前回ネタにしたパンクロックバンド、INU(犬)に関連する思い出話で、今回は最近の殺伐とした世相を忘れられるような、何となく和める話題を書いてみようかと‥。
INU(犬)の町田氏とはその後悲喜こもごもの人生模様、変転流転数知れずな展開があるわけだが、町田氏を取り巻く人間模様の中でとりわけ思い出深い人物を思い出した。
通称「永遠の少女歌手」(笑)の須山公美子さんである。
この方、それ程親しいお付き合いをしたわけではないが、節目々で会う度に何かしら心和むエピソードを置き土産に残してくれる。簡単にこの方の出自を説明しておくと1961年の早生まれで今年50歳になり、僕と同年代同学年である。横浜生まれで兵庫県宝塚育ち、筋金入りのお嬢様との説もあるが、町田氏その他の証言を総合すると、そうでもなく、愛すべき俗っぽさも持ち合わせた、究極のナルシストらしい。高校・大学と関西学院に在学し、高校時代に同窓だった、後にINU(犬)のギタリストとなる北田氏と「変身キリン」なるパンク・ニューウェイブバンドを結成し、ボーカル、キーボードを担当する。
余談ですが、この関西学院大学というのは中々くせ者?で、1980年代には関西のアンダーグラウンドなロックシーンに数多くのアーティストを排出していた。ハードロック・メタルでは最初のブログで取り上げた元DEAD ENDのギタリストで、BAKIのソロ作品でレコーディングパートナーだった香川君、メンバー全員が女性のプログレバンド、Rosallia、パンク・ニューウェイブ系ではこの須山さんの他に変身キリン~INU(犬)の北田氏他、名前を挙げていけばキリがない。前回INU(犬)の項でYOUTUBE動画をアップしたライヴ音源の『おっさんとおばはん』も関西学院大学の学園祭で行われた「サイバネティックスなんたら(正確な名称を思い出せない‥)」というイベントで、確か須山さんの連れがやっていた学内サークルが主催したコンサートでのものだったと思う。
で、話を戻すと須山さんは変身キリン解散後(82年頃)、ソロ活動を始め、現在に至る。とまあ、極めるシンプルるなものとなる。
須山さんの思い出で一番印象に残っているのは1986年の夏、僕が当時入社したばかりのシンコー・ミュージックの音楽プロダクション部でハンパなくコキ使われ(イジメ、シゴキに近いほど)、心身共に疲れ果てていた時、やっと2、3日オフが取れることになった。その時、ソロ活動をしていた須山さんのマネージャーをしていたN山さんという方から、「そんなに大変なんだ。じゃ久しぶりに須山さんのライヴでも観て癒されたら?」と連絡があり、「町田君も連れてくれば?」と言われ、町田氏に連絡を取ると「行こか」という返事があり、町田氏と連れ立って原宿クロコダイルに出掛けてみた。この時、僕も町田氏も須山さんとは数年ぶりの再会だったが、僕が「癒し」を求めて須山さんのライヴに行くという事自体、既に町田氏やN山さん界隈でお笑いネタにされていたらしい(笑)。
どういうことかと言うと、世の中には真摯になればなる程、逆に周囲の笑いを誘ってしまうということがある。それが何かを表現するアーティストの場合、本人の意図とは裏腹にそれが持ち味となって妙な評価をされたりもする。須山さんは正にそんなテイストのアーティストで、ご本人は聴衆に「癒し」や純粋な「感動」を提供しているつもりが、一部の意地悪な輩には笑いを誘ってしまうという結果を招いてしまう、そんな切ない(笑)存在であった。僕はこれ以前の須山さんのライヴと言えば変身キリンというバンドの一員として活動していた時で、1981年の3月に京都のフレンチマーケットというオープンして間もないライヴハウスで観て以来だったが、上記したような笑いを誘うような要素はあまりなかった。しかし、この時の有料入場者は僕一人で、「ホントにライヴやるの?」と聞いたところ「やりますよ」といって約1時間、非常に真摯な態度でライヴをやって頂いた(笑)。が、この時のライヴではそんな笑いを誘うようなパフォーマンスではなかったが、その後若干芸風が変化したらしい。ついでに言うと1980年前後は、この種のアーティストは世間的にはドマイナーな存在で、ライヴハウスに出演する事自体、大変な時代であったし、運よく出演できたとしても集客は数人から50人程度、町田氏のINU(犬)にしてもメジャーデビューした後(結局3カ月で解散してしまう)でも都内で50人から100人程度(デビュー後初の東北ツアーでは場所によっては数人という悲惨な状況)の集客しかなかった。よって大学の学園祭等はこうしたアーティストにとっては大勢の聴衆の前でに演奏できる、正に晴れ舞台であったのだ。
さて、話を原宿クロコダイルのライヴに戻すとこの当時、町田氏は山本政志監督作品の映画『ロビンソンの庭』に出演し、その役作りの為に眉毛を剃った状態だった。
映画「ロビンソンの庭」予告編
上記の動画を見て頂ければお分かりかと思うが、かなりの異相だった(外出時にはサングラスをかけていた)。ライヴハウスに入るとさすがに町田氏はサングラスを取り、ビールをオーダーして飲み食いをして寛いでいると、やがて須山さんがN山さんと連れ立って僕達のテーブルにやって来た。そこで久しぶりに会った町田氏へ須山さんが微笑みながら言った一言、「町田君、眉毛無いんだね」。これには僕も苦笑いするしかなかったが、さすがの町田氏も切り返せず「元気か?俺、今映画出とんねん」と、ありきたりなリアクションしかできなかったのが印象に残っている。僕が割と真剣に「癒されに来ました」と言うと今度はN山さんと町田氏が顔を見合わせて笑っていたが‥。ちなみにこの日はお客さんも150人程でスペース自体はほぼ満員の盛況。何でも須山さんのご両親が真如苑という宗教団体の会員で、その関係の方々が多数訪れていたらしい。確かにちょっと場違いな風情の年配のお客さんが多かったような気がする。それはさておき肝心のライヴだが、コレがやはり‥。この頃の須山さんの芸風はアコーディオンの弾き語りで、このライヴもそのパターンで行われたが、とにかく曲のテーマに忠実に「なり切る」というか、凄まじい程の感情移入をする。記憶にあるのは「横浜のおじいちゃんのうた」という長尺のモノローグ形式の曲で、これは須山さんの実体験に基づいたものらしいが演奏途中、感極まって嗚咽し涙を流しながら(これが何処かの誰かさんのような嘘泣きではない)絶唱する。と思えば次の瞬間にっこり微笑みながら軽やかにスキャットしたりと‥まるで百面相のような変幻自在のパフォーマンスを披露する。がしかし、こちら(聴衆)が須山さん自身の実体験にそれ程感情移入している訳でもないのにマジ泣きされたり笑ったりされても、聴衆置いてきぼりで自分の世界に浸っていられるのもどうも‥(笑)。聴衆を泣かせたり笑わせたりする前に本人がというのも如何なものか?という気もする。という印象を持ったこの日のライヴ。結果的に癒されはしなかったが、途中から僕も笑いをこらえるのに必死で、仕事のストレスや疲れから解放され、十分に癒し効果はあったような気もする。
この翌年、僕が町田氏のミニアルバム『ほな、どないせぇゆうね』(JICC出版/現・宝島社の設立したキャプテンレコードより発売)の制作ディレクションを担当した時(実際、現場では大したことはやらなかったが‥)、何故か町田氏が僕が持っていた変身キリンのライブテープに収録されていた須山さんの擬音語(確か曲のイントロで「ファンファ」と呟く)を、この作品の中でSEとして使いたいと言って『ずぼらな花嫁』という曲のイントロにインサートした。理由はよく分からないが、多分感覚的なものだったのだろう。他にも町田氏と須山さんの関わりでは須山さんがリリースした作品の音源で『乙女のワルツ』という歌謡曲のカバーがあるのだが、何故かこの曲に町田氏が趣あるモノローグ(というか語り・ナレーション)を被せた宅録のテープ・コラージュ音源を聴かせてもらったこともあり、町田氏も事あるごとに須山さんのことをお笑いネタにしつつ、どこか認める部分もあったのだろう。元はと言えば1980年に町田氏が関西で活動していたパンク・ニューウェイブ系バンドに声をかけて『ドッキリ・レコード』というオムニバス・レコード(限定200枚プレス)を制作した時にINU(犬)と共に変身キリンが参加したこともあり、古くからの同志意識もあったはずで、口ではどう言おうとバンド活動を始めた頃はお互いインスパイアし合っていたことは確かだ。
僕が町田氏から直接聞いた、須山さんに関する愛すべき(笑)エピソードには以下のようなものである。
●須山さんは普段、喫煙していた煙草銘柄のハイライトを人前ではわざわざ洋モクのラークの空き箱に詰め替えて吸っていた。
●INU(犬)や変身キリンが中々ライヴハウスで演奏する機会がないので、公共施設(公営の小ホール)を借りてコンサートを企画したことがあった。その際、町田氏が楽屋に持ち込んだビールやバッテラ鮨等のツマミ類を食べ散らかしたまま自分達の出番が終わると片付けもせずにとっとと帰ってしまった。残っていた須山さんがホールの職員に注意され、他のバンドメンバーと楽屋の清掃をしながら「ホンマにもう懲り懲りやわ。町田君たらバッテラとか‥何で私がこないなことせえへんとアカンの!」としきりに愚痴っていた。
●音楽雑誌『フールズメイト』で須山さんの事を「日本のダグマー・クラウゼ」と評してあったことについて町田氏曰く「誰がダグマー・クラウゼやねん。(須山さんが)自分で言うてるだけやろ」と冷笑していた。
※ダグマー・クラウゼとは70年代から英国、ドイツを始めヨーロッパ全域で高い評価を得ている前衛音楽家。ロック、シャンソン、オペラetc.の幅広い芸域を持つ。
とまあ、こんな感じであるが、須山さんというアーティストの魅力?の一端がお分かり頂けたであろうか?最近、ネット上で須山さんのブログを発見したのだが、相変わらずその「愛すべき」キャラ全開で読んでいて思わず和んでしまう、頬を緩ませる内容だった。何でも最近は競馬に目覚めたらしく、競馬を表現のメインテーマに据えてマイペースで活動しているようだ。ブログの文面から察するに昔のナルシストっぷりは影を潜め、やはり生粋の関西人故、しっかり笑いを取る術も心得ているようだ。結婚もされて現在はお子様が高校2年生とのことで、幸福そうで何より。是非もう一度お会いしてみたい。
そして最後に本物の?癒し系アーティストを紹介しておきたい。1980年にニューウェイブ系ロックバンド「チャクラ」のボーカルとしてデビューして以来、一貫して和む系、癒し系の歌を歌い続けて来た小川美潮さんである。この方とはある女性アーティストのライヴの打ち上げで初めてご一緒したのだが、お話ししているだけで不思議とリラックスでき、またその話術も巧みで、何かこちらが吸い込まれてしまうような不思議な魅力に溢れた方だ。勿論、シンガー・ソングライターとしてもその実力は一級品で、彼女の作り出す独自の音世界に皆様一度是非触れて頂きたい。
うまとうたとねこ 須山公美子の公式ブログです。
変身キリン(Henshin Kirin) "Wedding Moon"(1980)※オムニバス「ドッキリレコード」収録
須山公美子「巴里の屋根の下」「少女歌手」(1991)※ナルシストっぷり全開!
須山公美子「天使の街」※「嘆きの天使」ならぬ成り切り天使(笑)
須山公美子「園田でカツ丼を食べよう!」※意味不明ソング
須山公美子「実況の魔物」※コレは笑える
ダグマー・クラウゼ YOUTUBE MIX "Surabaya Johnny"
小川美潮「窓」
INU(犬)の町田氏とはその後悲喜こもごもの人生模様、変転流転数知れずな展開があるわけだが、町田氏を取り巻く人間模様の中でとりわけ思い出深い人物を思い出した。
通称「永遠の少女歌手」(笑)の須山公美子さんである。
この方、それ程親しいお付き合いをしたわけではないが、節目々で会う度に何かしら心和むエピソードを置き土産に残してくれる。簡単にこの方の出自を説明しておくと1961年の早生まれで今年50歳になり、僕と同年代同学年である。横浜生まれで兵庫県宝塚育ち、筋金入りのお嬢様との説もあるが、町田氏その他の証言を総合すると、そうでもなく、愛すべき俗っぽさも持ち合わせた、究極のナルシストらしい。高校・大学と関西学院に在学し、高校時代に同窓だった、後にINU(犬)のギタリストとなる北田氏と「変身キリン」なるパンク・ニューウェイブバンドを結成し、ボーカル、キーボードを担当する。
余談ですが、この関西学院大学というのは中々くせ者?で、1980年代には関西のアンダーグラウンドなロックシーンに数多くのアーティストを排出していた。ハードロック・メタルでは最初のブログで取り上げた元DEAD ENDのギタリストで、BAKIのソロ作品でレコーディングパートナーだった香川君、メンバー全員が女性のプログレバンド、Rosallia、パンク・ニューウェイブ系ではこの須山さんの他に変身キリン~INU(犬)の北田氏他、名前を挙げていけばキリがない。前回INU(犬)の項でYOUTUBE動画をアップしたライヴ音源の『おっさんとおばはん』も関西学院大学の学園祭で行われた「サイバネティックスなんたら(正確な名称を思い出せない‥)」というイベントで、確か須山さんの連れがやっていた学内サークルが主催したコンサートでのものだったと思う。
で、話を戻すと須山さんは変身キリン解散後(82年頃)、ソロ活動を始め、現在に至る。とまあ、極めるシンプルるなものとなる。
須山さんの思い出で一番印象に残っているのは1986年の夏、僕が当時入社したばかりのシンコー・ミュージックの音楽プロダクション部でハンパなくコキ使われ(イジメ、シゴキに近いほど)、心身共に疲れ果てていた時、やっと2、3日オフが取れることになった。その時、ソロ活動をしていた須山さんのマネージャーをしていたN山さんという方から、「そんなに大変なんだ。じゃ久しぶりに須山さんのライヴでも観て癒されたら?」と連絡があり、「町田君も連れてくれば?」と言われ、町田氏に連絡を取ると「行こか」という返事があり、町田氏と連れ立って原宿クロコダイルに出掛けてみた。この時、僕も町田氏も須山さんとは数年ぶりの再会だったが、僕が「癒し」を求めて須山さんのライヴに行くという事自体、既に町田氏やN山さん界隈でお笑いネタにされていたらしい(笑)。
どういうことかと言うと、世の中には真摯になればなる程、逆に周囲の笑いを誘ってしまうということがある。それが何かを表現するアーティストの場合、本人の意図とは裏腹にそれが持ち味となって妙な評価をされたりもする。須山さんは正にそんなテイストのアーティストで、ご本人は聴衆に「癒し」や純粋な「感動」を提供しているつもりが、一部の意地悪な輩には笑いを誘ってしまうという結果を招いてしまう、そんな切ない(笑)存在であった。僕はこれ以前の須山さんのライヴと言えば変身キリンというバンドの一員として活動していた時で、1981年の3月に京都のフレンチマーケットというオープンして間もないライヴハウスで観て以来だったが、上記したような笑いを誘うような要素はあまりなかった。しかし、この時の有料入場者は僕一人で、「ホントにライヴやるの?」と聞いたところ「やりますよ」といって約1時間、非常に真摯な態度でライヴをやって頂いた(笑)。が、この時のライヴではそんな笑いを誘うようなパフォーマンスではなかったが、その後若干芸風が変化したらしい。ついでに言うと1980年前後は、この種のアーティストは世間的にはドマイナーな存在で、ライヴハウスに出演する事自体、大変な時代であったし、運よく出演できたとしても集客は数人から50人程度、町田氏のINU(犬)にしてもメジャーデビューした後(結局3カ月で解散してしまう)でも都内で50人から100人程度(デビュー後初の東北ツアーでは場所によっては数人という悲惨な状況)の集客しかなかった。よって大学の学園祭等はこうしたアーティストにとっては大勢の聴衆の前でに演奏できる、正に晴れ舞台であったのだ。
さて、話を原宿クロコダイルのライヴに戻すとこの当時、町田氏は山本政志監督作品の映画『ロビンソンの庭』に出演し、その役作りの為に眉毛を剃った状態だった。
映画「ロビンソンの庭」予告編
上記の動画を見て頂ければお分かりかと思うが、かなりの異相だった(外出時にはサングラスをかけていた)。ライヴハウスに入るとさすがに町田氏はサングラスを取り、ビールをオーダーして飲み食いをして寛いでいると、やがて須山さんがN山さんと連れ立って僕達のテーブルにやって来た。そこで久しぶりに会った町田氏へ須山さんが微笑みながら言った一言、「町田君、眉毛無いんだね」。これには僕も苦笑いするしかなかったが、さすがの町田氏も切り返せず「元気か?俺、今映画出とんねん」と、ありきたりなリアクションしかできなかったのが印象に残っている。僕が割と真剣に「癒されに来ました」と言うと今度はN山さんと町田氏が顔を見合わせて笑っていたが‥。ちなみにこの日はお客さんも150人程でスペース自体はほぼ満員の盛況。何でも須山さんのご両親が真如苑という宗教団体の会員で、その関係の方々が多数訪れていたらしい。確かにちょっと場違いな風情の年配のお客さんが多かったような気がする。それはさておき肝心のライヴだが、コレがやはり‥。この頃の須山さんの芸風はアコーディオンの弾き語りで、このライヴもそのパターンで行われたが、とにかく曲のテーマに忠実に「なり切る」というか、凄まじい程の感情移入をする。記憶にあるのは「横浜のおじいちゃんのうた」という長尺のモノローグ形式の曲で、これは須山さんの実体験に基づいたものらしいが演奏途中、感極まって嗚咽し涙を流しながら(これが何処かの誰かさんのような嘘泣きではない)絶唱する。と思えば次の瞬間にっこり微笑みながら軽やかにスキャットしたりと‥まるで百面相のような変幻自在のパフォーマンスを披露する。がしかし、こちら(聴衆)が須山さん自身の実体験にそれ程感情移入している訳でもないのにマジ泣きされたり笑ったりされても、聴衆置いてきぼりで自分の世界に浸っていられるのもどうも‥(笑)。聴衆を泣かせたり笑わせたりする前に本人がというのも如何なものか?という気もする。という印象を持ったこの日のライヴ。結果的に癒されはしなかったが、途中から僕も笑いをこらえるのに必死で、仕事のストレスや疲れから解放され、十分に癒し効果はあったような気もする。
この翌年、僕が町田氏のミニアルバム『ほな、どないせぇゆうね』(JICC出版/現・宝島社の設立したキャプテンレコードより発売)の制作ディレクションを担当した時(実際、現場では大したことはやらなかったが‥)、何故か町田氏が僕が持っていた変身キリンのライブテープに収録されていた須山さんの擬音語(確か曲のイントロで「ファンファ」と呟く)を、この作品の中でSEとして使いたいと言って『ずぼらな花嫁』という曲のイントロにインサートした。理由はよく分からないが、多分感覚的なものだったのだろう。他にも町田氏と須山さんの関わりでは須山さんがリリースした作品の音源で『乙女のワルツ』という歌謡曲のカバーがあるのだが、何故かこの曲に町田氏が趣あるモノローグ(というか語り・ナレーション)を被せた宅録のテープ・コラージュ音源を聴かせてもらったこともあり、町田氏も事あるごとに須山さんのことをお笑いネタにしつつ、どこか認める部分もあったのだろう。元はと言えば1980年に町田氏が関西で活動していたパンク・ニューウェイブ系バンドに声をかけて『ドッキリ・レコード』というオムニバス・レコード(限定200枚プレス)を制作した時にINU(犬)と共に変身キリンが参加したこともあり、古くからの同志意識もあったはずで、口ではどう言おうとバンド活動を始めた頃はお互いインスパイアし合っていたことは確かだ。
僕が町田氏から直接聞いた、須山さんに関する愛すべき(笑)エピソードには以下のようなものである。
●須山さんは普段、喫煙していた煙草銘柄のハイライトを人前ではわざわざ洋モクのラークの空き箱に詰め替えて吸っていた。
●INU(犬)や変身キリンが中々ライヴハウスで演奏する機会がないので、公共施設(公営の小ホール)を借りてコンサートを企画したことがあった。その際、町田氏が楽屋に持ち込んだビールやバッテラ鮨等のツマミ類を食べ散らかしたまま自分達の出番が終わると片付けもせずにとっとと帰ってしまった。残っていた須山さんがホールの職員に注意され、他のバンドメンバーと楽屋の清掃をしながら「ホンマにもう懲り懲りやわ。町田君たらバッテラとか‥何で私がこないなことせえへんとアカンの!」としきりに愚痴っていた。
●音楽雑誌『フールズメイト』で須山さんの事を「日本のダグマー・クラウゼ」と評してあったことについて町田氏曰く「誰がダグマー・クラウゼやねん。(須山さんが)自分で言うてるだけやろ」と冷笑していた。
※ダグマー・クラウゼとは70年代から英国、ドイツを始めヨーロッパ全域で高い評価を得ている前衛音楽家。ロック、シャンソン、オペラetc.の幅広い芸域を持つ。
とまあ、こんな感じであるが、須山さんというアーティストの魅力?の一端がお分かり頂けたであろうか?最近、ネット上で須山さんのブログを発見したのだが、相変わらずその「愛すべき」キャラ全開で読んでいて思わず和んでしまう、頬を緩ませる内容だった。何でも最近は競馬に目覚めたらしく、競馬を表現のメインテーマに据えてマイペースで活動しているようだ。ブログの文面から察するに昔のナルシストっぷりは影を潜め、やはり生粋の関西人故、しっかり笑いを取る術も心得ているようだ。結婚もされて現在はお子様が高校2年生とのことで、幸福そうで何より。是非もう一度お会いしてみたい。
そして最後に本物の?癒し系アーティストを紹介しておきたい。1980年にニューウェイブ系ロックバンド「チャクラ」のボーカルとしてデビューして以来、一貫して和む系、癒し系の歌を歌い続けて来た小川美潮さんである。この方とはある女性アーティストのライヴの打ち上げで初めてご一緒したのだが、お話ししているだけで不思議とリラックスでき、またその話術も巧みで、何かこちらが吸い込まれてしまうような不思議な魅力に溢れた方だ。勿論、シンガー・ソングライターとしてもその実力は一級品で、彼女の作り出す独自の音世界に皆様一度是非触れて頂きたい。
うまとうたとねこ 須山公美子の公式ブログです。
変身キリン(Henshin Kirin) "Wedding Moon"(1980)※オムニバス「ドッキリレコード」収録
須山公美子「巴里の屋根の下」「少女歌手」(1991)※ナルシストっぷり全開!
須山公美子「天使の街」※「嘆きの天使」ならぬ成り切り天使(笑)
須山公美子「園田でカツ丼を食べよう!」※意味不明ソング
須山公美子「実況の魔物」※コレは笑える
ダグマー・クラウゼ YOUTUBE MIX "Surabaya Johnny"
小川美潮「窓」