「太原崇孚雪斎(たいげんすうふせっさい)」


1496年~1555年

臨済宗の僧侶で、当時「九英承菊(きゅうえいしょうぎく)」という名前でした。

父方は「庵原(いはら)氏」母方は「興津(おきつ)氏」の子と言われています。


「庵原」も「興津」も現在の静岡県の町の名前で残っています!!

この両家は静岡県発ということが現在でもわかり、雪斎さんは静岡県出身ということがわかりますね。


京都の「建仁寺」で修行中だった九英承菊さんはとても秀才で、

その噂を聞きつけた「今川氏親(義元の父ちゃん)」は、

帰国して今川家に仕える様に要請しました。


数回この要請を断りましたが受け入れ帰国した九英承菊さんは、

今川家五男の「芳菊丸(ほうぎくまる)」の教育係りに任じられました。

1530年「建仁寺」にて芳菊丸は「承芳」と名を改め、

この頃九英承菊も「太原崇孚(たいげんすうふ)」と改名します。


1535年に駿府に帰国し、翌年今川氏親の跡を継いでいた「氏輝(うじてる)」が死去。

今川家で後継者争いが起こります!!


それが今回「花倉城」が舞台である「花倉の乱」です!!

花倉の乱で勝利をおさめた承芳は今川家当主「今川義元」となり、

雪斎も政治・軍事・外交を担当する最高顧問として重用されました。


最高顧問(軍師)になった雪斎さんは、こんな実績を作りました!!

(以下Wikipediaより)


・1537年武田氏と婚姻同盟締結。

・駿東における北条氏との折衝。

・西三河方面での対織田氏総大将として行動。

・1547年田原城攻略。

・1548年小豆坂の戦いでも総大将として織田氏との戦いを優位に進める。

・1549年安祥城に侵攻し織田信広(信長の兄ちゃん)を捕虜とし、

この時織田氏に強奪されていた人質の松平竹千代(のちの徳川家康)と交換する。

・1553年に今川氏の分国法(領国内を統治するための法律)である

「今川仮名目録追加21箇条」の制定。

・1554年武田氏。後北条氏との「甲相駿三国同盟」の締結に尽力。

この他領内における寺社・宗教の統制、商業政策なども行なった。


翌1555年長慶寺にて没。享年60。。。


おぉっとΣ(・ω・ノ)ノ!!!

長慶寺は「花倉城(その1)」で行ったあのお寺じゃん!!

だからお墓があったのですね(・∀・)