1981年の春、希望に胸膨らませて上京した後、JR(当時は国鉄‥)大塚駅が最寄駅だった豊島区西巣鴨界隈のアパートに居を定め、僕の東京生活はスタートした。
最初に住んだアパートは大学の学生課に紹介され、後先考えずに大学から近い場所で手頃な家賃であれば何処でもいいか‥と物件も見ずに適当に決めてしまった。実際に住んでみると大塚駅から徒歩で15分程かかり、また2階建てのアパートだったのだが、階下に大家さんの老夫婦が住んでいる、下宿屋のような風情のアパートだった。そして悪い人ではないのだが、これがまた口煩い大家さんでコンパの後に友人や女友達を泊めたりすると翌日必ず「静かにしてくれませんかねぇ」と小言を言われた。この年の夏休み迄は住み心地はともかく、まあ問題無く過ごしていたのだが、夏休みに入った7月末頃からライヴハウスで知り合った友人とライヴハウスで主にパンク・ニューウェイヴ系のバンドを集めて都内や横浜でライヴ・イベントを企画するようになり、その関連の知人が出入りするようになると、この潔癖症の大家さんとの軋轢も抜き差しならぬ様相を呈してきた。この頃、後に下関出身のロックバンド、アンジーやTHE POGOというビートパンク・バンド(今や死語?)のマネジメント他を手掛ける事になる赤坂君という、イベントブッキングをやり始めたばかりの人物と出会い、彼を取り巻く学生イベンター志望者達が僕も仲間に入れてくれて、「俺達の手で日本のロックの新しい動きを作ろう!」等と青臭い理想を掲げて活動を始めたのである(笑)。
この赤坂君を取り巻く集団はフリージャズ風のサックス奏者でもある、当時高校生だった牧野君、当時のアンダーグラウンドシーンではメンバーの破天荒なライフスタイルから「本物のストリートバンド」との評価が高かったザ・フールズの熱烈なファンで「ビールス・フリーク」という即興ロックバンドをやっていた伊沢君他、非常に個性的な面々で皆さん横浜近郊在住だった事もあり、当時ほんの少しだけ盛り上がっていた「横浜サイケデリック・ビート」なる音楽ムーブメントをフォローすべく様々なイベントを企画した。このムーブメントの中心にいたのは吉野大作&プロスティテュートという、サイケデリックかつノイジーな独自の音世界を構築していたニューウェイヴ・バンドであった。彼らはこの年の12月に、町田康氏のINUと同じ徳間ジャパン・レコードから『死ぬまで踊りつづけて』でレコード・デビューした。当時、徳間ジャパンのディレクターだった芹沢のえさんが、彼らのライヴを見て、当時先鋭的なサウンドで世界中のロックファンに衝撃を与えた英国のニューウェイヴ・バンド、「The Pop Groupのようだ」と絶賛し、直ぐにレコード契約を交わした。吉野氏はその人柄も非常に穏やかな方で、僕等若輩者にもよく気遣かってくれて、イベント本番で何か不備があっても笑って「いいから、いいから。失敗して初めて人間は進歩するものだから。」と不問に付してくれた。吉野氏はプロスティテュートというバンドを率いて活動する以前にも「後退青年」というバンドをやっていて、この時点で既に長いバンドキャリアがあったのだが、やはりこの頃英国で活況を呈しつつあったパンク・ニューウェイヴ・ムーブメントに触発されて「後退青年」時代とは違う表現アプローチを試み始めたらしい。プロスティテュートというバンド名も先のThe Pop Groupの代表曲の一つである"We Are All Prostitute"に由来するものだ。初めて彼らのライヴを体験したのは同年8月24日~29日迄、新宿ロフトで開催されたパンク・ニューウェイヴ系イベント「Flight 7Days<インディペンデント・レコードレーベル・フェスティバル>」でのオールナイト・ライヴだったが、その時には刺激的なライヴパフォーマンスをするバンドが大挙して出演したこともあり、あまり印象には残らなかった。ちなみにこのイベントで一番衝撃的だったのは、(知ってる人は知ってる)破壊パフォーマンスで有名な京都のノイズユニットの非常階段の東京お披露目ライヴで、ライヴ中にシメ鯖(笑)を始め、納豆や生ゴミをアメアラレと客席に投げつけたり、生ゴミにまみれてステージ上をのたうちまわるパフォーマンス?を繰り広げ、女性メンバーの蝉丸さんが悪ノリしてステージで放尿する等、僕達スタッフはその様子を見て終始笑い転げていた(が、その後このイベントの責任者だった清水氏(東京ロッカーズなるムーブメントの中心バンド、S-KENのマネージャーを務め、また自身、コンクリーツなるバンドリーダーとしても活躍)はロフトのオーナーだった平野氏からこってり絞られたらしい)。新宿ロフトのスタッフも開いた口が塞がらない状態で彼らのパフォーマンスを見守っていたが、ライヴの途中で店の責任者の一人であった長沢さんという方が僕達外部スタッフに向かってポツリと「今日は君等も掃除手伝うよね」と言った瞬間、我に帰った記憶がある(笑)。しかしシメ鯖の臭いは強烈だった。このライヴの本番前にポリバケツに入った大量の生ゴミを仕込んで会場入りしたメンバーが到着した時には「一体何をする気だろうか?」と訝しがったものだが、まさかこんな事態を招くとは‥。この日は他に同じく京都の、もう冗談としか言いようのない正体不明のアバンギャルド・ポップ・ユニット?「ほぶらきん」も忘れられない。そのライヴはまるで学生コンパのノリで、何故か中日ドラゴンズの野球帽を被った小学生を従えて、曲というよりネタとしか言いようのない宴会芸的パフォーマンスを次々と披露し、客も皆あっけにとられて呆然と観ているだけだった。
そういえばこの頃、非常階段のような過激なパフォーマンスを得意としていたパンクバンドのザ・スターリンもこの秋、横浜市立大学の学園祭で豚の生首を客席に投げつけるパフォーマンスを披露したのだが、この時もスタッフは皆、事前には「ホントにやるのか?」と冗談半分だと思って無邪気に笑っていたものだが、実際に実物(屠殺場から届けられた豚の生首)が楽屋に届けられると流石に顔をしかめていた。この時は当日現場では共演バンドがZELDAと中医電解カルシウムという女性バンド(※このバンドの存在はその後の僕の人生に大きな光と影を落とした 笑)だった事もあって楽屋風景からイベント本番の客席まで、何となくのどかな空気だった。僕の記憶では確かイベント会場は大学内の大教室で、学園祭だった事もあって出演バンド目当ての客は殆どおらず、まばらな客席の中でハマトラ(皆さん、知ってますか?)風の女子大生の一団が怪訝そうな面持ちでステージを見守る中、ボーカルの遠藤道郎氏が豚の首を客席に投げたのですが‥ほぼノーリアクション(笑)。共演した中医電解カルシウムのメンバーもそれを笑って観ていたが、そこには何ら緊張感も無く、本番前迄このイベントで会場をパニック状態に陥れて「暴動騒ぎを起こす!」と息巻いていた主催者の後藤君(大学の実行委員会に掛け合ってこの企画実現に尽力した横浜市立大学生)も思惑が外れ、すっかり拍子抜けしてしまい、この後は何故かザ・スターリンやZELDA他この日の出演バンドメンバーと学食に行って一緒にカレーライスを食べたりして妙に和んでしまったのを覚えている。確かこの3日後、前出の牧野君が自分の通う関東学院高校の学園祭でザ・スターリンのライヴを開催した時にはイマイチ盛り上がりに欠けた横浜市大での反省を踏まえて(笑)「もっと過激に」という事で校庭内の池にガソリンをぶちまけ、それに火を点けたりしたところ、パンク等全く関心の無い同高校の悪ガキ共が騒ぎ出して、何とか盛り上がったらしい。が、その騒ぎで主催責任者の牧野君は停学処分を受けたのだが、それを誇らしげに「僕、停学喰らっちゃいましたよ」と言っていたのが微笑ましい。一つ言いたいのは、こうしたジャンルではライヴパフォーマンスでも、後からあること無いことでっちあげ、現体験のない世代に武勇伝さながらに「昔は凄かった」「ヤバかった」等と吹聴する輩がいるが、何でもこうした話題は話半分に聞いておいたほうがいい。かく言う僕も10年前に件のザ・スターリンのトリビュート・アルバム「365・tribute to the Stalin」でライナーを書いた時には、さすがにあることな書いたが「無いこと」は書けなかったが(笑)、ステージでは常に過激なパフォーマンスが繰り広げられ、ザ・スターリンのライヴが危険な空気に満ちたライヴ空間であったかのように嫌らしく巧みなレトリックを駆使して(大笑)現体験を持たないユーザーを煽ったものだ(反省)。これに限らずレコード会社からリリースされるCDのライナーというと、作品のセールスや関係者に気遣かったりする為、どうしても本音を披瀝出来ず、いきおい保身もあって(次に何か美味しい仕事来ないかなー等とスケベ心も芽生える 笑)事実を美化したり大袈裟に書いてしまう。その点、ネットで個人の立場でこうした回想記を書いたりtwitterで現状報告する場合は利害も絡まないので誰に気がねすることなく思ったまま感じたまま正直に書けるから爽快感がある。
さて、この「横浜サイケデリック・ビート」関連のイベントは同年夏から冬にかけてスタジオ・ミッキー、グッピー、夢音等の横浜近郊のライヴハウス、そして横浜市立大学、横浜国立大学等の学園祭、都内では法政大学の学館ホールでの企画イベントを積極的に開催したが、そのいずれも観客動員は決して芳しいものではなかった。この時代は昨今のようにライヴハウスに出演するに当たって出演バンドにチケットノルマが課される等は想像だにしなかった。当時はバンド自身、皆非常に強い自意識を持っていて、手売りでチケットを捌く事自体を「カッコ悪い」ことと捉えていて、それなら高校や大学の学内サークルバンドの貸し切りコンサートと同じじゃないか、といような感覚だった。またライヴハウス側も仮に客が入らなくても「次はいっぱい入れろよ」と言う程度で主催者をそんなに責めなかったし、フードやドリンクである程度の収益が上がれば出演バンドにはそこそこギャランティーをしてくれた。まあのどかな時代ではあった。これも余談になるが、前回ちょっ触れた昨秋、新宿の
某ライヴハウスで行われたパンクバンドのイベントで「あまりの客のカッコ悪さに呆然とした」と書いた、その会場では出演バンドの身内や取り巻きが(彼あるいは彼女等もまたバンドをやっているのであろう‥)、今後、自分達が出演予定のライヴのチケット(おそらくノルマを課せられた)を売買していて、カッコ悪い観客=出演バンドの取り巻きバンド(笑)という構図もあったように思う。そのライヴもまた自分達のチケットノルマを捌く場でもあったという、ライヴの合間に垣間見た(聞こえた)そんな舞台裏もあって彼らの時代遅れのファッションや会話のセンス、それらを包括した彼らの佇まいが醸し出す、言い知れぬ会場の淀んだ空気は「もはやここにはかつてあった若者文化特有の輝きや夢、希望もない」との感を強く抱いた。
ビジネス優先のライヴハウスや、若手の取り巻きバンドに課したチケットノルマの売上を生活の糧とする、ゲスト出演の古株のバンド‥かつてそうしたパンクロック「シーン=場」に夢を託した者としてはそんな現状を見て筆舌に尽くし難いい絶望感に苛まれた。この件について一言付け加えれば、ライヴハウスによっては「ウチはバンドにチケットのノルマなど課していない」と綺麗事を言っているところもある。が、これとて実際は間に入った企画者なりイベンターなりがバンドにノルマを課している事がほとんどである。昨今のライヴハウスイベントの企画者は、なるべく沢山チケットを捌ける若手のバンドを押さえて、そうしたバンドが共演すればキャリアアップできるようなイメージのある(実際は今更このジャンルでキャリアアップなどしたところてま無意味だが 笑)、かつてメジャーレーベルからレコード発売したことのあるような、そこそこ知名度のあるベテランバンドを定額ギャランティを条件にゲスト扱いで出演させるような、単なる「段取り屋」のようなものらしい。またゲスト扱いで出演したベテランバンドもライヴ後の打ち上げに参加した際にはチケットを沢山捌いた若手バンドに(心にも無い)お世辞の一つでも言って持ち上げておけば、良い食いぶちの確保にもなる。音楽ジャンルやカテゴリー等、表層的な部分でで判断するのは如何かと思うが、僕が体験した限りに於いては音楽シーンでもヒップホップやレゲエ、テクノのイベントやパーティー、ショウは同じ若者文化でもパンクに比べ、パフォーマーや客も随分と開放感があり、会場そのものも明るいオーラに包まれていたという印象がある。その理由は様々なものがあるのだろうが、一つはこれらのジャンルはビジネスとしても将来性が見込めるという事が挙げられるだろう。90年代以降、パンクロックというジャンルは所謂インディーズレーベルがCDやDVD等のパッケージソフトの売上で莫大な利益を上げ、ビジネスとしても市場そのものも肥大化し、バブルを産んだ。それで「パンクロックのインディーズレーベルは儲かる」(笑)というので、我も我もと後追いで参入してきた新参のレーベルやバンドで市場が飽和状態になり、加えて「誰もがCDをリリースできる」事による、ジャンル全体でのクオリティー・コントロールの崩壊もあり、インディーズ・バブル崩壊と共に急速に活気が失せてしまった。それに追い打ちをかけたのが、昨今の音楽配信の普及によりCD等パッケージソフトの売上が激減し、当初はインディーズレーベルでヒトヤマ当てようとしていた後発参入組の現状を鑑みると、その絶望感たるや凄まじいものがあろう。それに比してパンク以外のジャンル、ヒップホップ等は元来、CD等のパッケージソフトの売上よりもイベントやパーティーでパフォーマーと観客が一体になるライヴこそがその表現行為の本質であり、ビジネスマターとしても最優先されるものだったので、配信の普及によるパッケージソフトの淘汰現象もジャンル全体の衰退を招くことにはならなかったのではないかと思う。かつてあれ程熱意を注いだパンクというジャンルに失望して新たにヒップホップに(ビジネスとしても)希望や可能性を見出だしたのは、また音楽業界で活動を始めた僕にとっては何とも皮肉な事ではあったが、不幸中の幸いだった。
閑話休題。
「横浜サイケデリックビート」なるムーブメントはこの年の暮れ、12月7日に新宿ロフト(※ついでに書いておくと、昨年僕が言い知れぬ失望感に見舞われたパンクバンドのイベントがあった某ライヴハウスはここです 笑)で行われた吉野大作&プロスティテュートのレコード発売記念ライヴでクライマックスを迎える。ゲストにはちょっとアートがかった個性的なパフォーマンスが印象的だった水玉消防団という女性バンドがゲストとして出演した。この日のライヴでは確かに一瞬、The Pop Groupを彷彿とさせるような、アバンギャルドな演奏ながらもギター、サックスのリード楽器とリズム隊が一糸乱れぬ鉄壁のアンサンブルを展開する白熱のライヴパフォーマンスを披露した。この小さなムーブメントについて総括してみると、吉祥寺にあった「マイナー」という、フリージャズや即興演奏、パンク等何でもアリの知る人ぞ知る70年代末の東京アンダーグラウンド・シーンの先鋭スポットの常連バンドや客、また渋谷にあった「ナイロン100%」という、こちらはちょっとお洒落な8・1/2やハルメンズ(後の「ピチカートⅤ」の野宮真貴が在籍)といったニューウェイヴ・バンドを輩出したライヴスポット、この双方のテイストを取り込んだ音楽潮流だったような気がする。人材としては「水すまし」というバンドのギタリストだった望月君が後に町田康氏率いる「人民オリンピックショウ」に一時期在籍した他、吉野大作&プロスティテュートのベーシストであった高橋ヨーカイ氏が「裸のラリーズ」に参加した等があるが、やはり地味なムーブメントだった。
僕はと言えばこの翌年、板橋区成増のとあるアパートに引っ越す事になるのだが‥そこでこの時期知り合ったバンドメンバーや関係者、そして町田康氏やその周辺の音楽・映画関係者を巻き込んでスリルとサスペンスに満ちた(笑)およそ有り得ない怒涛の人生の展開が待っていた。
参考リンク
吉野大作&プロスティチュート:十二番目のジャガー
吉野大作&プロスティチュート:後ろ姿の素敵な僕たち
非常階段:Live
ほぶらきん:ウサギ音頭で大暴れ
※まさに1981年8月29日、新宿ロフトで収録されたライヴ映像
THE STALIN:解剖室
※いま見るとライヴパフォーマンス自体、かなりショボいが、この時代の観客は男女とも良い意味で尖んがっていたのが分かるだろう
ZELDA:Ash-Lah(81年Live)
吉野大作&プロスティチュート:死ぬまで踊り続けて amazon online store
※昨年再発された吉野大作&プロスティテュートのデビュー作品