50歳を区切りに自分史等書き始めてみたが、これが殊の外面白い。振り返ってみると我ながら苦あれば楽あり、楽あれば苦あり‥その繰り返しだったが、様々な人との出会いや体験、それら全てが一期一会、二度と再現することの出来ない掛け替えのない瞬間々の連続体であったなあと。昨年までの数年間は肉親との死別や家族の崩壊等、本当にこの世の地獄のような時期を過ごしたのだが、それ以前の二十数年間は例えばいくらお金を積んでも経験できないようなスリルとサスペンスに満ちたエキサイティングな-尚且つちょっぴりセンチメンタルであり‥ポエジーな(笑)毎日を送っていた。今回は更に遡ってそんな音楽人生を選ぶきっかけとなった、まだ何者でもなかった純粋無垢な高校時代の体験から。
僕が音楽どっぷりな生活に突入したのは確か高校1年の終わり頃の1977年の春だった。その前年の暮れに、現在は大阪で「ニュージャズ」を中心としたセレクションで日本に新たなクラブ文化を根付かせようと「club nu things JAJOUKA」の運営に乗り出した音楽評論家・阿木譲氏が当時編集長兼発行人を務めていた音楽雑誌『ロック・マガジン』に掲載されていた、ある記事が目に留まった。
それは当時ニューヨークのCBGBやMax's Kansas City等のライヴハウスを中心に盛り上がりつつあった「パンクロック」という音楽ムーヴメントについてのものだった。ちょっと後に『ニューミュージック・マガジン』(その後『ミュージック・マガジン』に改称)にも、後にDJイベント「ロンドンナイト」を主宰する大貫憲章氏が同じく「パンクロック」に関するレポートを書いていて、この新しい音楽シーンの動きに胸の高まりを感じていた。とりわけTelevision、Richard Hell & The Voidoids、Talking Headsといったちょっとアート臭い匂いを持ったアーティストに関心があった。その中でもTelevisionというバンドのリーダーであるTom Verlaineが、その前年の1975年に『牝馬(Horses)』、同年『ストリート・パンクの女王(Radio Ethiopia)』という作品(当時、日本盤も発売されていた)を発表して既に僕のアイドル的存在であったPatti Smithというアーティストの恋人だったという事もあり、Televisionの作品が聴きたくて聴きたくて仕方がなかった。
そしてその翌月の春、そのTelevisionのデビューアルバム『マーキー・ムーン(Marquee Moon)』が何と日本盤として発売されるというニュースを聞き、胸ときめかせて発売日に購入した。今のようにネット配信でipodや携帯で何時でも何処でも一発ダウンロード購入するのではなくレコード店に足を運んでアナログ盤を手に入れるという、いかにもアナログ(笑)な所作を踏んで音楽に接する、古きよき時代の話である。学校帰りに購入し、自宅に帰って早速レコードプレイヤーにアナログ盤を乗せ、針を落とすと期待に違わぬ、それまで体験したことのなかった(当時としては)新しい音世界が広がっていた。A面1曲目の"See No Evil"からB面最後の。"Torn Curtain"まで約40分間のサウンドトリップ、息も付かせぬ曲順構成、曲展開、詩世界に目から鱗の落ちる思い、衝撃を受けた。特にバンドリーダーで大半の曲の作詞作曲を手掛け、ギタリストでもあるTom Verlaine。このフランスの象徴派詩人のポール・ヴェルレーヌに因んだステージネームを持った、キザったらしい、いかにも嫌な奴(笑)
の構築する独自のアートフォーム、サウンドビジョンは、明らかに当時の流行物のロックの枠組みからはみ出していた。流行のヒットチャート物ばかり追いかけていた周りの友人を尻目に密かに「俺はお前らよりも先を行ってんだよ」というような、妙な優越感に浸りながら、その後はこの種のアンダーグラウンドな匂いのするアーティストばかり追いかけていた。ただ、時代が時代だけにelevisionを始め、こうしたアーティストの情報はごく限られたメディア、しかも先に挙げたような『ロックマガジン』のような一部の音楽雑誌から仕入れるしかなかった。今のようにネットで検索すれば基本的な情報は何でもタダで手に入れる事が可能な時代とは訳が違う。なのでレコードに添付された雑誌『ミュージックライフ』の水上はるこ女史の解説(奇しくもこの雑誌の発行元である㈱シンコーミュージックに後に籍を置く事になる)や雑誌のレコードレビュー等を頼りに、歌詞カードを眺めながらレコードを繰り返し繰り返し聴いては勝手な想像を膨らませていた。高校のクラブ活動で「音楽研究会」
という(平たく言えば)軽音部でコピーバンドをやっていたので買ったばかりのベースギター(フェンダーのマガイモノ[笑い]フェルナンデスのプレジションタイプ) でレコードに合わせてベースのパートを弾いてみたり‥とか一枚のレコードで様々な楽しみ方をしていた。ベースは単音だが、ギターはコード(和音) 弾きなので、TelevisionのTomの弾くギターパートは間奏部分はどんなコードを押さえたらあんな音‥異様に引き攣ったトーンのサウンドを出せるんだろう?等とこれまた想像を逞しくして何度も何度も聴いていた。歌詞にしても高校1年次修了時だから知ってる英単語の語彙もタカが知れてる。だから英和辞典を引き引き(対訳付きでないレコードも多かった)何となく自分でイメージを膨らませてアーティストの意図をあれこれ想像してみたりした。この時代は一枚のレコードでかなり濃密な時間を過ごす事ができたものだ。またヴェルレーヌ等の象徴派詩人の存在を知ったのもこのレコードがきっかけで、Patti Smithの存在によりアルチュール・ランボーの詩にも興味を持った(当
時は何が何だか全く理解できなかったが‥)。まあ何でも背伸びしたがる多感な年頃だったと。
この後、Television関係のアーティストを掘り下げるようになり、同年暮れに元TelevisionメンバーだったRichard Hellのレコードがこれまた日本盤で発売された時も発売日にレコード店で購入した。『ブランク・ジェネレーション~空白の世代(Blank Generation)』と題された、このアルバムを手にした時の興奮は先のTelevisionのレコードを入手した時に勝るとも劣らないものだった。僕の世代(1960~61年生まれ)は ちょっと上の世代までは学生運動華やかりし頃で、多感な思春期をやれマルクスだレーニンだ共産主義だのと高校生にもなれば勉強そっちのけで喧々囂々たる議論を交わしていたらしい。その後続いた僕の世代は特に目的も無く、まあ将来は待遇の良い会社に入るか公務員になるかして平々凡々とした生活を送れば良しとするような所謂ノンポリ(ノンポリシー)学生が大勢を占める、正に「空白の世代」だった。高校受験や大学受験もそれ程に加熱しておらず、僕の住んでいた静岡県は田舎でもあり、塾通いや予備校通いしてまで受験に備えるような風潮もなかった。男子生徒は
真面目に授業に出てクラブ活動をテキトーにこなし、まあハメを外さないタイプと、飲酒喫煙、ディスコ通いに矢沢永吉やキャロルを聴いて暴走族の真似事に明け暮れるヤンキー(当時は「ツッパリ」とか言っていた)とに二分され、僕はその中間くらいの存在で、誰とでも無難に上手く付き合っていた。女子はその大半が今の基準で言えば恐らく小学校高学年~中学生くらいのメンタリティーで、男子生徒の前では表立って異性への興味を示すような風情すらなかった。まあ、中にはワナビー「スケバン」のような輩も少数いたが、今思うと異性交遊には驚く程消極的だった。
話を戻すと、Richard Hellのアルバム『ブランク・ジェネレーション』も、タイトル曲の他にも"Love Comes In Spurts"等名曲揃いで、このレコードも購入して以来、その年の冬休みを通して僕の部屋の中でヘビロテ状態だった。ついでに言えばこのRichard Hell、その名も"Voidoids(「空っぽ」の造語で彼の書いた短編小説のタイトルでもある)"なるバックバンドを率いてこの時期、精力的にライヴ活動もしていた。余談だが、過日ブログで触れた大阪のパンクロックバンド、INU(犬)のベーシストだった西川成子さんはこのアルバムを聞いてその名もブランクジェネレーションというバンドを結成、キーボードを担当していた。この頃、大学一年生だった彼女は、高校生の頃から先の雑誌『ロックマガジン』を発行していた阿木譲氏の事務所に出入りしていて、同誌の翻訳を手掛けたりしていた。日本でも何処でも、最初は狭くて濃密な人間関係の中で新しい音楽ムーヴメントが始まるものである。同じくINU(犬)の町田氏はまだ高校一年生、高校ではワンダーフォーゲル部に籍を置き、大阪市(か
大阪府だったか?)の選抜メンバーとしてフィリピンに遠征して親睦大会に参加した事もあるそうだ。
僕がこの頃入手したレコードは、今でも鮮明に覚えている(今となっては全部、中古レコード店で処分してしまった事が悔やまれる)。リアルタイムで買った物を幾つか挙げてみると‥(1977年リリース作品)
Blondie『妖女ブロンディ(Blondie)』
The Dictators『独裁宣言(Manifest Destiny)』※コレ、タイトルがヤバ過ぎ(笑)
Iggy Pop『愚者(The Idiot)』『ラスト・フォー・ライフ(Lust For Life)』
Taliking Heads『トーキング・ヘッズ・デビュー!(Talking Heads:77)』
等など、パンクロック関係のレコードは殆どニューヨーク物ばかりであった。この当時、ロンドンでSex PistolsやThe Clashがセンセーショナルにデビューしたが、ロンドンパンクは何となくハードロックのテイストが入った3コードの単純なロックンロールの焼き直しのような印象があって、根が捻くれ者の僕は嫌らしいアート臭のするニューヨークパンクに傾注していた(Blondieはとてつもなくポップだったが‥)。そよなこんなな高校2年生時代から、話は一気にこの13年後の1990年にワープ(笑)。
この年初頭、当時所属していた音楽制作事務所、㈱ミュージックビジョンで上司の江島さんという方から、とんでもないプランを打ち明けられた。それはこの時期、洋楽アーティストの作品を大手レコード会社の㈱日本クラウンに売り込んで、まとまったカタログ一括でライセンスリリースするという企画が進行していたのだが、その販売促進活動の一環として、僕が高校生時代に、夢にまで見たあのRichard Hellを招聘し、日本公演をプロモートするというものだった。今でこそ海外のアーティストを招聘するのもごく当たり前のようになってしまったが、この1990年当時は、大手のプロモーターを通さずに、しかも日本では決して知名度が高いとは言えないRichard Hellのようなアーティストの来日公演を仕切るのは非常にリスクの大きな事案であった(当時洋楽プロモーターのスマッシュが招聘代行業務を請け負うという話もあったのだが、結局条件面で折り合わず、付き合いの深いプロモーターのバックステージ・プロジェクトのサポートを得て自社独力でプロモートすることになった)。その
前年から江島さんはライセンスリリース契約をする事になったニューヨークのROIRという小さなレコード・レーベルのオフィスに足を運び、ついでにRichard Hellの元も訪れ、密かにこの企画実現に向けた折衝を重ねていた。僕個人も、前年暮れにBAKIのソロアルバムのディレクションをした後、何か心にぽっかりと穴が空いたような状態で、次の仕事のテーマを捜し求めていた所にこの話が飛び込んできて非常にエキサイトした。
そしていよいよ日本時間の4月1日だったと思うが、Richard Hellはバックバンドのメンバーを引き連れて成田空港にやって来た。彼Hellはこの時40歳、勿論初来日でありライヴ自体も久々に敢行するという事で、バックバンドは若干寄せ集め的な匂いのする無名ミュージシャンもいたが、そんな事はどうでもよかった。この日本公演では4月4日の川崎CLUB CITTA'公演をメインに、6日名古屋ボトムライン、8日大阪ミューズホール、10日福岡・博多Be-1、12日が札幌ベッシーホールという、スケジュール的にはかなりの強行軍だった。僕は現場では川崎公演のみをケアし、地方公演は江島さんと他のスタッフに任せて来日してからゲネプロ(本番シミュレーションの大掛かりなリハーサル)や音楽誌の取材ブッキング及び立会い等を担当した。インタビュー取材立会い時にHell本人の言葉は聞けたが、それだけでは物足りず(笑)Hellがオフの日にどこかの雑誌の通訳の女性にわざわざ滞在先のホテルに来てもらい、ロビーで個人的インタビューをした事が今でも思い出される。Hell自身は滞日中、特に東
京滞在中は外遊に勤しむ他のバンドメンバーを尻目に笹塚のホテルに篭りきりで「一体何をしているのか?」と尋ねた所、ニヤリと笑って「詩作と読書をしている」と答えた時には「さすがにアートパンク、文芸パンクと呼ばれたお方だなあ」と感心した。僕はHellの来日中のケアに関しては常に「ジャパニーズスマイル(笑)」を絶やさず(緊張してブロークンな英語を披露するのが憚られたのかも?)、向こうはかなり?な奴との印象を持ったのではないかと思う。
おっと、もうこんな時間‥この項、随時加筆します。
(To be continued...)
参考映像
Richard Hell and the Voidoids : Blank Generation(1977)
Television : Foxhole (live/1978)
Debbie Harry(Blondie) & Iggy Pop : Well Did You Evah!(1991)
※iggyとBlondieのDebbie HarryがCoal Porterの名曲をデュエットでカバー。地球最後の日に二人がバカバカしくも危険なランデブーするというPVのストーリーが最高!
Blondie : Maria(1999)
※生涯最高のPVの一つ。
The Dictators : Search And Destroy
※MIXの23、27、28も名曲。
Talking Heads : Psycho Killer (Vinyl/1977)
僕が音楽どっぷりな生活に突入したのは確か高校1年の終わり頃の1977年の春だった。その前年の暮れに、現在は大阪で「ニュージャズ」を中心としたセレクションで日本に新たなクラブ文化を根付かせようと「club nu things JAJOUKA」の運営に乗り出した音楽評論家・阿木譲氏が当時編集長兼発行人を務めていた音楽雑誌『ロック・マガジン』に掲載されていた、ある記事が目に留まった。
それは当時ニューヨークのCBGBやMax's Kansas City等のライヴハウスを中心に盛り上がりつつあった「パンクロック」という音楽ムーヴメントについてのものだった。ちょっと後に『ニューミュージック・マガジン』(その後『ミュージック・マガジン』に改称)にも、後にDJイベント「ロンドンナイト」を主宰する大貫憲章氏が同じく「パンクロック」に関するレポートを書いていて、この新しい音楽シーンの動きに胸の高まりを感じていた。とりわけTelevision、Richard Hell & The Voidoids、Talking Headsといったちょっとアート臭い匂いを持ったアーティストに関心があった。その中でもTelevisionというバンドのリーダーであるTom Verlaineが、その前年の1975年に『牝馬(Horses)』、同年『ストリート・パンクの女王(Radio Ethiopia)』という作品(当時、日本盤も発売されていた)を発表して既に僕のアイドル的存在であったPatti Smithというアーティストの恋人だったという事もあり、Televisionの作品が聴きたくて聴きたくて仕方がなかった。
そしてその翌月の春、そのTelevisionのデビューアルバム『マーキー・ムーン(Marquee Moon)』が何と日本盤として発売されるというニュースを聞き、胸ときめかせて発売日に購入した。今のようにネット配信でipodや携帯で何時でも何処でも一発ダウンロード購入するのではなくレコード店に足を運んでアナログ盤を手に入れるという、いかにもアナログ(笑)な所作を踏んで音楽に接する、古きよき時代の話である。学校帰りに購入し、自宅に帰って早速レコードプレイヤーにアナログ盤を乗せ、針を落とすと期待に違わぬ、それまで体験したことのなかった(当時としては)新しい音世界が広がっていた。A面1曲目の"See No Evil"からB面最後の。"Torn Curtain"まで約40分間のサウンドトリップ、息も付かせぬ曲順構成、曲展開、詩世界に目から鱗の落ちる思い、衝撃を受けた。特にバンドリーダーで大半の曲の作詞作曲を手掛け、ギタリストでもあるTom Verlaine。このフランスの象徴派詩人のポール・ヴェルレーヌに因んだステージネームを持った、キザったらしい、いかにも嫌な奴(笑)
の構築する独自のアートフォーム、サウンドビジョンは、明らかに当時の流行物のロックの枠組みからはみ出していた。流行のヒットチャート物ばかり追いかけていた周りの友人を尻目に密かに「俺はお前らよりも先を行ってんだよ」というような、妙な優越感に浸りながら、その後はこの種のアンダーグラウンドな匂いのするアーティストばかり追いかけていた。ただ、時代が時代だけにelevisionを始め、こうしたアーティストの情報はごく限られたメディア、しかも先に挙げたような『ロックマガジン』のような一部の音楽雑誌から仕入れるしかなかった。今のようにネットで検索すれば基本的な情報は何でもタダで手に入れる事が可能な時代とは訳が違う。なのでレコードに添付された雑誌『ミュージックライフ』の水上はるこ女史の解説(奇しくもこの雑誌の発行元である㈱シンコーミュージックに後に籍を置く事になる)や雑誌のレコードレビュー等を頼りに、歌詞カードを眺めながらレコードを繰り返し繰り返し聴いては勝手な想像を膨らませていた。高校のクラブ活動で「音楽研究会」
という(平たく言えば)軽音部でコピーバンドをやっていたので買ったばかりのベースギター(フェンダーのマガイモノ[笑い]フェルナンデスのプレジションタイプ) でレコードに合わせてベースのパートを弾いてみたり‥とか一枚のレコードで様々な楽しみ方をしていた。ベースは単音だが、ギターはコード(和音) 弾きなので、TelevisionのTomの弾くギターパートは間奏部分はどんなコードを押さえたらあんな音‥異様に引き攣ったトーンのサウンドを出せるんだろう?等とこれまた想像を逞しくして何度も何度も聴いていた。歌詞にしても高校1年次修了時だから知ってる英単語の語彙もタカが知れてる。だから英和辞典を引き引き(対訳付きでないレコードも多かった)何となく自分でイメージを膨らませてアーティストの意図をあれこれ想像してみたりした。この時代は一枚のレコードでかなり濃密な時間を過ごす事ができたものだ。またヴェルレーヌ等の象徴派詩人の存在を知ったのもこのレコードがきっかけで、Patti Smithの存在によりアルチュール・ランボーの詩にも興味を持った(当
時は何が何だか全く理解できなかったが‥)。まあ何でも背伸びしたがる多感な年頃だったと。
この後、Television関係のアーティストを掘り下げるようになり、同年暮れに元TelevisionメンバーだったRichard Hellのレコードがこれまた日本盤で発売された時も発売日にレコード店で購入した。『ブランク・ジェネレーション~空白の世代(Blank Generation)』と題された、このアルバムを手にした時の興奮は先のTelevisionのレコードを入手した時に勝るとも劣らないものだった。僕の世代(1960~61年生まれ)は ちょっと上の世代までは学生運動華やかりし頃で、多感な思春期をやれマルクスだレーニンだ共産主義だのと高校生にもなれば勉強そっちのけで喧々囂々たる議論を交わしていたらしい。その後続いた僕の世代は特に目的も無く、まあ将来は待遇の良い会社に入るか公務員になるかして平々凡々とした生活を送れば良しとするような所謂ノンポリ(ノンポリシー)学生が大勢を占める、正に「空白の世代」だった。高校受験や大学受験もそれ程に加熱しておらず、僕の住んでいた静岡県は田舎でもあり、塾通いや予備校通いしてまで受験に備えるような風潮もなかった。男子生徒は
真面目に授業に出てクラブ活動をテキトーにこなし、まあハメを外さないタイプと、飲酒喫煙、ディスコ通いに矢沢永吉やキャロルを聴いて暴走族の真似事に明け暮れるヤンキー(当時は「ツッパリ」とか言っていた)とに二分され、僕はその中間くらいの存在で、誰とでも無難に上手く付き合っていた。女子はその大半が今の基準で言えば恐らく小学校高学年~中学生くらいのメンタリティーで、男子生徒の前では表立って異性への興味を示すような風情すらなかった。まあ、中にはワナビー「スケバン」のような輩も少数いたが、今思うと異性交遊には驚く程消極的だった。
話を戻すと、Richard Hellのアルバム『ブランク・ジェネレーション』も、タイトル曲の他にも"Love Comes In Spurts"等名曲揃いで、このレコードも購入して以来、その年の冬休みを通して僕の部屋の中でヘビロテ状態だった。ついでに言えばこのRichard Hell、その名も"Voidoids(「空っぽ」の造語で彼の書いた短編小説のタイトルでもある)"なるバックバンドを率いてこの時期、精力的にライヴ活動もしていた。余談だが、過日ブログで触れた大阪のパンクロックバンド、INU(犬)のベーシストだった西川成子さんはこのアルバムを聞いてその名もブランクジェネレーションというバンドを結成、キーボードを担当していた。この頃、大学一年生だった彼女は、高校生の頃から先の雑誌『ロックマガジン』を発行していた阿木譲氏の事務所に出入りしていて、同誌の翻訳を手掛けたりしていた。日本でも何処でも、最初は狭くて濃密な人間関係の中で新しい音楽ムーヴメントが始まるものである。同じくINU(犬)の町田氏はまだ高校一年生、高校ではワンダーフォーゲル部に籍を置き、大阪市(か
大阪府だったか?)の選抜メンバーとしてフィリピンに遠征して親睦大会に参加した事もあるそうだ。
僕がこの頃入手したレコードは、今でも鮮明に覚えている(今となっては全部、中古レコード店で処分してしまった事が悔やまれる)。リアルタイムで買った物を幾つか挙げてみると‥(1977年リリース作品)
Blondie『妖女ブロンディ(Blondie)』
The Dictators『独裁宣言(Manifest Destiny)』※コレ、タイトルがヤバ過ぎ(笑)
Iggy Pop『愚者(The Idiot)』『ラスト・フォー・ライフ(Lust For Life)』
Taliking Heads『トーキング・ヘッズ・デビュー!(Talking Heads:77)』
等など、パンクロック関係のレコードは殆どニューヨーク物ばかりであった。この当時、ロンドンでSex PistolsやThe Clashがセンセーショナルにデビューしたが、ロンドンパンクは何となくハードロックのテイストが入った3コードの単純なロックンロールの焼き直しのような印象があって、根が捻くれ者の僕は嫌らしいアート臭のするニューヨークパンクに傾注していた(Blondieはとてつもなくポップだったが‥)。そよなこんなな高校2年生時代から、話は一気にこの13年後の1990年にワープ(笑)。
この年初頭、当時所属していた音楽制作事務所、㈱ミュージックビジョンで上司の江島さんという方から、とんでもないプランを打ち明けられた。それはこの時期、洋楽アーティストの作品を大手レコード会社の㈱日本クラウンに売り込んで、まとまったカタログ一括でライセンスリリースするという企画が進行していたのだが、その販売促進活動の一環として、僕が高校生時代に、夢にまで見たあのRichard Hellを招聘し、日本公演をプロモートするというものだった。今でこそ海外のアーティストを招聘するのもごく当たり前のようになってしまったが、この1990年当時は、大手のプロモーターを通さずに、しかも日本では決して知名度が高いとは言えないRichard Hellのようなアーティストの来日公演を仕切るのは非常にリスクの大きな事案であった(当時洋楽プロモーターのスマッシュが招聘代行業務を請け負うという話もあったのだが、結局条件面で折り合わず、付き合いの深いプロモーターのバックステージ・プロジェクトのサポートを得て自社独力でプロモートすることになった)。その
前年から江島さんはライセンスリリース契約をする事になったニューヨークのROIRという小さなレコード・レーベルのオフィスに足を運び、ついでにRichard Hellの元も訪れ、密かにこの企画実現に向けた折衝を重ねていた。僕個人も、前年暮れにBAKIのソロアルバムのディレクションをした後、何か心にぽっかりと穴が空いたような状態で、次の仕事のテーマを捜し求めていた所にこの話が飛び込んできて非常にエキサイトした。
そしていよいよ日本時間の4月1日だったと思うが、Richard Hellはバックバンドのメンバーを引き連れて成田空港にやって来た。彼Hellはこの時40歳、勿論初来日でありライヴ自体も久々に敢行するという事で、バックバンドは若干寄せ集め的な匂いのする無名ミュージシャンもいたが、そんな事はどうでもよかった。この日本公演では4月4日の川崎CLUB CITTA'公演をメインに、6日名古屋ボトムライン、8日大阪ミューズホール、10日福岡・博多Be-1、12日が札幌ベッシーホールという、スケジュール的にはかなりの強行軍だった。僕は現場では川崎公演のみをケアし、地方公演は江島さんと他のスタッフに任せて来日してからゲネプロ(本番シミュレーションの大掛かりなリハーサル)や音楽誌の取材ブッキング及び立会い等を担当した。インタビュー取材立会い時にHell本人の言葉は聞けたが、それだけでは物足りず(笑)Hellがオフの日にどこかの雑誌の通訳の女性にわざわざ滞在先のホテルに来てもらい、ロビーで個人的インタビューをした事が今でも思い出される。Hell自身は滞日中、特に東
京滞在中は外遊に勤しむ他のバンドメンバーを尻目に笹塚のホテルに篭りきりで「一体何をしているのか?」と尋ねた所、ニヤリと笑って「詩作と読書をしている」と答えた時には「さすがにアートパンク、文芸パンクと呼ばれたお方だなあ」と感心した。僕はHellの来日中のケアに関しては常に「ジャパニーズスマイル(笑)」を絶やさず(緊張してブロークンな英語を披露するのが憚られたのかも?)、向こうはかなり?な奴との印象を持ったのではないかと思う。
おっと、もうこんな時間‥この項、随時加筆します。
(To be continued...)
参考映像
Richard Hell and the Voidoids : Blank Generation(1977)
Television : Foxhole (live/1978)
Debbie Harry(Blondie) & Iggy Pop : Well Did You Evah!(1991)
※iggyとBlondieのDebbie HarryがCoal Porterの名曲をデュエットでカバー。地球最後の日に二人がバカバカしくも危険なランデブーするというPVのストーリーが最高!
Blondie : Maria(1999)
※生涯最高のPVの一つ。
The Dictators : Search And Destroy
※MIXの23、27、28も名曲。
Talking Heads : Psycho Killer (Vinyl/1977)