお上品なパフォーマンスを退屈に感じ、1960年代中期に登場したザ・フーのエキサイティングな演奏プレイに喝采を送ったのと同じような事が自分の身に起こった-つまりプログレを退屈に感じていた次代の若者が始めたパンクによって今度は自分達プログレ・バンドが淘汰されたのだと。1980年代になるとポップミュージックのメインストリーム・シーンはMTVを主なプロモーションツールとして視覚にダイレクトに訴えるもの(ニューロマンティックスやLAメタル等)が幅を利かせるようになり、旧来型のプログレにもはや居場所はなかった。しかしキング・クリムゾンは1981年に再結成して『レッド』以来7年振りに新作を発表し、パンクを通過したニューウェイブのエッセンスを取り入れた新鮮なサウンドアプローチで一定の評価を得る。イエスは一時期低迷するが『ラジオスターの悲劇』のヒット曲もあるバグルスのトレバー・ホーンをプロデューサーに迎えて同時代的なサウンドプロダクションに一新したアルバム『ロンリー・ハート-90125』(1983年)でポップミュージック・シーンの第一線に復帰する。
今改めてこの番組を見て英国発祥のプログレ・バンドの興亡を考証してみると20世紀のポップミュージックはレコード(CD)というパッケージメディアに下支えされていたものだったと再認識した。そしてTV・ラジオという電波媒体、新聞・、雑誌等紙媒体による情報宣伝によって実像を肥大化させたある種の幻想を売るイメージ産業だったとも。とりわけプログレはファンタジックな音像が特徴的で知的なイメージを持つアーティストやバンドが多く、幻想も膨らませ易くプログレ全盛期には沢山の夢見がちなロック好き少年少女の心を捉えた。個人的には中学2年生の頃にNHKが不定期に放送していた『ヤング・ミュージック・ショー』で見たEL&Pのキース・エマーソンの過激なパフォーマンスに衝撃を受けたのが鮮明に記憶に残っている。彼らのアルバムはその後数枚入手したが、数年を経てパンクロック・ムーブメントが勃興するとやはり「そちら側」にシンパシーを感じ、以降「プログレはダサいモノ」と斬って捨ててしまったが、今思えばこうした感覚も知らず知らずのうちにその時々のトレンドを追うメディア(ある時期を境に当時の音楽雑誌の論調はパンク礼賛一色に転じた)に植え付けられていたのだった。プログレはその後プログレッシブメタルやポンプロック等とその呼称や音楽的形態を変えつつ、一部のバンドやアーティストによってその実験的精神やテクニック面でのあれこれは確実に継承されている。また往年のビッグネーム・バンドの再結成コンサートでは大規模な観客を動員したり、米国を初め世界各地で新世代のバンドが出演するプログレフェスが開催されている模様で、プログレに限らずいつの時代も再生力のある音楽の底知れぬパワーを思い知らされる。
最後にプログレ黄金期を象徴する人物の一人であるロバート・フリップに関するエピソードを。彼はその生真面目さ故にロック史上希なる「奇人変人」に数えられているのだが、その憎めないキャラクターを物語る「いかにも」な話を一つ紹介したい。時は1983年、ロバートが再結成したキング・クリムゾンを率いて精力的に活動していた頃の事、移動中の飛行機の機中でパンクバンド、ザ・ダムドのメンバーであるキャプテン・センシブルとたまたま座席が隣り合わせとなった。この時、キャプテンはかなり泥酔しており搭乗中ずっとロバートに対して毒付き悪口雑言を雨霰と浴びせ続けた。それに対してロバートは終始無言だったが最後にキャプテンが「お前がそんなに凄いギタリストだと言うのなら今度俺のバンドのレコーディングがあるから〇月〇日の〇時に〇〇スタジオに来て俺の前でそれを証明してみろ!」と捨て台詞を残した。その後、当該日時にレコーディング・スタジオをキャプテンが訪れるとギターケースを抱えたロバートがスタジオ前に一人で立ち尽くしていたという(笑)。この時レコーディングされた"Fun Fatory"はロバート・フリップが参加したザ・ダムドの唯一の音源となった。

The Damned - Fun Factory
※ロバート・フリップのギターがフィーチャーされたザ・ダムドの"Fun Factory"