色々バタバタし始め、更新が滞っており申し訳ありません。。。

<小牧山城>

昭和2年に国の指定史跡になった、愛知県小牧市にある
「小牧山城」に参りました!!
小牧山は標高85、9mで、平野の中央にポツンと孤立する小山で、
1563年に美濃(現在の岐阜)攻略の為に織田信長によって築城され、
清洲城から移動してきました。

その後1567年には美濃の斎藤龍興を攻略して岐阜城を取り、
移動して小牧山城は廃城となりました。

<小牧市市役所>

現在の小牧山城の一部は、小牧市役所になっています。
この市役所の正面口からも、実はそのまま小牧山城に上がれたりもします。

<小牧山案内図>

本能寺の変の後、織田家の後継者争いが起き、
1584年に豊臣秀吉VS信長次男信雄・徳川家康連合軍が、
ここ小牧で対陣しました。(小牧・長久手の戦い)
小牧北部に豊臣秀吉は陣を敷き、
信雄・家康連合軍はここ小牧山城に主陣を敷きました。

<小牧山城古地図>

よってこの小牧山城は、
織田信長が築いた城跡を、徳川家康が改修して使ったという
3人中2人の天下人が手掛けた城ということですね!!

<大手道>

小牧市役所のすぐ西側に長くまっすぐ続く大手道があります。
まっすぐ続いて、上部に近づくとクネクネ道を曲げる様子は、
規模は違えどまるで安土城の様ですね!!

<桜の馬場>

大手道を登っていくと、右手に広い広場が出てきます。
ここは現在桜の馬場と言われているので、春になったら桜が綺麗なのでしょうね!!
結構な広さがあるので、昔はここで馬の訓練などが行われていたのでしょう。

<桜の馬場近くの稲荷神社>



<徳川源明公の碑>

尾張藩9代目藩主の徳川源明(宗睦)公の碑があります。
この方は新田開発や殖産興業政策、治水工事などで多くの成功を収め、
刑法の改正、代官制度の整備、学校の創設など、幅広く尾張藩の改革をしました。

<観音洞>

桜の馬場からそのまま歩いていくと
「観音洞(かんのんぼら)」という広場に出てきました。
むか~しむかし、
乳の出ない妻に食わせようと、子を孕んだ鹿を撃ちに
狩人が小牧山に登りました。
すると七匹の子鹿を連れた子孕み鹿を見つけて撃つと、
子鹿は7つの石に、母鹿は観音像に変ったそうですΣ(゚д゚;)!!

狩人はこれをみて殺生を悔い、その地に草庵を結び、観音像を祭ったそうです。。。
それが「観音洞」の由来だそうです!!

<現在地>

徳川源明公の碑から観音洞まで行って、現在地の所までまた降ってきました(・∀・)

<西自然遊歩道>

このような階段があり、とても簡単に降りることができました('-^*)/!!


<空堀>

この自然遊歩道を歩いていると、空堀跡を間近で見ることが出来ます。

<遊歩道と空堀>

当時からの地形を利用して遊歩道が造られている様なので、
大小のアップダウンがあります。

<空堀と土塁の変遷>

画像悪くて小さいから見えるかな??
時代時代で土塁と空堀が変遷している様ですね!!

<清洲ふるさとのやかた>

本丸跡には清洲古城公園と共に、「清洲ふるさとのやかた」と書かれた建物が建っていました。
ここには解説してくれるボランティアの方々が待機しており、
休憩所もあり、お土産屋さんもあり、ゆっくりできる場所でした。

<清洲甲冑工房>

同じ建物の裏側には「清洲甲冑工房」というお店がありました。
入口からは中が見えなかったので、とても足を踏み入れ難く撤退。。。
ちょっと見てみたかったかも。。。

<あしがるサイクル>

ふるさとのやかた内で自転車を借りることも出来ます!!
これで楽に周囲を探索できますね!!
歩いたけど(・∀・)

<分岐点>

「信長公銅像への道」って書いてあるから行ってみたよ!!
ってか離れた場所にあるんだね(・∀・)。。。

<電車の橋脚>

ブラタモリ並みに歩いて見回して見ると、電車の橋脚が明治時代っぽい事に気づく。。。
まぁ、そんだけなんだけど、長い時間日本の交通を支えているんだなぁってね。。。

<橋の根元>

電車が通る度に「ガツンガツン!!」と凄い音を立ててるからよくよく見ると、
なんと未だにレンガΣ(・ω・;|||!!

戦国時代とは全然違いますが、
橋の下をテクテク歩いているだけで歴史を感じられて、
なんかポ~っと明治時代のこの場所を考えてしまいました(・∀・)

<信長公銅像への道>

清洲ふるさとのやかたから200メートル位歩いて行くと清洲公園があります。
写真で言うと真正面の木々の辺りです!!
その清洲公園でようやく出会えました!!

<信長公 銅像>

昭和11年に26歳桶狭間出陣の雄姿を模した信長公銅像です!!
カッコいいですねо(ж>▽<)y ☆!!
この信長様は桶狭間の方角を睨んでいるそうです!!

信長様が睨んでいる桶狭間方面ではありませんが、
清洲城を後にして次の目的地へ向かいます!!

<天守閣と大手橋>

清洲城天守閣を降りて外へ出てきました!!
写真は城門が閉まっている日の物ですがあしからず。。。

この赤い大手橋を渡ると、昔清洲城があった場所になります。

<清洲古城跡の碑>

清洲城(その1)でも書きましたが、
清洲城の始まりは、足利政権の尾張守護だった斯波義重が守護所下津城の別郭として、
鎌倉街道と伊勢街道が合流する要所の清洲に築城したと伝わっています。

その後1476年に戦乱で下津城が消失すると、守護所は清洲城に移ったようです。

<清洲古城公園>

この時期には尾張国は守護代の織田氏が力を持つようになり、
清洲織田家当主信友が守護の斯波義統を殺害したのをきっかけに、
1555年、那古野城にいた織田信長は、
清洲城を攻撃して清洲織田家当主信友を討ち、 清洲城を本拠地として尾張を支配します。

そして1560年の織田VS今川の桶狭間の合戦に勝利する等、
下の者が上の者を討ちのし上がるという「下剋上(げこくじょう)」が
次々に展開された土地が清洲城です。

<織田信長公を祀るお社>

各地の大名を着々と撃破し、版図を広げていった織田信長でしたが、
1582年に明智光秀の謀反により討たれてしまいます(本能寺の変)

その年には清洲城で織田家の後継者の決定と、
織田家の領地配分の決定がなされました。

<発掘された石材を使って復元された石垣>

織田信雄が清洲会議により、
尾張、伊勢、伊賀の領主になり伊勢長島に居城を構えましたが、
相次ぐ天災で、清洲城に本拠地を移しました。

その頃に大改修が行われたらしく、天守、館、三重堀などを築き、過去最大規模になります。

しかし1610年に清洲廃都、名古屋遷都の指示が徳川家康より発動され、
清洲城の石垣、橋、武家屋敷、櫓などの古材は名古屋城築城に利用され、
すっからかん状態で清洲城は廃城となりました。

<復元された石垣>


復元された石垣は、平成8年の遺跡調査によって発掘された石垣で、
清洲越し直前の本丸南側の石垣と考えられているそうです。


それでは清洲城天守閣内に入ってみます!!

一階は古代から現代までの清須の成り立ちと歩みを学ぶことができます。

<清洲城下町ジオラマ>

二階には城下町と清洲城について学べる階になっています。
説明映像と共に巨大な清洲城下のジオラマにスポットライトが照らし、
当時の事が解りやすくなっています。

<二階の石落としから石を落とそうとするマネキン>

所々に具足や着物を着たマネキンが居て、当時の状況を見て感じることができます!!
この石落としから石を落とそうとしているマネキンなんて本当に落とそうとしているみたいに見えます!!
でも石が大きすぎない(・∀・)??

三階は清洲城が歴史に果たした深い役割や功績を知ることができます。

<天守閣四階からの景観>

シャチホコがこんにちは(^O^)/!!
お鼻のでかさがひょうきんです( ´艸`)!!

<金華山を望む>

遥か遠くにある金華山(岐阜城)も小さく見え、
その後ろには真っ白な雪を帯びた山脈も見えて、とてもとても綺麗でした!!

<名古屋城方面を望む>

若干ガスってますが、一応ど真ん中に名古屋城が写っているはずだけど見えない(´・ω・`)。。。
昔はこんな大きな建物は建っていなかったから、ストレートに名古屋城が見えていたんでしょうね!!

<犬山・小牧山方面を望む>

もうこれはどこがどこなのかわかりませんね(´・ω・`)。。。

<天守閣から真下を見てみる>

清洲城広場の所では、現在城下町の発掘をしている様でした!!
以後はそのまま広場にするのか、小さな町並みを作るのか楽しみですね!!

<清洲城下町遺跡説明文>

色々出土しているようですね!!
これら出土したものも清洲城天守閣内に展示するのでしょうかね。。。

<発掘現場>

発掘現場って感じがする掘り具合です( ´艸`)

復興天守閣を回った所で、次は周囲を回るとします('-^*)/


遂に一年経ちましたね。。。

震災に遭われて亡くなられた方々にお冥福をお祈りいたします。

復興が少しずつしか進んでいない現実。。。

未だに終息しない福島原発。。。

東北の方々も頑張っており、日本中も東北の分も取り戻そうと頑張っている。。。

仕事を辞めてから毎月影ながらやっていた5000円募金もできなくなっている(収入ないから)。。。

僕は明日で33歳。。。

そして現在は所謂無職。。。

しかし、焦らずじっくり照準絞って一気に動く!!

静岡県は東海地震が来る予想が昔からある県で、今週は地震に対しての静岡県限定の番組が多くやっている。

目を背けないようにしっかり受け止め、いずれ(近いうち)来る大地震に備えます。。。

そしてあの震災を忘れないように。。。