クリスマスはサタンの勝利。という皮肉な事実について。 | 高き天を仰いで。

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サムおじさん。のブログです。

クリスマス、結局何もしなんだ、できなんだ。仕事、仕事、ぼやき、仕事、休み←今ココ。ww

しかし今年はつくづく、クリスマスの意義を知った歳だった。

全世界よ、クリスマスをイエスさまにお返しする気はないのか!!?www

クリスマス、それはキリストのおまつり。。そう言ってるのは教会だけ。その教会も教会にサンタを送り込んで混ぜモノまみれになっている。全世界にイタっては、サンタ、サンタで終始する。
クリスマスのどこにイエスがおられるのか?!

おられるわけがない。もともとクリスマスはクリスマスではなかった。ガリア地方の主神、ミトラの祝祭日だった。暦的には冬至に当たるので、日本の農耕暦でもそうであるように民族の神話と密接に結びついていた暦において、主神ミトラがこの日に生まれたという日。
キリスト教がローマの国教とされた当時でもまだポピュラーでなかったキリスト教を広めるため、当時ローマにおいてキリストよりもポピュラーだったミトラ教の風俗に軒先を借りたのである。
クリスマスが偶像であふれる日になってしまうのはこの時点で運命付けられたとみなければなるまい。

わたし自身は、イエスはおそらく、仮庵の祭りの頃にお生まれになったという説が近いのではないか、と思う。

しかし、大事なのはそこではないのだ。
イエスはこのクリスマスをもご自分の栄光のためには許してくださりながらも、このことをわたしたちに切に望んでおられるだろうと思う。

それはイエスのみ思いを今こそ全世界が知ること。それは互いに愛し、いつくしみ、かけたところを補いながら、互いの利のためではなくお互いのいのちを尊ぶことに力を尽くしていくということである。

クリスマスに教えなければいけないことがあるのではないか。
それは愛すること、互いのいのちを、こころを、そしてその存在を。だからわたしたちは、あなたのためにここまでするのだよ、と。神がわたしたちをここまで愛してくださってくださったから、わたしたちも愛するのだ、と。だからあなたもだれかのために愛の行いをしなさい、と。

かつてイエスはその模範を教えようとして言われたのだ、自分を愛してくれるものために愛したからといって何の報いがあろうか、そんなことは収税人でもやっている。愛するならば自分に敵対するものをも愛し、迫害するもののために祈りなさい。

まだいじめられ、迫害され、この世から不必要なもののような扱いを受けていた幼い日の私にはこの聖句が理解できなかった。イエスがともに歩んでくださる存在となった今、初めてそれが見えてきた。そう、イエスがともに歩んでくださるのでなければ、いかに豪華なクリスマスも全く意味がない。教会で、キリスト教を国教とする国で、どんなに豪華なカテドラルでクリスマスが行われようと、もしそこにイエスがおられないならば、それはサンタとサタンのクリスマスにすぎないのである。