明日5月27日の横浜でのパーティー『SALUD 改 臨海AREA PRESENTS Q-VO VOL.5』でのスペシャル・ゲスト出演を皮切りに沖縄、豊橋、広島と日本縦断ツアーを行うチカノ・ラップのゴッドファーザー、キッド・フロスト改めフロスト。

フロスト・ジャパン・ツアー 2011 プロモーター『K.O.G.のブログ-FROST JAPAN TOUR 2011-』

この機会に先に紹介した西海岸ギャングスタラップのパイオニア、アイス-Tとフロストの並々ならぬ深い絆やチカノ・ラップの黎明期の状況等、興趣そそる記述満載のヒップホップ・マガジン、ヴァイブ誌のアーカイブ・ムック『ヒストリー・オブ・ザ・ヒップホップ』(1999年刊)の日本語訳から一部抜粋してみます(文:ベン・ヒガ)。

EARLY LOS ANGELS HIPHOP

「NYの動きに刺激された、西海岸ヒップホップの夜明け」

ニュージャージーで起こった悲惨な自動車事故で両親を亡くした後、トレーシー・マーロウ少年はその思春期を南カリフォルニアの親戚の元で過ごした。クレンショウ・ハイスクールに通いながら、トレーシーはウエスト・コースト・ロックスミスやザ・レディオ・クルー(後者は1983年のドキュメンタリー映画『Breakin' and Enterin'』(注①)にも出演している)と一緒に踊っていた。(※ブレイクダンスクルー)LAのストリート・ライフにすっかり感化されてしまった彼は、まだ結成間もないクリップスの面々と行動を共にし、アイスバーグ・スリムやドナルド・ゴインズといったゲットーの大衆文学作家たちを貪るよいに読み耽った。実のところ、アイスバーグ・スリムの生々しく鮮烈な作品にすっかり心酔していたトレーシーは、やがて自らアイス・Tという別人格をまとうようになった-言うまでもなくアイスはアイスバーグの省略形であり、Tはトレーシーの頭文字である。
「クレンショウに通ってる頃、俺はしょっちゅう学校の壁という壁にギャングのスローガンを書きなぐってた。"Crips don't die,they multipy(クリップスは滅びない、倍増していくだけ)"とかね」、アイスは当時を振り返って言う。「それから長いライムもよく書いていた-こいつはビート云々て考えるようになるずっと前の話だぜ-何しろ俺はアイスバーグ・スリムをしょっちゅう読んでたし、プレイヤーたちが"toastin’(※誰か特定の相手を皮肉ったりからかったりしながら攻撃すること)"て呼んでたもんにも馴染みがあったからさ」。
少しの 間軍隊で過ごした後、アイス・Tはダンス系のプロモーターになろうという決意を持ってシーンに戻ってきた。「それなら大して苦労せずに手っ取り早く金稼げると思ったんだよ。けど何回かの興業で機材の搬入搬出繰り返したところで、俺はもうすっかりウンザリしちまってね。こんなんだったら自分でマイク掴んでステージに出て、ギャラもらってとっとと帰って、自分じゃ機材も何にも持たなくていい、って方がずっといいと思ったし、俺には十分それがやれると思った。それでDJとMCってユニットの方向でやってくことに決めたんだ」と彼は語る。
美容室に来ていた女性たちの関心を買うためにライムしているところを見い出だされ、アイス・Tはいよいよ自分のリリックをレコード盤に刻み込む決心をする。サターン・レコードからリリースされた2枚のシングル"The Coldest Rap"と"Cold Wind Madness"は、そのリリックの過激さゆえに実質的には殆どエアプレイは皆無だったにも拘わらず、この後彼が延々と獲得し続けることになるゴールド・ディスクの先触れとなった。
Tとメキシコ系アメリカ人のラッパー、キッド・フロスト(注②)はリリックにおけるランニング・メイト(※競馬で、出走する馬の歩調を整えるために一緒に走らせる同じ厩舎の馬を指す言葉)パートナーとなった。彼らは地元じゅうのバックヤード・パーティーやローライダー(シャコタン)の車のショウでパフォームして回った。Tはやがてユニヴァーサル・ズールー・ネイションのスピリチュアル・リーダー、アフリカ・バンバータ(注③)に引き合わされ、その非暴力の理念に感化される。さらにそれから間もなく、彼は後に音楽的パートナーとなるアフリカ・イスラムと、ヘン・Gとイーヴィル・Eから成るユニット、ニューヨーク・シティ・スピンマスターズ(注④)に出会う。
これら東海岸のビート職人たちの協力を得たアイス・Tの作品は、西と東の連帯を象徴する行動として捉えられるようになった。"Colder Than Ever"はこのサウンドとライムの新たな混成の可能性を端的に示すものだ。”ブレイキングを始めたのは東だがポップに弾けたのは西の方/けどそれが何だって言うんだ、ロックしてりゃそれでいいじゃねえか/ゲットーはゲットーで/ストリートはストリートだ/ヒップはホップでビートはビート/さあ、みんなで一緒にノッて行こうぜ”
『ザ・レディオ』と『レディオトロン』という二つのクラブは、80年代ヒップホップとほぼ同義語といっていい存在だった。スーパーAJとKKが共同経営する『レディオ』が店を開いたのは1982年のことである。グラフィティ・アーティスト兼画家兼オールラウンドなハードコア・ヒップホッパーを自認していたAJは、ニューヨークのロキシーのようなスタイルのアンダーグラウンドのクラブを作りたいと考えたのだった。アイス・Tは言う。「AJはロシア人で、パリやニューヨークで暮らしてた経験の持ち主でね。奴こそが本当の意味でヒップホップをウエスト・コーストに持ってきた人物さ。知る人ぞ知る影のヒーローだ。
開店当時の『レディオ』は、客層の90%が白人だった。パンク・ロックに夢中だったのが、時代の流れでヒップホップに傾いて来たクチさ。俺たちはよくマルコム・マクラレンやトーマス・ドルビー、マドンナなんかとあそこで一緒になったもんだよ」。
リオ・コーエンもまた、パンクとヒップホップの融合促進を図った人物で、自分の所有する『ミックス・クラブ』でスイタイダル・テンデンシーズ(注⑤)とRun DMC(注⑥)を同じ晩に並べてブッキングしたりしていた。とはいえそれも、ラッセル・シモンズが彼の仕事ぶりに興味を抱き、デフ・ジャム・レコードの経営を手伝わせるために引き抜いて、ニューヨークに流れていってしまうまでのことだが。
『レディオ』は(専属DJのクリス”グラヴ”テイラーともども)アンダーグラウンド・レヴェルでは成功を収めたが、クラブの所有者側と建物の新たな貸主、カーメロ・アルヴァレスとの確執により、早々に店の生命を断たれることとなった。また『レディオ』という名前の所有権をめぐる争いで、店は1984年の映画『Breakin'』の撮影に際して『レディオトロン』と改名することを余儀なくされる。撮影終了後、コミュニティの若き活動家だったアルヴァレスは、荒れ果てたビルを改装し、『レディオトロン』の名前はそのままに、青少年向けのコミュニティ・センターとして再オープンしたのだった。
犯罪とドラッグの巣窟のウエストレイク地区の真っ只中で、このセンターはやがて若い新進気鋭のストリート・ダンサーやラッパー、グラフィティ・アーティストたち-その多くはラティーノであり、当時激化していた中米エルサルバドルの悲惨な独立戦争から何とか逃れてきた移民や難民の子供たち-に希望の灯を与える場所となる。センターはブレイク・ダンスやグラフィティ・アートといった芸術活動を教えるクラスを設けて、家出した子供たちやホームレスの家族向けた避難所の役割を果たした。
センターの所有者はやがてこの建物を売却して小さなショッピング・モールを造ったが、『レディオトロン』の2年間の活動は半ば伝説的なオーラと共に地域の人々に語り継がれるようになった。センターの閉鎖は、新たに市が発令した、公共の場で許可なく躍れば罰金を課すという条例やギャング勢力の台頭、そしてクラック(※この時期出回った新種の安価なドラッグ)の爆発的流行と相まって、若者たちにハリウッドではまだ十分にその可能性を追求されていなかった次のアンダーグラウンドな自己表現に向かわせることになる-グラフィティだ。(TO BE CONTINUED...)

①Ice-T feat."Breakin' and Enterin'"(有名なブレイクダンス・バトルのシーン有り)

②Frost a.k.a.Kid Frost YOUTUBE MIX:"La Raza"

③Africa Bambaataa YOUTUBE MIX:"Planet Rock"

④The Spin Masters Hen G & Evil E performing live in concert at Bell High

⑤Suicidal Tendencies YOUTUBE MIX:"Institutionalized"

⑥Run DMC YOUTUBE MIX:"Down With The King"