前回、あらぬ方向に話が逸脱してしまったが、本筋に戻って「ふな」のライヴブッキングに纏わるアレコレの続きを‥。
WIKIPEDIAに記載されているデータによるとバンドの表記が「ふな」ではなくFUNA(フナ)となっているので今後は「ふな」でなくFUNAの表記で統一する事にする。僕の印象では町田氏以外でこのバンドのキーパーソンはベーシストだったステージネーム「爆発五郎」こと田村洋氏だったと思う。田村氏とはFUNAのライヴ前後は殆ど会話を交わさなかったのだがその後、僕の住んでいた板橋区成増の「ナメクジ長屋」こと「羽田荘」に田村氏は町田氏と共に逗留する事になり、その時期に町田氏との出会いや田村氏の出自等、色々と興味深い話を聞いた。当時、田村氏は自身の年齢については最後まで実年齢を明かさなかった(笑)が、察するに恐らく1950~55年生まれの筈で少なくとも僕より5歳は年長だった。田村氏は静岡県富士市出身で、僕が同じ静岡県の浜松市出身という事もあってか、深く交流するようになると何かと気安い感じで接してくれた。田村氏は大変な博識でありながらユーモアもあり、抜群のギャグセンスを持っていた。当時ロックギタリストの第一人者だった高中正義を揶揄して「マカナカマサヨシ」なる架空のキャラクターを演じた宅録テープを制作したりしていた。町田氏と田村氏との出会いはINU活動時に田村氏がやっていた「手鎖」というビートバンドと共演(確か渋谷・屋根裏)したのがきっかけだったらしい。町田氏が映画『爆裂都市』の撮影を終えた1982年初頭、田村氏は町田氏と共に大阪に移住し、FUNAを結成する事になった。当時町田氏、田村氏双方から聞いた話から推察すると大阪で共同生活を送りながら二人の間で政治や社会、文化全般について語り合い、それら諸々の認識なり見解をどのように音楽表現として昇華させるかを日夜模索していたらしい。数ヶ月の間だったと思うが二人で日雇いの土木作業員等をして食いつなぎ、この時に所謂社会の底辺、底の底というものを垣間見たという。ただこの頃の事を語る時の二人は決して暗くはなく、むしろそれらの体験を無邪気に笑い飛ばす感じだった。例えば仕事帰りに立ち寄る行きつけの居酒屋で、顔なじみになった店主のおっちゃんにコロ(鯨の皮)というおでんの具を注文する際、二人で「コロ有り(在庫があるか)?」と聞くとおっちゃんも笑いながら「コロ無し!」と返したとか、底辺(というと語弊があるが)に生きる人々のバイタリティー溢れる日常を嬉々として語っていた。そうした体験を踏まえてFUNAの楽曲なり歌詞が醸成されていったのだと思う。町田氏、田村氏以外のFUNAのラインナップは黄金三郎(G.)、ビッケ(G.)、東浦真一(D.)で、ビッケは元AUNT SALLY、東浦氏はINUから引き続き参加している。記録を調べてみるとFUNAの初ライヴは3月29日に京都・で対バンは元SSの篠田氏率いるザ・コンチネンタル・キッズ。その後は5月1日に大阪のスタジオあひるで対バンは吉野大作&プロスティテュート、6月21日に神戸チキンジョージ(対バンは神戸のプログレバンド、DADAの小西健二氏のソロパフォーマンス)、7月18日に京大西部講堂で行われたイベント「R&Rスターズ」への出演(他にはザ・コンチネンタル・キッズ、ZIG ZAG)、8月13日に大阪・天王寺野外音楽堂でのイベント「OUT OF THE WAY」へ出演(他に佐藤薫&勝野隆、プルトニウム、FROST、ヘデイク、Re-、チャンス・オペレーション、NON BAND、P-MODEL、ヒコ&キース)、9月26日に京都dee-Bees(対バンはLes Enfants Terribles)と、ほぼ月一で計6回のライヴを敢行。当時は東京でのライヴ以前のFUNAの足取りなど気にもかけていなかったが、今改めて検証してみると初ライヴはザ・コンチネンタル・キッズが対バンだったというのが興味深い。また僕が携わる以前にはFUNAの連絡先にはダスター池沢氏という、恐らく京大西部講堂の自治管理関係者だった(と思う)方の電話番号が雑誌その他に記されていた。その池沢氏がFUNAのイベント、ライヴのブッキングを担当していたのだが、その関係で京大西部講堂関係のイベント出演が多かったのか。ダスター池沢氏とは一面識もないが、1980年代には左翼系雑誌に自身の論説文等を度々寄稿したりしていたらしい。京都・大阪のイベント関係者には左翼的な学生運動出身者が多く、現在は大手イベンターであるスマッシュウエストの重鎮である南部裕一氏は『姦報』(言わずもがな政府広報である「官報」を捩ったもの)という名の反日闘争を扇動する左翼系の小冊子を刊行していた(当時、僕は密かに購読していた)。
また余談になるが、当時のパンク~ニューウェイブ系音楽ファンにありがちなパターンのご多分に漏れず、僕もその頃はちょっと左翼思想に被れたノンポリ学生だった。が、大学3年の夏休みに当時公開された映画『東京裁判』を見て衝撃を受け、その年の夏休みに日本の終戦前後の関係書籍を読み漁る内に昭和天皇の身の処し方や米国GHQ(占領軍総司令部)を相手取った大胆な政治的立ち回りを知るに付け、それまでこれといった根拠もなく左翼シンパだった僕に大きな思想的転換が訪れた。当時は昭和天皇の戦争責任を問う議論が囂しかったのだが、こうした読書体験を経て簡単に「責任」など論じるのはナンセンスだと考えるようになった。誤解を恐れずに言えば昭和天皇こそ日本に於いては20世紀最高の政治家だったと思う。終戦からサンフランシスコ講話条約締結で日本が独立を果たすまでの昭和天皇の高度な政治的判断に基づいた行為・行動無くして現在の日本は存在し得ないと個人的には考えている。この頃、パンクバンドのアナーキーが昭和天皇を揶揄した『東京イズバーニング』(デビューアルバム『アナーキー』所収)という曲が一部で話題になり、「前略~なぁにが日本の××だ/何にもしねぇでふざけんな~後略」(××の部分は当時レコードではピー音で消されていた)という扇情的な歌詞がそうした左翼シンパの音楽メディアの喝采を浴びた。まあ今更取り立てて感想はないが‥。そこで町田氏がINU時代に書いた『ライトサイダーB~スカッと地獄』(『メシ食うな!』所収)という曲があり、アナーキーと同じテーマを扱ったものだが、この歌詞は一筋縄ではいかない。「前略~お前はライトサイダー/瓶詰めの解決/映画の中の/愛しの君/コカコーラを叩き割った/一口飲めば/スカッと地獄~後略」というくだりであるライヴの時に「愛しの君」のパートを「天皇陛下」と歌い替えた時があった。想像を逞しくするとライトサイダー=右側、コカコーラ=米国の象徴‥とこの曲の歌詞には様々なメタファーが織り込まれていると見る事もできる。当時、この歌詞の真意について町田氏に直接聞いた事があったのだが、何となくはぐらかされ煙に巻かれてしまった(笑)。「創作上のトップシークレット」という事だと言って。ただ、町田氏の場合、天皇制と昭和天皇個人への思いに関してははっきり峻別して考えていたような気がする。所謂「天皇制」については反対の立場をとっていたと思うが、この歌詞から推察されるように昭和天皇個人については愛憎相半ばする、ある種複雑な感情を抱いていたのではないだろうか?
FUNAのライヴに話を戻すと、8月に町田氏と再会してから町田氏本人とは東京滞在中に2、3度顔を合わせただけで後は黄金三郎ことギタリストの森氏と電話でやり取りして細かな打ち合わせをして本番当日を迎えた。東京ライヴの初日である10月12日の原宿クロコダイルでのライヴはドラムセットとアンプ類を先出の爆発五郎こと田村氏のかつてのバンドメイト(「手鎖」というビートバンド)である林さんという方が調達してくれるというので、林さんと待ち合わせをして会場に向かった。この林さんというのが都合の良いことに当時僕が住んでいた板橋区成増近辺在住だったのだが、林さんは自営で建築工務店をやっていたので仕事の都合上、機材の搬送等をヘルプ出来る時間が限られているので迅速に事を運ばねばならなかった。初台にある楽器レンタル業者(レオミュージック)に行って必要な機材をレンタルして原宿クロコダイルに向かったのだが、大変な道路渋滞で現場に到着する前に林さんがヘルプ可能な時間がタイムリミットを迎えてしまった。場所はよく覚えていないのだが、初台~渋谷間の山手通りから明治通り沿いの何処か道路脇に機材一式を降ろして林さんは「悪いな。」と言って立ち去ってしまった。こういう事態は予測していたので(事前に林さんから電話でその旨伝えられていた)、次善の策として自宅に待機してもらっていた知人に連絡を取り、速攻で現場に来てもらって彼の愛車に機材を積み、再び会場に向かって何とか入り時間前に到着した。暫くして町田氏を除くメンバーが会場入りし、セッティングを済ませてサウンドチェックが始まった。共演バンドのアレルギーもマネージャーの相原さんを伴ってやって来た。やがて町田氏が来場してFUNA→アレルギーの順でリハーサルを滞りなく終えると町田氏やFUNAのメンバーが滞在していた、山崎春美氏の自宅マンションに向かった。山崎氏のマンションは原宿クロコダイルとは目と鼻の先にある、渋谷駅近くの宮益坂にあり、FUNAのメンバーは本番までここでリラックスして時間を過ごした。実は山崎氏はこの約一ヶ月前の9月1日に中野にあったPlan-Bというフリースペースで「自殺未遂ギグ」というパフォーマンスを敢行し、瀕死の重傷を負っているという噂を聞いていたので心配していた。山崎氏のマンションに向かう途中、町田氏にその事を聞くと「全然心配いらんで。春美、元気よ。」というのだが、実際に会ってみると本当にケロッとした感じで「ああ、あんた今日はマネージャーさんやんの?客入りそう?」と笑って出迎えてくれた。当時の月刊『宝島』誌でもこの過激なパフォーマンスの模様はリポートされていたが、山崎氏は自らの身体を包丁で何カ所か切り付けた挙げ句、病院に搬送されたとの事。その時に山崎氏が着用していた血染めのTシャツが『宝島』誌の読者プレゼントコーナーに応募者の中から限定一名様(当たり前だ)に贈呈という事で提供された(笑)。
さて、ライヴ本番はアレルギー、FUNA共に素晴らしい出来だったが客入りの方も約250人とキャパシティー目一杯の満員で、遅く会場に来た当日客も何十人か帰ってもらう程の盛況だった。原宿クロコダイルのブッキングマネージャー、西さんも「良く入りましたね。」と笑顔でチャージの精算に応じてくれた。またアレルギーのマネージャー、相原さんには本当に悪かったのだが、町田氏他のメンバーに少しでも多くギャランティーバックしなければならなかったのでアレルギーの取り分は相場の最低限のラインに抑えた。そうした事情を話すと相原さんも「こんなに多くのお客さんの前で演れたから十分ですよ。」と不平も言わずに納得してくれた。客出しが終わり深夜のパブタイムになった段階で町田氏、田村氏と祝杯を上げたが、両人共に想定外に好調だった客入りには驚いていた。この時にアレルギーのライヴについて町田氏が一際目立っていたベーシストU-CO嬢について「獅子舞みたいな女やな。」と語っていたのが印象に残っている。僕が彼女がこの一年前、札幌から家出してきたその日に新宿ロフトのイベントで出会った事を告げると「一年でここまで来たんか‥。根性ある奴なんやな。」と感心していたのが印象的だった。続いて翌日、新宿ロフトで行われたFUNAのワンマンライヴも250人動員の満員だった。一つのバンドで2日間で500人近く動員したのはこの時期携わったライヴではFUNA以外に記憶がなく、個人的にもとてもエキサイティングな体験だった。また原宿クロコダイルでのライヴにはINUのレコード・プロデューサーだった音楽評論家(自称「ロック・クリティック」)の鳥井賀句氏も会場を訪れ、当日撮影された町田氏のライヴ写真は鳥井氏が編集に携わり、この年12月に発売された月刊『宝島』の増刊『ロッカーズ1983』(当時活躍していた日本のロックバンド・カタログ)の表紙を飾った。肝心のライヴの模様だが、後々よく言われるようにキャプテン・ビーフハート(米国のアヴァンギャルド・ロック・アーティスト)を彷彿とさせるもので、INUのようなストレートなパンクロックを期待して来た客は完全に肩透かしを食った様子だった。が、そうした客もサウンドの色合いはどうあろうと全編、町田氏の鬼気迫るボーカリゼーション(「歌」というより「呪詛」に近いものだ)に圧倒されたようだった。この後に東京に転居した町田氏はメンバーを一新して(田村氏だけはギタリストとして参加する)「人民オリンピックショウ」を結成するのだが、その後数年の間町田氏のバンド表現のフォーマットの原型ははこの時のライヴにあると思われる。今でも悔やまれるのはこの時、このメンバーでスタジオに入って一発録りでも良いから全曲、スタジオテイクをレコーディングしておけば‥という事だ。細かい事を言えばドラムの東浦氏が町田氏の音楽コンセプトを今一把握し切れていなかった等、問題点もあったがこの時、このメンバーでスタジオ音源を録音しておけば、今でも十分評価に値するものになったと思う。この頃はインディーズレーベルというのも一般的なものではなく、制作や流通等実務ノウハウも一部のレーベル運営者達しか知られておらず、いざレコーディングするにしても昨今のようにそのスタジオ使用料も安価ではなかった。ましてや一介の学生に過ぎなかった当時の僕には彼らのスタジオ音源を残す事などとても思い付かなかったのだが、今にして思えば‥である。この教訓から経済的に余裕を持った現在、「今、このアーティストの音源を残したい!」と感じたらその対象に直ぐにアプローチしよう、と思い至った次第である。実は最近、この時のライヴ音源をあるオークションで入手した。僕も本番時にカセットデッキでライヴ音源を録音したものを持っていたのだが、20年以上も前に紛失してしまった。入手したものは誰かが隠し録りしたものか?とにかくその音源にクレジットされている当日のセットリストを参考までに以下に記しておく。
1982.10.12 原宿クロコダイル
1982.10.13 新宿ロフト
町田町蔵(Vo)、黄金三郎(G)、ビッケ(G)、東浦真一(Dr)、爆発五郎(B)
1.悲劇のなかで
2.俺にもツバをかけろ
3.金魚はみな発狂している
4.憎しみのダイハツゼット
5.(曲名不明)
6.(曲名不明)
7.竹やぶさんのロックンロール
8.豆食うて笑う
9.さまのげ
10.清い川
11.レタスと仏像
この中ではやはり『レタスと仏像』が曲の完成度、リリックの独創性共に白眉の出来だった。歌詞は以下‥。
「くだらないレコードを叩き売って/一番安いウイスキーを買い/俺は資本主義の静脈瘤だ/おい、今から俺と一緒に飲もう/さよなら皆さん/今日、皆あまりに元気ですね/小綺麗な場所にレタスと仏像を奉り/糞を垂れて死ぬる為に/お前ら馬鹿者共の為に/お前らは何処にも行けないだろう/この暗闇で爆発するだろう/絶望のうちにあって死ぬるだろう/恐怖と憎悪にまみれて死ぬるだろう/汚辱にまみれて性交し続けるだろう/毎日双子を五回産むだろう/何処にも行けないだろう/一万六千年を震えて過ごすだろう/忍辱して過ごすだろう/絶望のうちにあって死ぬるだろう/僕はあなたともう一度だけ一緒に歩きたかった/明日の夕刊の三面記事で会おう」
大阪での田村氏との共同生活で垣間見た社会の「底の底」の描写であろうか。
参考リンク
【編集】町田町蔵LIVE MC
※町田氏がINU時代に残したライヴMCを編集したもの。当時アンダーグラウンドシーンの重鎮だったリザードに対する対抗心が垣間見える(笑)。
アナーキー:東京イズバーニング
※アナーキーの1stアルバムに収録の『東京イズバーニング』。英国のパンクバンド、The Clashの"London's Burning"の楽曲に日本語詞を付けたもの。直截な天皇批判が当時、話題を呼んだ。
INU:ライト・サイダーB(スカッと地獄)
※INUのデビューアルバム『メシ喰うな!』収録曲。ライトサイダー(右側=右翼)、コカコーラ(米国文化の象徴)、愛しの君(帝)等、町田氏一流のメタファーが散りばめられた歌詞。リスナーの想像力を掻き立てる。
東京裁判 アメリカ人弁護人による弁護【Tokyo Trial】
※映画『東京裁判』でのワンシーン。米国人弁護士、ファーナス他が東京裁判で「戦勝国による敗戦国の裁判は決して公正ではない。」等の主張は目から鱗の思いがした。高校までに履修した社会科教科書ではこれらの事実には全く触れられていない。
東京裁判 パール判事【Tokyo Trial】
※映画『東京裁判』から。ラダビノード・パール判事が先の対戦を日本の「侵略戦争ではない」と断じた。
昭和天皇とマッカーサーの会見を通訳官が証言 The testimony of the interpreter
※敗戦直後に行われた昭和天皇と連合国総司令官、マッカーサー元帥との会見の模様の後日談。
【昭和天皇】 マッカーサーとの会見 1
※同上。
【昭和天皇】 マッカーサーとの会見 2
※同上。
<町田町蔵:キャベツ(レタスと仏像)
※町田氏の人民オリンピックショウ時代のライヴ。歌詞は若干異なるが楽曲自体はFUNAのレパートリー、『レタスと仏像』。
町田町蔵:商店街へゴー
※同じく人民オリンピックショウのライヴ。歌詞はFUNA解散直後の1983年に書かれた。
Captain Beefheart:Ice Cream for Crow (HIgh Resolution)
※FUNAから人民オリンピックショウ時代まで、町田氏に多くの音楽的インスピレーションを付与した米国の前衛ロック・アーティスト、キャプテン・ビーフハート。
Howlin' Wolf:Killing Floor (Washington 1970)
※キャプテン・ビーフハートもその表現フォーマットのベースにはシカゴ・モダン・ブルースの第一人者であるハウリン・ウルフの唱法があった。
至福団 LIVE(北田昌宏 町田町蔵 山崎春美)
※宝島社から発売されたカセットブック『どてらい奴ら』を制作した3者によるユニット「至福団」のライヴ。
赤い旅団:イターリン / Red Brigade:Italin (1981)
※山崎春美氏がプロデュースした不定型ユニット、タコの1stアルバム収録曲。ザ・スターリンの遠藤道郎氏をボーカルに迎え「赤い旅団」名義で制作された。
タコ:きらら
※同じくタコの1stから、町田氏がボーカルを取る業が深すぎの名曲。作詞は山崎氏。
タコ:仏の顔は今日も三度までだった / Buddha saw amphetamine, cocaine and LSD (1983)
※タコの1st収録曲。山崎氏がプロデュースした栗沢いずみなる「変態よい子」美少女がボーカルを取る。
タコ:宇宙人の春
※タコの1st収録曲のうち、この曲だけは山崎氏が上京直後に結成したハードロックバンド「ガセネタ」の曲。
タコ:な・い・し・ょのエンペラーマジック (Audio Only)
※当時飛ぶ鳥を落とす勢いだったYMOの坂本龍一氏をフィーチャーした迷曲。忌野清志郎氏とのデュエットでヒットした『い・け・な・いルージュマジック』のパロディーを坂本氏自身がやるハメに。後年、山崎氏にタコのコンセプトは何?と聞いたところ、ただ一言「目茶苦茶」との事(笑)。が、タコの1stアルバムに敢えて何かしらコンセプトを見出だすとすれば「天皇制」への倒錯したスケルツォ(諧謔曲)である。
WIKIPEDIAに記載されているデータによるとバンドの表記が「ふな」ではなくFUNA(フナ)となっているので今後は「ふな」でなくFUNAの表記で統一する事にする。僕の印象では町田氏以外でこのバンドのキーパーソンはベーシストだったステージネーム「爆発五郎」こと田村洋氏だったと思う。田村氏とはFUNAのライヴ前後は殆ど会話を交わさなかったのだがその後、僕の住んでいた板橋区成増の「ナメクジ長屋」こと「羽田荘」に田村氏は町田氏と共に逗留する事になり、その時期に町田氏との出会いや田村氏の出自等、色々と興味深い話を聞いた。当時、田村氏は自身の年齢については最後まで実年齢を明かさなかった(笑)が、察するに恐らく1950~55年生まれの筈で少なくとも僕より5歳は年長だった。田村氏は静岡県富士市出身で、僕が同じ静岡県の浜松市出身という事もあってか、深く交流するようになると何かと気安い感じで接してくれた。田村氏は大変な博識でありながらユーモアもあり、抜群のギャグセンスを持っていた。当時ロックギタリストの第一人者だった高中正義を揶揄して「マカナカマサヨシ」なる架空のキャラクターを演じた宅録テープを制作したりしていた。町田氏と田村氏との出会いはINU活動時に田村氏がやっていた「手鎖」というビートバンドと共演(確か渋谷・屋根裏)したのがきっかけだったらしい。町田氏が映画『爆裂都市』の撮影を終えた1982年初頭、田村氏は町田氏と共に大阪に移住し、FUNAを結成する事になった。当時町田氏、田村氏双方から聞いた話から推察すると大阪で共同生活を送りながら二人の間で政治や社会、文化全般について語り合い、それら諸々の認識なり見解をどのように音楽表現として昇華させるかを日夜模索していたらしい。数ヶ月の間だったと思うが二人で日雇いの土木作業員等をして食いつなぎ、この時に所謂社会の底辺、底の底というものを垣間見たという。ただこの頃の事を語る時の二人は決して暗くはなく、むしろそれらの体験を無邪気に笑い飛ばす感じだった。例えば仕事帰りに立ち寄る行きつけの居酒屋で、顔なじみになった店主のおっちゃんにコロ(鯨の皮)というおでんの具を注文する際、二人で「コロ有り(在庫があるか)?」と聞くとおっちゃんも笑いながら「コロ無し!」と返したとか、底辺(というと語弊があるが)に生きる人々のバイタリティー溢れる日常を嬉々として語っていた。そうした体験を踏まえてFUNAの楽曲なり歌詞が醸成されていったのだと思う。町田氏、田村氏以外のFUNAのラインナップは黄金三郎(G.)、ビッケ(G.)、東浦真一(D.)で、ビッケは元AUNT SALLY、東浦氏はINUから引き続き参加している。記録を調べてみるとFUNAの初ライヴは3月29日に京都・で対バンは元SSの篠田氏率いるザ・コンチネンタル・キッズ。その後は5月1日に大阪のスタジオあひるで対バンは吉野大作&プロスティテュート、6月21日に神戸チキンジョージ(対バンは神戸のプログレバンド、DADAの小西健二氏のソロパフォーマンス)、7月18日に京大西部講堂で行われたイベント「R&Rスターズ」への出演(他にはザ・コンチネンタル・キッズ、ZIG ZAG)、8月13日に大阪・天王寺野外音楽堂でのイベント「OUT OF THE WAY」へ出演(他に佐藤薫&勝野隆、プルトニウム、FROST、ヘデイク、Re-、チャンス・オペレーション、NON BAND、P-MODEL、ヒコ&キース)、9月26日に京都dee-Bees(対バンはLes Enfants Terribles)と、ほぼ月一で計6回のライヴを敢行。当時は東京でのライヴ以前のFUNAの足取りなど気にもかけていなかったが、今改めて検証してみると初ライヴはザ・コンチネンタル・キッズが対バンだったというのが興味深い。また僕が携わる以前にはFUNAの連絡先にはダスター池沢氏という、恐らく京大西部講堂の自治管理関係者だった(と思う)方の電話番号が雑誌その他に記されていた。その池沢氏がFUNAのイベント、ライヴのブッキングを担当していたのだが、その関係で京大西部講堂関係のイベント出演が多かったのか。ダスター池沢氏とは一面識もないが、1980年代には左翼系雑誌に自身の論説文等を度々寄稿したりしていたらしい。京都・大阪のイベント関係者には左翼的な学生運動出身者が多く、現在は大手イベンターであるスマッシュウエストの重鎮である南部裕一氏は『姦報』(言わずもがな政府広報である「官報」を捩ったもの)という名の反日闘争を扇動する左翼系の小冊子を刊行していた(当時、僕は密かに購読していた)。
また余談になるが、当時のパンク~ニューウェイブ系音楽ファンにありがちなパターンのご多分に漏れず、僕もその頃はちょっと左翼思想に被れたノンポリ学生だった。が、大学3年の夏休みに当時公開された映画『東京裁判』を見て衝撃を受け、その年の夏休みに日本の終戦前後の関係書籍を読み漁る内に昭和天皇の身の処し方や米国GHQ(占領軍総司令部)を相手取った大胆な政治的立ち回りを知るに付け、それまでこれといった根拠もなく左翼シンパだった僕に大きな思想的転換が訪れた。当時は昭和天皇の戦争責任を問う議論が囂しかったのだが、こうした読書体験を経て簡単に「責任」など論じるのはナンセンスだと考えるようになった。誤解を恐れずに言えば昭和天皇こそ日本に於いては20世紀最高の政治家だったと思う。終戦からサンフランシスコ講話条約締結で日本が独立を果たすまでの昭和天皇の高度な政治的判断に基づいた行為・行動無くして現在の日本は存在し得ないと個人的には考えている。この頃、パンクバンドのアナーキーが昭和天皇を揶揄した『東京イズバーニング』(デビューアルバム『アナーキー』所収)という曲が一部で話題になり、「前略~なぁにが日本の××だ/何にもしねぇでふざけんな~後略」(××の部分は当時レコードではピー音で消されていた)という扇情的な歌詞がそうした左翼シンパの音楽メディアの喝采を浴びた。まあ今更取り立てて感想はないが‥。そこで町田氏がINU時代に書いた『ライトサイダーB~スカッと地獄』(『メシ食うな!』所収)という曲があり、アナーキーと同じテーマを扱ったものだが、この歌詞は一筋縄ではいかない。「前略~お前はライトサイダー/瓶詰めの解決/映画の中の/愛しの君/コカコーラを叩き割った/一口飲めば/スカッと地獄~後略」というくだりであるライヴの時に「愛しの君」のパートを「天皇陛下」と歌い替えた時があった。想像を逞しくするとライトサイダー=右側、コカコーラ=米国の象徴‥とこの曲の歌詞には様々なメタファーが織り込まれていると見る事もできる。当時、この歌詞の真意について町田氏に直接聞いた事があったのだが、何となくはぐらかされ煙に巻かれてしまった(笑)。「創作上のトップシークレット」という事だと言って。ただ、町田氏の場合、天皇制と昭和天皇個人への思いに関してははっきり峻別して考えていたような気がする。所謂「天皇制」については反対の立場をとっていたと思うが、この歌詞から推察されるように昭和天皇個人については愛憎相半ばする、ある種複雑な感情を抱いていたのではないだろうか?
FUNAのライヴに話を戻すと、8月に町田氏と再会してから町田氏本人とは東京滞在中に2、3度顔を合わせただけで後は黄金三郎ことギタリストの森氏と電話でやり取りして細かな打ち合わせをして本番当日を迎えた。東京ライヴの初日である10月12日の原宿クロコダイルでのライヴはドラムセットとアンプ類を先出の爆発五郎こと田村氏のかつてのバンドメイト(「手鎖」というビートバンド)である林さんという方が調達してくれるというので、林さんと待ち合わせをして会場に向かった。この林さんというのが都合の良いことに当時僕が住んでいた板橋区成増近辺在住だったのだが、林さんは自営で建築工務店をやっていたので仕事の都合上、機材の搬送等をヘルプ出来る時間が限られているので迅速に事を運ばねばならなかった。初台にある楽器レンタル業者(レオミュージック)に行って必要な機材をレンタルして原宿クロコダイルに向かったのだが、大変な道路渋滞で現場に到着する前に林さんがヘルプ可能な時間がタイムリミットを迎えてしまった。場所はよく覚えていないのだが、初台~渋谷間の山手通りから明治通り沿いの何処か道路脇に機材一式を降ろして林さんは「悪いな。」と言って立ち去ってしまった。こういう事態は予測していたので(事前に林さんから電話でその旨伝えられていた)、次善の策として自宅に待機してもらっていた知人に連絡を取り、速攻で現場に来てもらって彼の愛車に機材を積み、再び会場に向かって何とか入り時間前に到着した。暫くして町田氏を除くメンバーが会場入りし、セッティングを済ませてサウンドチェックが始まった。共演バンドのアレルギーもマネージャーの相原さんを伴ってやって来た。やがて町田氏が来場してFUNA→アレルギーの順でリハーサルを滞りなく終えると町田氏やFUNAのメンバーが滞在していた、山崎春美氏の自宅マンションに向かった。山崎氏のマンションは原宿クロコダイルとは目と鼻の先にある、渋谷駅近くの宮益坂にあり、FUNAのメンバーは本番までここでリラックスして時間を過ごした。実は山崎氏はこの約一ヶ月前の9月1日に中野にあったPlan-Bというフリースペースで「自殺未遂ギグ」というパフォーマンスを敢行し、瀕死の重傷を負っているという噂を聞いていたので心配していた。山崎氏のマンションに向かう途中、町田氏にその事を聞くと「全然心配いらんで。春美、元気よ。」というのだが、実際に会ってみると本当にケロッとした感じで「ああ、あんた今日はマネージャーさんやんの?客入りそう?」と笑って出迎えてくれた。当時の月刊『宝島』誌でもこの過激なパフォーマンスの模様はリポートされていたが、山崎氏は自らの身体を包丁で何カ所か切り付けた挙げ句、病院に搬送されたとの事。その時に山崎氏が着用していた血染めのTシャツが『宝島』誌の読者プレゼントコーナーに応募者の中から限定一名様(当たり前だ)に贈呈という事で提供された(笑)。
さて、ライヴ本番はアレルギー、FUNA共に素晴らしい出来だったが客入りの方も約250人とキャパシティー目一杯の満員で、遅く会場に来た当日客も何十人か帰ってもらう程の盛況だった。原宿クロコダイルのブッキングマネージャー、西さんも「良く入りましたね。」と笑顔でチャージの精算に応じてくれた。またアレルギーのマネージャー、相原さんには本当に悪かったのだが、町田氏他のメンバーに少しでも多くギャランティーバックしなければならなかったのでアレルギーの取り分は相場の最低限のラインに抑えた。そうした事情を話すと相原さんも「こんなに多くのお客さんの前で演れたから十分ですよ。」と不平も言わずに納得してくれた。客出しが終わり深夜のパブタイムになった段階で町田氏、田村氏と祝杯を上げたが、両人共に想定外に好調だった客入りには驚いていた。この時にアレルギーのライヴについて町田氏が一際目立っていたベーシストU-CO嬢について「獅子舞みたいな女やな。」と語っていたのが印象に残っている。僕が彼女がこの一年前、札幌から家出してきたその日に新宿ロフトのイベントで出会った事を告げると「一年でここまで来たんか‥。根性ある奴なんやな。」と感心していたのが印象的だった。続いて翌日、新宿ロフトで行われたFUNAのワンマンライヴも250人動員の満員だった。一つのバンドで2日間で500人近く動員したのはこの時期携わったライヴではFUNA以外に記憶がなく、個人的にもとてもエキサイティングな体験だった。また原宿クロコダイルでのライヴにはINUのレコード・プロデューサーだった音楽評論家(自称「ロック・クリティック」)の鳥井賀句氏も会場を訪れ、当日撮影された町田氏のライヴ写真は鳥井氏が編集に携わり、この年12月に発売された月刊『宝島』の増刊『ロッカーズ1983』(当時活躍していた日本のロックバンド・カタログ)の表紙を飾った。肝心のライヴの模様だが、後々よく言われるようにキャプテン・ビーフハート(米国のアヴァンギャルド・ロック・アーティスト)を彷彿とさせるもので、INUのようなストレートなパンクロックを期待して来た客は完全に肩透かしを食った様子だった。が、そうした客もサウンドの色合いはどうあろうと全編、町田氏の鬼気迫るボーカリゼーション(「歌」というより「呪詛」に近いものだ)に圧倒されたようだった。この後に東京に転居した町田氏はメンバーを一新して(田村氏だけはギタリストとして参加する)「人民オリンピックショウ」を結成するのだが、その後数年の間町田氏のバンド表現のフォーマットの原型ははこの時のライヴにあると思われる。今でも悔やまれるのはこの時、このメンバーでスタジオに入って一発録りでも良いから全曲、スタジオテイクをレコーディングしておけば‥という事だ。細かい事を言えばドラムの東浦氏が町田氏の音楽コンセプトを今一把握し切れていなかった等、問題点もあったがこの時、このメンバーでスタジオ音源を録音しておけば、今でも十分評価に値するものになったと思う。この頃はインディーズレーベルというのも一般的なものではなく、制作や流通等実務ノウハウも一部のレーベル運営者達しか知られておらず、いざレコーディングするにしても昨今のようにそのスタジオ使用料も安価ではなかった。ましてや一介の学生に過ぎなかった当時の僕には彼らのスタジオ音源を残す事などとても思い付かなかったのだが、今にして思えば‥である。この教訓から経済的に余裕を持った現在、「今、このアーティストの音源を残したい!」と感じたらその対象に直ぐにアプローチしよう、と思い至った次第である。実は最近、この時のライヴ音源をあるオークションで入手した。僕も本番時にカセットデッキでライヴ音源を録音したものを持っていたのだが、20年以上も前に紛失してしまった。入手したものは誰かが隠し録りしたものか?とにかくその音源にクレジットされている当日のセットリストを参考までに以下に記しておく。
1982.10.12 原宿クロコダイル
1982.10.13 新宿ロフト
町田町蔵(Vo)、黄金三郎(G)、ビッケ(G)、東浦真一(Dr)、爆発五郎(B)
1.悲劇のなかで
2.俺にもツバをかけろ
3.金魚はみな発狂している
4.憎しみのダイハツゼット
5.(曲名不明)
6.(曲名不明)
7.竹やぶさんのロックンロール
8.豆食うて笑う
9.さまのげ
10.清い川
11.レタスと仏像
この中ではやはり『レタスと仏像』が曲の完成度、リリックの独創性共に白眉の出来だった。歌詞は以下‥。
「くだらないレコードを叩き売って/一番安いウイスキーを買い/俺は資本主義の静脈瘤だ/おい、今から俺と一緒に飲もう/さよなら皆さん/今日、皆あまりに元気ですね/小綺麗な場所にレタスと仏像を奉り/糞を垂れて死ぬる為に/お前ら馬鹿者共の為に/お前らは何処にも行けないだろう/この暗闇で爆発するだろう/絶望のうちにあって死ぬるだろう/恐怖と憎悪にまみれて死ぬるだろう/汚辱にまみれて性交し続けるだろう/毎日双子を五回産むだろう/何処にも行けないだろう/一万六千年を震えて過ごすだろう/忍辱して過ごすだろう/絶望のうちにあって死ぬるだろう/僕はあなたともう一度だけ一緒に歩きたかった/明日の夕刊の三面記事で会おう」
大阪での田村氏との共同生活で垣間見た社会の「底の底」の描写であろうか。
参考リンク
【編集】町田町蔵LIVE MC
※町田氏がINU時代に残したライヴMCを編集したもの。当時アンダーグラウンドシーンの重鎮だったリザードに対する対抗心が垣間見える(笑)。
アナーキー:東京イズバーニング
※アナーキーの1stアルバムに収録の『東京イズバーニング』。英国のパンクバンド、The Clashの"London's Burning"の楽曲に日本語詞を付けたもの。直截な天皇批判が当時、話題を呼んだ。
INU:ライト・サイダーB(スカッと地獄)
※INUのデビューアルバム『メシ喰うな!』収録曲。ライトサイダー(右側=右翼)、コカコーラ(米国文化の象徴)、愛しの君(帝)等、町田氏一流のメタファーが散りばめられた歌詞。リスナーの想像力を掻き立てる。
東京裁判 アメリカ人弁護人による弁護【Tokyo Trial】
※映画『東京裁判』でのワンシーン。米国人弁護士、ファーナス他が東京裁判で「戦勝国による敗戦国の裁判は決して公正ではない。」等の主張は目から鱗の思いがした。高校までに履修した社会科教科書ではこれらの事実には全く触れられていない。
東京裁判 パール判事【Tokyo Trial】
※映画『東京裁判』から。ラダビノード・パール判事が先の対戦を日本の「侵略戦争ではない」と断じた。
昭和天皇とマッカーサーの会見を通訳官が証言 The testimony of the interpreter
※敗戦直後に行われた昭和天皇と連合国総司令官、マッカーサー元帥との会見の模様の後日談。
【昭和天皇】 マッカーサーとの会見 1
※同上。
【昭和天皇】 マッカーサーとの会見 2
※同上。
<町田町蔵:キャベツ(レタスと仏像)
※町田氏の人民オリンピックショウ時代のライヴ。歌詞は若干異なるが楽曲自体はFUNAのレパートリー、『レタスと仏像』。
町田町蔵:商店街へゴー
※同じく人民オリンピックショウのライヴ。歌詞はFUNA解散直後の1983年に書かれた。
Captain Beefheart:Ice Cream for Crow (HIgh Resolution)
※FUNAから人民オリンピックショウ時代まで、町田氏に多くの音楽的インスピレーションを付与した米国の前衛ロック・アーティスト、キャプテン・ビーフハート。
Howlin' Wolf:Killing Floor (Washington 1970)
※キャプテン・ビーフハートもその表現フォーマットのベースにはシカゴ・モダン・ブルースの第一人者であるハウリン・ウルフの唱法があった。
至福団 LIVE(北田昌宏 町田町蔵 山崎春美)
※宝島社から発売されたカセットブック『どてらい奴ら』を制作した3者によるユニット「至福団」のライヴ。
赤い旅団:イターリン / Red Brigade:Italin (1981)
※山崎春美氏がプロデュースした不定型ユニット、タコの1stアルバム収録曲。ザ・スターリンの遠藤道郎氏をボーカルに迎え「赤い旅団」名義で制作された。
タコ:きらら
※同じくタコの1stから、町田氏がボーカルを取る業が深すぎの名曲。作詞は山崎氏。
タコ:仏の顔は今日も三度までだった / Buddha saw amphetamine, cocaine and LSD (1983)
※タコの1st収録曲。山崎氏がプロデュースした栗沢いずみなる「変態よい子」美少女がボーカルを取る。
タコ:宇宙人の春
※タコの1st収録曲のうち、この曲だけは山崎氏が上京直後に結成したハードロックバンド「ガセネタ」の曲。
タコ:な・い・し・ょのエンペラーマジック (Audio Only)
※当時飛ぶ鳥を落とす勢いだったYMOの坂本龍一氏をフィーチャーした迷曲。忌野清志郎氏とのデュエットでヒットした『い・け・な・いルージュマジック』のパロディーを坂本氏自身がやるハメに。後年、山崎氏にタコのコンセプトは何?と聞いたところ、ただ一言「目茶苦茶」との事(笑)。が、タコの1stアルバムに敢えて何かしらコンセプトを見出だすとすれば「天皇制」への倒錯したスケルツォ(諧謔曲)である。