1~2日で更新するのを目標に取り組み始めたブログ‥開始早々に1週間もブランクを空けてしまった‥(反省)。では続きを。
Hellが東京滞在中のある日、一日中ホテルで取材を受けるスケジュールが切られ、確か今は亡き(笑)パンクマガジンのDOLL誌のインタビュー取材の際、インタビュアーが日本のパンクロックバンド、ZOLGEのボーカリストであるHaruhiko Ash氏がインタビュアーを務めたのだか、その通訳をした女性に正式取材の後、ついでに僕の個人的な質問の通訳をお願いした。その中で特に印象に残っている事柄を幾つか書いておく。
まずニューヨークパンクの黎明期にHellが参加していたHeartbreakersについて質問したのだが、この時にHellが言ったのは音楽メディアがよく使う「ニューヨークパンク黎明期」(The Dawn of New York Punk)という表現自体がナンセンスなもので、ニューヨークパンクの概念、その歴史を遡るとHellの周辺アーティストのTelevisionやBlondieは1960年代に活動していたThe Velvet UndergroundやThe Stooges、Count Five、The Seeds等のガレージパンクバンドから連綿と続いてきた流れの中に現れた一つのムーヴメントであり、この時期にメディアが「パンクロック」というキャッチを使って何か突然変異的に斬新な表現活動をするアーティストが現れたように持て囃した事自体が「メディアのハイプ」だったという事だ。Lou Reedが結成したThe Velvet UndergroundやiggyPopが率いたThe Stoogesについてはパンクロックのルーツの一つであると巷間囁かれているが、Hellによればパンクロックに限らずメディアが音楽を特定のカテゴリーに括ってパッケージする事は音楽産業による単なるマー
ケティング戦略に過ぎないし、当のアーティスト本人達にとってはあまり意味がない事だとも。
しかしHellが語る70年代初頭のニューヨークのロックシーンに関する話は興味深いものばかりで、特に無名時代にはPatti Smithと同棲していた事でも知られる、俳優で劇作家のSam Shepardの逸話の数々は同時代を生きたHellならではのリアリティー溢れるものがあった。曰く「二人は痴話喧嘩が絶えず、結局この時期のPattiのジャンキー振りに耐えられなくなったSamが逃げ出したんだ」「Pattiは一時期、ゲイの写真家のRobert MapplethorpeとSamとの三角関係を愉しんでいたんだが、根がスクエアなSamはそんなライフスタイルがバカバカしくなったのさ」と語っていた。
またHellはこの頃ずっと書店で働きながら生計を立てていたが、「来客の少ない暇な店だったから詩作に耽る時間は十二分にあった」等など。
また確かHaruhiko氏が聞いたものだったと思うが、Heartbreakers時代のバンドメイトであったJohnny Thundersについてどう思うか?という質問にフフフ‥と皮肉っぽい微笑みを浮かべ「彼は単なるミュージシャンだ」(暗に「俺は単なるミュージシャンではなく、アーティストだ」という自負が見え隠れしていた)と答えていたのが印象的だった。僕はと言えば何を隠そうJohnny Thundersもフェイバリット・アーティストの一人であり、JohnnyがNew York Dolls在籍時のアルバム『悪徳のジャングル(In Too Much Too Soon)』は1974年の夏、中学2年生当時に(ミュージックライフ誌の広告に釣られて)リアルタイムで購入した(自慢)。
また話が横道に逸れるが、僕が中学2年生当時はT Rex、デビッド・ボウイ、Siade等のグラムロック全盛期でNew York Dollsもグラムロックの括りで売り出されていた。その2、3年後にイギリスでブレイクする所謂「ロンドンパンク」の誕生時に、その導火線となったかのSex Pitolsのマネージャーとして名を成すマルコム・マクラレン(昨年逝去)がこの時期New York Dollsのマネジメントを手掛け、またマルコムのマネジメントによるバンドイメージに納得いかなかったJohnny Thundersがこのアルバムをレコーディング後にバンドを去り、1975年にTelevisionを脱退したRichard Hellと意気投合して新バンドHeartbreakersを結成することになる、という歴史的事実(という程、大袈裟なものでもないが‥)を顧みると、多感な思春期の僕自身の音楽的嗜好がグラム~パンクという流れに魅了されていた事が改めて分かる(HellはHeartbreakers脱退後に漸く自身のバンド、Voidodsを結成する)。
話を戻すと、HellがJohnnyの印象を「単なるミュージシャン」と評したのはHeartbreakers時代に一緒に活動した経験から、Johonyのギタープレイを含めたクリエイティブ面で何か物足りなさを感じたとも語っていたが、それは本音だったと思う。Johnnyはグラムやパンク云々と言う以前に、チャック・ベリー直系の生粋のロックンローラーであり、リリシストとしてもコンポーザーとしても「セックス、ドラッグ&ロックンロール」を地で行った、その実人生に忠実な(笑)創造性しか持ち合わせていなかった。HellがVoidoidsのギタリストとして採用したRobert Quineの複雑なコード進行も難なく取り込んだ唯一無比のギタープレイを聴けば一目(聴か?)瞭然だ。ただ、僕はJohnny Thundersの、当時としては破格のレベルにあったラウドでアウトレイジャスなギタープレイにも魅了されていた。Johnny Thundersが1985年に新宿のツバキハウスで初来日公演を行った際には、当時設立して間もないイベンターのスマッシュのスタッフから会場でストッパー(客席最前列の警備)のアルバイトを依頼され
「最前列の特等席でJohnnyが観られる」という事で狂喜乱舞したものだ。そのコンサートでは、本番一曲目の"Pipe Line"のイントロが流れてきた時には鳥肌が立ったのを今でも鮮明に覚えている。
どちらかと言えばHellは音楽よりも詩や小説に関心があり、音楽アーティストとしては1977年に『ブランクジェネレーション』でデビューした後は5年ものブランクを経て『ディスティニー・ストリート』をリリースしたが、その後ははっきり言ってあまり積極的に音楽活動をしていない。
この辺り、Hellはアーティストとしては町田康氏とも似通った側面を持っているような気もする。
ロック(パンク)よりも文学、「初めに言葉ありき」のアーティストである。そう言えばHellの来日公演時のCLUB CITTA'川崎公演の時に入場者受付を担当したのたが、前売りチケットで最初に入場したお客さんが、当時町田氏のコンサートでもよく見かける方だった。やはりこの方もHellと町田氏に同じような匂いを嗅ぎ取っていたのだろうか?
またHellは来日中に自分が執筆中の小説や既に発表した詩集を日本で出版したいとの希望があり、出版社数社に話を持ちかけてみたが、どこの社も「セールス的に厳しい」と難を示し、結局この時は実現しなかった。この14年後の2004年に太田出版から『GO NOW』というタイトルの自伝小説が出版されることになり、Hellの願いは叶った。
ともあれ、このRichard Hell来日は自分史の中でも様々な側面で大きな意味を持つものだった。
最後にこのHell来日公演に関する記述があるブログを発見したので参考までに紹介しておく。面白いのは「そういえば、90年のヘルの来日公演って、客のカッコよさは俺が今までに観たライヴでNo.1だったからな。あっ、ライヴはサイテーだったケド(笑)途中で「金返せ!」って叫んでるヤツいたけど、みんな同じ気持ちだったと思う。」なるくだりで、ライヴはサイテーでも(笑)、客がカッコよかったのは確かで、この感想は嬉しい限り。これについて一言いいたいのは、昨年10月に仕事で久しぶりに新宿の某ライヴハウスに出向くことがあって、それは幾つかのパンクバンドが出演したイベントだったのだが(初期のロンドンパンクを模したバンドが多かった)、客のカッコ悪さに呆然とした。その時、2度とこんな場所に足を運びたくないと強い嫌悪感すら覚えた。
ああ、"The Time They Are a-Changin'(時代は変わる)"か‥。今では信じられない話だが、そう、80年代はパンクロックのコンサート‥ギグとも言ったな(笑)の会場に来る客は、皆確かにカッコ良かった(遠い目‥か)。
昨今若者文化でカッコイイ客層はヒップホップのショウ等で見受けられるようになった‥。これも時代の流れなのかも知れない。
参考リンク:
Johnny Thunders and The Heartbreakers:Pipeline
Johnny Thunders MIX(Joey)
Johnny Thunders and The Heartbreakers MIX(Love Comes In Spurts)
Patti Smith (NHK総合特番・1978年放送『ツトムヤマシタ・ロックの旅』より)
映画『パティ・スミス:ドリーム・オブ・ライフ』予告 (TCR 01:22にSam Shepardが登場)
映画『メイプルソープとコレクター』予告編
New York Dolls MIX(Jet Boy)
『GO NOW』リチャー・ドヘル著 amazon online
『奥深い日々~ちょっと足りない老いぼれPUNKSの戯言』
Hellが東京滞在中のある日、一日中ホテルで取材を受けるスケジュールが切られ、確か今は亡き(笑)パンクマガジンのDOLL誌のインタビュー取材の際、インタビュアーが日本のパンクロックバンド、ZOLGEのボーカリストであるHaruhiko Ash氏がインタビュアーを務めたのだか、その通訳をした女性に正式取材の後、ついでに僕の個人的な質問の通訳をお願いした。その中で特に印象に残っている事柄を幾つか書いておく。
まずニューヨークパンクの黎明期にHellが参加していたHeartbreakersについて質問したのだが、この時にHellが言ったのは音楽メディアがよく使う「ニューヨークパンク黎明期」(The Dawn of New York Punk)という表現自体がナンセンスなもので、ニューヨークパンクの概念、その歴史を遡るとHellの周辺アーティストのTelevisionやBlondieは1960年代に活動していたThe Velvet UndergroundやThe Stooges、Count Five、The Seeds等のガレージパンクバンドから連綿と続いてきた流れの中に現れた一つのムーヴメントであり、この時期にメディアが「パンクロック」というキャッチを使って何か突然変異的に斬新な表現活動をするアーティストが現れたように持て囃した事自体が「メディアのハイプ」だったという事だ。Lou Reedが結成したThe Velvet UndergroundやiggyPopが率いたThe Stoogesについてはパンクロックのルーツの一つであると巷間囁かれているが、Hellによればパンクロックに限らずメディアが音楽を特定のカテゴリーに括ってパッケージする事は音楽産業による単なるマー
ケティング戦略に過ぎないし、当のアーティスト本人達にとってはあまり意味がない事だとも。
しかしHellが語る70年代初頭のニューヨークのロックシーンに関する話は興味深いものばかりで、特に無名時代にはPatti Smithと同棲していた事でも知られる、俳優で劇作家のSam Shepardの逸話の数々は同時代を生きたHellならではのリアリティー溢れるものがあった。曰く「二人は痴話喧嘩が絶えず、結局この時期のPattiのジャンキー振りに耐えられなくなったSamが逃げ出したんだ」「Pattiは一時期、ゲイの写真家のRobert MapplethorpeとSamとの三角関係を愉しんでいたんだが、根がスクエアなSamはそんなライフスタイルがバカバカしくなったのさ」と語っていた。
またHellはこの頃ずっと書店で働きながら生計を立てていたが、「来客の少ない暇な店だったから詩作に耽る時間は十二分にあった」等など。
また確かHaruhiko氏が聞いたものだったと思うが、Heartbreakers時代のバンドメイトであったJohnny Thundersについてどう思うか?という質問にフフフ‥と皮肉っぽい微笑みを浮かべ「彼は単なるミュージシャンだ」(暗に「俺は単なるミュージシャンではなく、アーティストだ」という自負が見え隠れしていた)と答えていたのが印象的だった。僕はと言えば何を隠そうJohnny Thundersもフェイバリット・アーティストの一人であり、JohnnyがNew York Dolls在籍時のアルバム『悪徳のジャングル(In Too Much Too Soon)』は1974年の夏、中学2年生当時に(ミュージックライフ誌の広告に釣られて)リアルタイムで購入した(自慢)。
また話が横道に逸れるが、僕が中学2年生当時はT Rex、デビッド・ボウイ、Siade等のグラムロック全盛期でNew York Dollsもグラムロックの括りで売り出されていた。その2、3年後にイギリスでブレイクする所謂「ロンドンパンク」の誕生時に、その導火線となったかのSex Pitolsのマネージャーとして名を成すマルコム・マクラレン(昨年逝去)がこの時期New York Dollsのマネジメントを手掛け、またマルコムのマネジメントによるバンドイメージに納得いかなかったJohnny Thundersがこのアルバムをレコーディング後にバンドを去り、1975年にTelevisionを脱退したRichard Hellと意気投合して新バンドHeartbreakersを結成することになる、という歴史的事実(という程、大袈裟なものでもないが‥)を顧みると、多感な思春期の僕自身の音楽的嗜好がグラム~パンクという流れに魅了されていた事が改めて分かる(HellはHeartbreakers脱退後に漸く自身のバンド、Voidodsを結成する)。
話を戻すと、HellがJohnnyの印象を「単なるミュージシャン」と評したのはHeartbreakers時代に一緒に活動した経験から、Johonyのギタープレイを含めたクリエイティブ面で何か物足りなさを感じたとも語っていたが、それは本音だったと思う。Johnnyはグラムやパンク云々と言う以前に、チャック・ベリー直系の生粋のロックンローラーであり、リリシストとしてもコンポーザーとしても「セックス、ドラッグ&ロックンロール」を地で行った、その実人生に忠実な(笑)創造性しか持ち合わせていなかった。HellがVoidoidsのギタリストとして採用したRobert Quineの複雑なコード進行も難なく取り込んだ唯一無比のギタープレイを聴けば一目(聴か?)瞭然だ。ただ、僕はJohnny Thundersの、当時としては破格のレベルにあったラウドでアウトレイジャスなギタープレイにも魅了されていた。Johnny Thundersが1985年に新宿のツバキハウスで初来日公演を行った際には、当時設立して間もないイベンターのスマッシュのスタッフから会場でストッパー(客席最前列の警備)のアルバイトを依頼され
「最前列の特等席でJohnnyが観られる」という事で狂喜乱舞したものだ。そのコンサートでは、本番一曲目の"Pipe Line"のイントロが流れてきた時には鳥肌が立ったのを今でも鮮明に覚えている。
どちらかと言えばHellは音楽よりも詩や小説に関心があり、音楽アーティストとしては1977年に『ブランクジェネレーション』でデビューした後は5年ものブランクを経て『ディスティニー・ストリート』をリリースしたが、その後ははっきり言ってあまり積極的に音楽活動をしていない。
この辺り、Hellはアーティストとしては町田康氏とも似通った側面を持っているような気もする。
ロック(パンク)よりも文学、「初めに言葉ありき」のアーティストである。そう言えばHellの来日公演時のCLUB CITTA'川崎公演の時に入場者受付を担当したのたが、前売りチケットで最初に入場したお客さんが、当時町田氏のコンサートでもよく見かける方だった。やはりこの方もHellと町田氏に同じような匂いを嗅ぎ取っていたのだろうか?
またHellは来日中に自分が執筆中の小説や既に発表した詩集を日本で出版したいとの希望があり、出版社数社に話を持ちかけてみたが、どこの社も「セールス的に厳しい」と難を示し、結局この時は実現しなかった。この14年後の2004年に太田出版から『GO NOW』というタイトルの自伝小説が出版されることになり、Hellの願いは叶った。
ともあれ、このRichard Hell来日は自分史の中でも様々な側面で大きな意味を持つものだった。
最後にこのHell来日公演に関する記述があるブログを発見したので参考までに紹介しておく。面白いのは「そういえば、90年のヘルの来日公演って、客のカッコよさは俺が今までに観たライヴでNo.1だったからな。あっ、ライヴはサイテーだったケド(笑)途中で「金返せ!」って叫んでるヤツいたけど、みんな同じ気持ちだったと思う。」なるくだりで、ライヴはサイテーでも(笑)、客がカッコよかったのは確かで、この感想は嬉しい限り。これについて一言いいたいのは、昨年10月に仕事で久しぶりに新宿の某ライヴハウスに出向くことがあって、それは幾つかのパンクバンドが出演したイベントだったのだが(初期のロンドンパンクを模したバンドが多かった)、客のカッコ悪さに呆然とした。その時、2度とこんな場所に足を運びたくないと強い嫌悪感すら覚えた。
ああ、"The Time They Are a-Changin'(時代は変わる)"か‥。今では信じられない話だが、そう、80年代はパンクロックのコンサート‥ギグとも言ったな(笑)の会場に来る客は、皆確かにカッコ良かった(遠い目‥か)。
昨今若者文化でカッコイイ客層はヒップホップのショウ等で見受けられるようになった‥。これも時代の流れなのかも知れない。
参考リンク:
Johnny Thunders and The Heartbreakers:Pipeline
Johnny Thunders MIX(Joey)
Johnny Thunders and The Heartbreakers MIX(Love Comes In Spurts)
Patti Smith (NHK総合特番・1978年放送『ツトムヤマシタ・ロックの旅』より)
映画『パティ・スミス:ドリーム・オブ・ライフ』予告 (TCR 01:22にSam Shepardが登場)
映画『メイプルソープとコレクター』予告編
New York Dolls MIX(Jet Boy)
『GO NOW』リチャー・ドヘル著 amazon online
『奥深い日々~ちょっと足りない老いぼれPUNKSの戯言』