松平・徳川家の菩提寺である「大樹寺」に参りました!!

大樹寺は松平家四代目親忠の創建です。


徳川家康が19歳の時、桶狭間の戦いによって今川義元が討死をし、

配下であった家康の身も大変危険だったため、

配置されていた大高城からこの大樹寺に逃れてきました。


「もう逃げられないorz。。。」

と悟った家康は先祖の墓前で切腹を覚悟しました!!

しかし、時の住職に、

「厭離穢土 欣求浄土(おんりえど ごんぐじょうど)」

戦国乱世を住みよい浄土にするのがアナタ様の役目!!と諭し、

家康は切腹を止め、この8文字を旗印として天下泰平に向け躍進するのです!!


この時家康を追撃する野武士の一隊が大樹寺を取り囲みましたが、

寺僧の一人「祖洞和尚」が門のカンヌキを引き抜き打って出て、

一人無双モードで敵を撃退(((゜д゜;)))!!

おそるべし!!和尚無双( ̄□ ̄;)!!!!


その時に使用されたカンヌキが現在でも「貫木神」として、

この大樹寺に安置されているそうです!!

そういえば何かのTV番組で見たような。。。


こうして家康さんは一命を取り留めたのです!!


境内には1535年「松平清康」建立の「多宝塔」があります。

足利時代末期にできたこの建築物は、国の重要文化財に指定されています。


本堂内には文化財収蔵庫、位牌堂があり、貴重な遺物を見ることができます。

特に位牌堂はすごいです。

松平8代と徳川家14代までの位牌があるのですが、

徳川将軍の位牌はなんと等身大で作られているのですΣ(・ω・ノ)ノ!

あんなデカイ位牌は見たことない!!


位牌全てに手を合せ、外に出て訪れたのは廟所です!!

松平親忠は大樹寺創建の際、先祖三代の墓を移祭し廟所を建立。

1617年の家康公一周忌にあたり、

二代将軍秀忠は先祖松平8代の廟所を修復再建しました。


昭和44年に岡崎市民によって家康さんの遺徳を顕彰し、

遺品を納めたお墓と碑が建立されたそうです。


徳川家1+松平家8で9つのお墓がズラっと並んでいます。

ここで19歳の家康さんは、

「自分の代で松平家が潰れる事をお許しくださいorz。。。」

と膝を落として切腹を覚悟したのでしょうね。。。


さて、噂の「ビスタライン」を大樹寺から岡崎城に向けて見てみましょう!!

どんな光景を見ることができるのでしょうかo(^▽^)oワクワク


この立派な山門の下に立って見てみましょう!!

この山門自体も1641年に徳川家光により建立された歴史あるもの!!

県の指定文化財です!!


ビスタラインはこれだぁ(σ・∀・)σ!!

見えるかな!!

ほらほら!!総門(小学校の向うの門)の中に見えますよ(・∀・)!!


超ズームでぃ♪(*^ ・^)ノ⌒☆!!

これなら見えるでしょう!!

案外遠いですがしっかり見えますね!!


一応岡崎城側からのビスタライン!!

今度しっかり時間を作って岡崎をリベンジせねば(b^-゜)

天守閣内は撮影禁止ですので、

天守閣上からの景色をお楽しみください('-^*)/


微妙に「久」の文字が見えます!!

ここは「カクキュー」さんという、

国の文化財に指定されている蔵などを持つ老舗八丁味噌のお店です!!

今度時間をしっかり作って、また岡崎を散策しなきゃ(・∀・)!!

八丁味噌屋さん行きたい行きたいヘ(゚∀゚*)ノ


天守閣上から付櫓を見下ろしてみる。

建物が連なっていますね(°∀°)b !!


北側面にはこの様な円筒があります!!

この円筒を覗くと、松平・徳川家の菩提寺である「大樹寺」が見えるようです!!


岡崎城から大樹寺に向かって「ビスタライン」というものが引かれています。

「ビスタ」の意味は「展望・眺望」で、その距離は約3kmに及ぶそうです。


1641年に徳川三代将軍「家光」が家康の17回忌を機に、

徳川家の祖先である松平家の菩提寺である大樹寺の伽藍の大造営を行う際

「祖父生誕の地を望めるように」との想いを守るため、

本堂から三門、総門(現在は大樹寺小学校南門)を通して、

その真中に岡崎城が望めるように伽藍を配置したことに由来しています。


このビスタライン上には高層建築物の建築は禁止され、

その展望は守られていますヽ(*'0'*)ツ!!

ちょっと3km先だと小さくてわかりませんね~。。。


ここだよ~ヽ(゚◇゚ )ノ!!
地元の方々が一生懸命守ろうとしている気持ちが伝わりますね!!

平成21年には、
大樹寺から岡崎城に向けて「光のビスタライン」というイベントが行われたそうです。

大樹寺からサーチライトで岡崎城を照らす!!というもの!!


岡崎城側はメッチャ眩しそうですね。。。


二の丸跡まで戻ってきました!!

ここは「二の丸能楽堂」だそうで、ご利用できるらしいです!!


二の丸には「三河武士のやかた 家康館」なるものがあり、

松平・徳川家の歴史を勉強することができるらしいです。。。


次は早く来てしっかり見学するよ!!

今回は100名城スタンプで精一杯でしたorz。。。


徳川家康の像もありました!!

あぁ。。。鳥のふんが。。。


これはやっぱり比較しなくては(・∀・)/!!


これで浜松城、駿府城、岡崎城の家康像がそろい踏み(・ω・)b!!

みなさんはどの家康さんがお好きかな??


あぁ。。。君が最高の殿様だよヾ(。`Д´。)ノコラー!!

家康さんのお顔がなんとなく悲しげです(´・ω・`)。。。


大好物の「五平餅」をまた食べながら(岡崎城で二回食べた)、

二の丸御殿の井戸跡を見てました(・∀・)

この井戸は江戸時代の石組井戸で、平成19年の発掘調査で発見されたそうです。


ダッシュで回ったので、多少時間に余裕が出来たので、

後ほど大樹寺にも足を運びます!!


明治維新時の破却を逃れた石垣や堀を現在でも見ることができます。
鬱蒼(うっそう)とした木々で日は遮られ、
湿度が高い為か石垣にはコケが産しています。

なかなか深い堀が張り巡らされています。
雨などが降っても水が溜まらないように、
南側の水堀に流れていくような造りになっていました。

石垣の跡からここに門があったことがわかりますね!!
この石垣の先に岡崎城天守閣があるのですね!!
行ってみましょう('-^*)/!!

本丸には「龍城神社」がありました。

岡崎城は別名「龍城」というらしく、

その昔、岡崎城の起源である城が15世紀前半頃に、

明大寺の地に「西郷頼嗣(さいごうよりつぐ)」により築城されました。

その時に「龍神」が現れたという伝説がある事から、

「龍城」という別名になったそうです。


岡崎城天守閣に寄り添うように建っています。
いつも通りに
これまでの道のりが無事に行けたことに感謝(-人-)!!

巫女さんが竹箒で境内をお掃除してました。
ここで結婚式も執り行われることもあるんですね(^O^)!!

二本の松の樹がお邪魔をなさっていますが、
岡崎城天守閣です('-^*)/!!

純白の白漆喰の壁と、黒に塗られた木の壁の色の使い分けが渋いです!!
岡崎城も復元天守ですが、やっぱりお城ってカッコイイですねヘ(゚∀゚*)ノ!!

良い天守閣の写真を撮ろうとあちこち動いてみましたが、
なかなか良いポジションが岡崎城は無いものですね。。。
む。。。ムズイ(´□`。)。。。

遠くに見えるホテルの上からならしっかり撮れそうですが、
写真撮るだけで突撃できる勇気は僕にはありません(T▽T;)。。。

恒例の鯱(しゃちほこ)アップです('-^*)/
目だけ金箔が施されています!!

天守閣の南西にあった茶室からも見えたので撮ってみた。

手前の建物で隠れてしまったorz。。。

天守閣の写真を(誠に遺憾ながら)諦めて、
天守閣に登ります!!

っとその前に入口前にあった亀さん!!
背負っている石碑には徳川家康の人生訓と云われるあれが!!

人の一生は重荷を背負うて遠き道を行くが如し
急ぐべからず
不自由を常と思えば不足なし
心に望みおこらば困窮したる時を思い出すべし
堪忍は無事長久の基
怒りは敵と思え
勝つことばかりを知り、負くる事を知らざれば、害その身に至る
己を責めて人を責むるな
及ばざるは過ぎたるに勝れり

大手門から二の丸まで行ったにもかかわらず、

外周を回りたくなって、一回外に出て散策開始いたしました!!


今更ながら「岡崎城」の概要を家康さんの歴史と共にお話しします。


岡崎城は1531年に家康の祖父である「松平清康」によって、

今の地に築城されたそうです。

そして1542年に竹千代(徳川家康)はこの岡崎城にて誕生いたしました!!


しかし!!


竹千代ちゃんは6歳の時に織田信秀(信長の父ちゃん)の人質になり、

8歳の時には今川義元の人質となります。


「人質」と言っても皆さんのイメージする人質とは違います!!

しっかり文武の教育も受け、一人の武将として扱われます。


竹千代ちゃんもしっかり勉強して大きくなって「元康」と改名し、

今川家一門の武将として働くのです!!

もちろん人質の身ですから、まだ岡崎城を居城とはしていません。


しかし!!

1560年の「桶狭間の戦い」により総大将で、

元康さんを人質としていた「今川義元」は「織田信長」の手により討死!!


「あれ!!俺自由なんじゃね!?」と思った元康さんは岡崎城を取り戻し拠点として、

名も「徳川家康」と改名し、天下統一への道を歩み始めるのです!!


絶対この時点で頭の上に「???」が浮いている人の顔が見えるので。。。

一応ね(・∀・)アハハ


徳川家康の名前は。。。

松平竹千代→松平元康→徳川家康ですよ('-^*)/!!


ここは岡崎城内に残る「産湯の井戸」といわれるものがあります。

その名の通り、竹千代ちゃんが誕生する際、

必要な産湯の元である水をここから汲んでいたのですね!!


ここは「胞衣塚(えなづか)」です。

「胞衣(えな)」とは胎盤のことね('-^*)/。

浜松には家康さんの子の「秀康の胞衣塚」がありましたね!!

昔はもっと南の方にあったのをこちらに移設し記念としたそうです。


ってことは井戸と胞衣塚の間にある「坂谷門阯」とある

このあたりで竹千代ちゃんは生まれたのかなぁ(^~^)。。。


ここに建物があって、

肩に紐を巻いて袴を引き上げてタライを持って、

さっきの井戸にセカセカ走る男の人をイメージしてしまいます(・∀・)


話しは戻しまして、

1568年末遠江(静岡県浜松)に侵攻し、翌年曳馬城攻略。

1570年に徳川家康は本拠地を岡崎城から

攻略まもない曳馬城に移し浜松城と改名!!

浜松城を今川家駿府攻略の最前線としました(・ω・)/。


岡崎城を離れた家康さんは、長男の信康を岡崎城主としました。

しかししかし!!

その長男信康は盟友(主?)織田信長からの命により、

1579年に浜松城の北にある「二俣城」にて切腹(ノω・、)!!


その後は徳川家家臣「石川数正」「本多重次」が城代になり、

豊臣家の時代になり「田中吉政」が城主となり、

徳川幕府が開かれると、

本多家、水野家、松平家と家格の高い譜代大名が城主となりました。


本丸南側下の石垣にはコケが生えてて、良い味出してます!!

家康が拡張した岡崎城は、

田中吉政の時代に大規模な城郭の拡張整備を行い、

1592年に城の東・北・西に総延長4.7kmに及ぶ総堀を巡らしました。


城郭の整備に伴って、近くを通る「東海道」が城下に引き入れられて、

1609年には「伝馬町」が出来て、

岡崎は東海道有数の宿場町として繁栄したそうです。


そして1617年「本多康紀」の時に、

三層三階地下一階で東に井戸櫓、南に付櫓をもつ複合天守閣が建ったそうです。


明治維新で城郭の大部分が破壊されてしまいましたが、
堀と石垣が昔の面影を伝えてくれます。。。

そんなパンフレットの文章を書き換えつつ、レッツ天守閣へ(・∀・)!!